石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史32 阿弥陀寺の御三階櫓

2007年01月21日 | 会津の歴史

若松城で唯一現存する建物「御三階」 会津若松市阿弥陀寺 未指定

福島県会津若松市七日町 阿弥陀寺 会津若松市ICから10分 内部見学不可

会津古城研究会長 石田 明夫

只見線七日町駅、駅舎向かい

160701_030阿弥陀寺は、蒲生秀行公の慶長8年(1603)良然上人が建てた浄土宗の由緒ある寺院。大伽藍であった寺院も火災や戊辰戦争で建物は焼失しています。そのため、戊辰後に、境内に若松城内にあった「御三階」が移され本堂として使用されていましたが、現在では本堂は新しくなっています。若松城は、戊辰戦争で焼失はしませんでしたが、敗戦国の城として明治7年に建物の取り壊し決定され、取り壊し前に城内で博覧会が実施され、その後払い下げられました。城内にあった建物は、撤去され、茶室が解体されて床柱などが森川家に移され、現在は城内に復元されて県指定となっていますが、当時の建物は、寺や商家、農家の門や蔵、倉庫などに転用され現存するものは、「御三階」しかありません。本丸東側の石垣上に建てられた櫓で、外見三階、内部四階の建物。内部の床板は、鶯張りとなり、三階と二階との階段は、跳ね上げ式となり、三階へ階段を収納し、四階へは昇れない構造になっていました。城内では会議に使用されています。また、入口の玄関部分は、本丸の大書院玄関部分を付け足したものです。現存する若松城の建物としては、当時のものとして唯一であり、貴重なものですが未指定です。阿弥陀寺は、会津藩士の受難者の多くが埋葬された寺院で、飯盛山から移された大仏もありましたが、大仏は戦争に供出されています。また、新選組の斉藤一、後の藤田五郎の墓もあります。

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会津の歴史31 八田野一里塚

2007年01月20日 | 会津の歴史

会津若松市の一里塚「八田野一里塚」 会津若松市河東町

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市河東町八田   磐梯河東ICから5分 日橋川沿いの旧街道

060416_011 会津藩では、藩の記録である『家世実紀』によると、寛文7年(1667)4月1日、幕府から約4キロ毎に、主要街道に一里塚を築くよう命じられます。会津藩では、若松大町四ツ角の「札之辻」を基点に計測されて造られました。そのため、隣接する藩境では、一里以上のものや1キロに満たないものもあります。八田野一里塚は、二本松街道に造られたもので、若松からは二里(約8キロ)にあたります。八田文書によると寛文10年(1670)に延べ571人を動員して造られ、塚の上には榎が植えられましたが今はありません。左右現存しているのは、会津若松市内では、市指定の湊町赤井、未指定の湊町高坂、1基のみでは、大戸町上小塩、一箕町松窪があります。市内で最も良く残されているのは八田野一里塚です。

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会津の文化10  歳ノ神

2007年01月16日 | 会津の文化

歳ノ神「賽ノ神」 会津地方

会津古城研究会長 石田 明夫 style="color: #996633;">福島県会津若松市高野町平塚

070116_023 全国的には、「どんど焼き」と言われていますが、会津では「歳の神・サイノカミ」と呼ばれいますが旧暦の大晦日の行事で、本来は「塞ノ神」と表していましたが、今では「歳の神」(本来の意味が無くなってきました)と表記しています。黒い灰を、顔などに他人から塗られると、厄除けになるとされていましたが、今では会津では黒い灰は塗らなくなりました。また、男女二つ(大小)造っていましたが、今では1つだけとなっています。心棒は他の集落や神社などから御神木と称して運び出し、竹や豆殻をいれ、勢い良く音がする(どんどんと音がすることから「どんと焼き」ともいう)ようしました。実施日は、旧暦で実施していましたが、今では新暦となり13日・14日・15日・16日に実施することが多いようです。

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会津の文化9 会津の俵引き

2007年01月13日 | 会津の文化

会津坂下(あいづばんげ)町・会津美里町の俵引き 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県河沼郡会津坂下町 磐越道会津若松・会津坂下ICから20分

会津坂下町(14日)や会津美里町(昔は14日でしたが、現在は第2土曜日)で毎年開催される俵引きは、豊作を願う新年の祝いの行事で、至徳元年(1584)に葦名直盛が、会津若松市の大町(現在の米代一丁目国道118・後現在地に大町は移る)で住吉神社を祀り10日に市を開催していたのが始まりで、商人司(代表)の簗田氏が仕切っていました。文禄元年(1592)には、蒲生氏郷が現在地へ大町を移し初市も大町へ移しました。その時、俵引きをして祝ったのが会津の俵引きの始まりです。俵引きは、磐梯町の舟曳き祭りが、会津の俵引きの古い形態になります。会津坂下町の初市が14日であったことから、その日に合わせ、役場前の通りで東西に分かれ引き合って祝ったのが現在まで続いています。

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会津の城25  冬の鹿垣防塁跡

2007年01月12日 | 会津の城

伊達政宗に対抗し築いた萱峠「鹿垣防塁跡」 北塩原村

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村大塩  会津若松市ICから40分

070112_046天正13年(1585)、裏磐梯の桧原湖から会津に入る米沢街道(現村道)沿いの萱峠には、伊達政宗の会津侵攻に対抗し、会津の葦名氏が築いた防塁跡が標高850メートルの萱峠にあります。長さ163メートル、伊達政宗方面に対し高さ20メートル、内側の会津方面で5メートルの高さを持つ防塁で、柵が築かれていました。戦国時代の大規模な防塁は全国的にも珍しいものです。

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