石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争25 戸ノ口原の戦い1

2018年05月27日 | 会津の歴史


戸ノ口原の戦い1

 会津古城研究会長 石田明夫 

 1868年8月22日『薩軍出軍戦状』によると、西軍の薩摩藩は母成峠を出発し、猪苗代町の木地小屋で休息し、各隊は十六橋を越え戸ノ口まで進軍しています。城下では『史談会速記録』によると、22日の朝5時には、母成峠の敗戦の知らせが城内に届き、直ちに戸ノ口へ佐川官兵衛と白虎隊、奇正(勝)隊、回天隊、誠忠隊らを派遣、大寺口へは萱野権兵衛と桑名藩を派遣、背炙り峠東には西郷頼母と水戸兵を派遣することを決定します。その決定は、融通寺町にいた桑名藩兵にもすぐに伝えられました。
 それでも兵力が足りないことから臨時招集された敢死隊(かんしたい)がいて『懐旧談』によると、その兵力は町人農民が多く、百石で召抱えるとの約束で戦いに参加し、訓練や戦いの経験も無く、槍を持って行ったのです。
 城下では『若松記』によると、会津藩の精鋭部隊は母成峠以外の勢至堂や山王峠などの国境にいて、城下を守ることは不可能だったため西軍が迫るなか、午前6時頃に藩主自らが出陣を決意したという。
 白虎隊は22日朝『会津戊辰戦争』で、一番隊と二番隊に登城令があり、正午までに武具を用意し、三ノ丸へ詰めよと命令が出されます。当時藩主の警護は、一番隊と二番隊が交互にあたっていて、その日は二番隊が当番だったことから士中二番隊が出陣することになったという。
 また、15歳以下の少年たち40数名は、午後3時頃、出撃したいと滝沢本陣へ向うと佐川官兵衛から城へ帰るように命じられています。
 白虎隊37名は、滝沢本陣において容保公から出撃命令を受け、強清水の東、戸ノ口原に向けて出発し、菰土(こもつち)山には、午後4時頃に到着しました。


写真は、猪苗代湖西側、上強清水にある会津藩の白虎隊がいた陣地跡「菰土山」
会津古城研究会で草刈りをしているので、見学可能です。
遺構の発見は 石田明夫
周辺には、会津藩が構築した遺構が、8カ所あります。

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戊辰・会津戦争24 母成峠の戦い2

2018年05月23日 | 会津の歴史


母成峠の戦い2

 会津古城研究会長 石田明夫  

 1868年8月21日、旧幕府の大鳥圭介が残した『南柯紀行』に、「六つ半頃(7時)なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり。是れ敵来るなり」と、朝7時に西軍が進攻してきたのです。西軍は、南の石筵(いしむしろ)から本道を進み、他方は北の山上、勝岩(かついわ)から進行して来たのです。大鳥圭介は、北の勝岩方面へ移動し、勝岩の下には旧幕府軍第一大隊と新選組がいたのです。「敵群り至り、弾丸雨よりの甚だしく」と、激しい銃撃戦でした。『北原雅長の史談会速記録』によると、会津藩一番総頭の田中源之進が峠の頂上にいて、石筵川を隔てた立岩に大鳥圭介がいて、立岩の下に新選組の土方歳三が戦争をしていたという。その時間は、午前11時頃だったという。会津藩では、三段構えに陣地を築き、中軍山と八幡山、峠頂上には、ざんごう跡と砲台跡が残されています。
 熱海町石筵にある顕彰碑に、猟師の道案内記録があります。橋本次郎七は、西の葵(わさび)沢からの道案内をしています。
 土方歳三は『土方歳三書簡』で、夜五つ(午後8時頃)に、湖南にいた会津藩家老内藤介衛門と御霊櫃峠にいた砲兵隊の小原宇右衛門へ手紙を出しています。「明日(22日)朝までには必ず猪苗代へ押し来たり、明日中には若松まで押し来るだろう」と予想し、猪苗代東岸から進行してほしいと連絡したのでした。会津藩の主力は、母成峠に西軍が進攻してくるとは予想しておらず、中山峠や御霊櫃峠のある湖南にも進攻して来るのでは予想し、動かなかったのです。
 猪苗代城は、城代の高橋権太夫が「一小隊では何の効果もない」と思ったことから、宝物を本城へ送り、土津神社とともに火を掛けて引上げてしまいました。

写真は、母成峠頂上に430残る会津藩構築の塹壕跡・発見 石田

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戊辰・会津戦争23 母成峠の戦い1

2018年05月07日 | 会津の歴史


母成峠の戦い1

 会津古城研究会長 石田明夫  

1868年8月4日、新潟県では、新発田藩が裏切り、五泉市の村松藩(3万石)が落城しました。6日には、相馬中村藩(6万石)が降伏、11日には、新潟県の村上藩(5万石)が降伏しました。そこで、会津藩の松平容保は、8月1日、から8月14日まで、福島県西会津町の野沢に出向き、越後方面のテコ入れに当たっていましたが、会津藩の東側、福島県の中通り方面の攻撃が激しくなったことから若松城へ戻ります。
 14日『山岡義昭日記』によると、猪苗代湖の湖南にある会津藩と郡山との境となる御霊櫃(ごれいびつ)峠では、大砲での砲撃戦がありました。17日には、猪苗代湖湖南の舟津にいた新選組の土方歳三らは、猪苗代城に向かい、旧幕府軍の大鳥圭介と合流します。
 西軍の進攻作戦は、御霊櫃峠や国道49号の北にある中山峠を攻めると見せかけて、母成峠(ぼなりとうげ)を本命とする作戦を持っていたのです。この作戦は、天正17年(1589)6月に伊達政宗が会津に進攻した時と同じ作戦をとったのです。
 8月19日、大鳥圭介と新選組らは母成峠に到着しました。20日、西軍約4千人は、母成峠の南側入口の石莚口、中山峠の中山口、三斗小屋の那須大峠、日光口の鬼怒川から同一歩調を取り進軍します。主力は部隊は、母成峠の石筵(いしむしろ)口で18小隊2千余人がいました。20日『会津藩大砲隊戊辰日記』によると「御霊櫃峠ニ柵ヲ設ケ、胸壁ヲ築キ作業中、石莚口敵来襲、会戦中トノ報アリ」と、会津藩主力の大砲隊は、母成峠ではなく、南の御霊櫃峠にいたのです。会津藩家老田中土佐と内藤介右衛門らは、西軍は二本松から会津ではなく仙台へ進攻すると判断を誤っていたのです。
 21日、母成峠には会津藩ら800人がいて、頂上には会津藩の田中源之進がいましたが、兵は農民がほとんどで、東の勝岩付近には旧幕府の第一大隊の大鳥圭介と新選組がいました。大鳥圭介は、萱原で緩やかな母成峠頂上を見て、ここを守備するには『南柯紀行』で「たとえ精鋭といえども2千人余が必要」と思ったのです。

写真は、新選組がいた勝岩会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ


戊辰・会津戦争22 会津藩魔の7月29日

2018年05月04日 | 会津の歴史


会津藩魔の7月29日

 会津古城研究会長 石田明夫  

 会津藩の戦いは、東の白河城と二本松城の戦いが良く知られていますが、西の越後でも激しい戦いがありました。そのなかで、7月29日は、東と西で、会津藩を左右した激しい戦いがあり大きな敗北をしたのです。
 7月28日『会津戊辰戦史』、西軍は、西軍に寝返った新発田藩預り沼垂港と海上の摂津艦ら三隻から、新潟港を守備する会津藩、米沢藩、仙台藩の六小隊(約300人弱)に砲撃をしたのです。『若松記節略』29日には、西軍300人が川上から押寄せ、信濃川西側の白山神社付近にあった会津藩陣地と新潟港は陥落したのです。この戦いで、米沢藩総督の色部長門が戦死し、米沢藩は、以後戦意を喪失し会津藩を裏切ります。
 また、同日長岡城は、『牧野忠毅(ただかつ)家記』に、西軍に再び攻められ「我兵遂ニ支持スヘカラサルルヲ知リ、乃チ弾薬諸機械ヲ火シ」と弾薬に武器に火を放って退却し、再び城は落城しました。
 さらに同日『七年史』に、東軍を裏切った三春藩は、二本松の阿武隈川東の小浜にいた西軍を先導し、二本松藩の主力部隊が須賀川方面にいた不意を突いて攻撃したのです。城には主力部隊がおらず、白虎隊より若い二本松少年隊が出撃するものの持ちこたえられず、藩主丹羽長国は米沢へ逃れ、家老丹羽一学は城に火を放ち自刃し落城しました。
 加えて、二本松城の落城の知らせ受けて、福島城の藩主板倉勝己(かつみ)も城を明渡し、米沢藩へ逃げます。また、仙台藩では『七年史』、弾薬不足を理由に、石筵(母成)峠から猪苗代に出て、桧原峠を越え、米沢へ帰ってしまいました。この日以後、仙台藩は戦意を喪失し、会津藩を裏切るようになります。

写真は、新潟港

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