石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津戦争10  白虎隊自刃の真相

2013年01月17日 | 戊辰・会津戦争

2013年1月16日、歴史秘話ヒストリアを見ました。放送内容は、現在の研究内容とは異なってるので申し上げます。

○山本家では、後に白虎隊の多くが八重に銃を教わったようになっていましたが、教えたのは白虎隊に入る前の伊東悌次郎で、八重は、機織をしながら教えていました。

○白虎隊が戸ノ口原へ持っていたのはゲベール銃といっていましたが、練習ではゲベール銃でしたが、戸ノ口原に持っていたのはヤーゲルのライフル銃です。

○戸ノ口原での当日が晴れているようになっていましたが、前日は雨、当日朝は小雨でした。

○戸ノ口原で戦う前日の22日、白虎隊が戦ったようになっていましたが、白虎隊は斥候のみで、戦っていません。

○戸ノ口原で最初に射撃したのは、白虎隊の篠田隊で、それも朝暗い5時半か6時頃です。

○白虎隊の最前線にいた時のざんごう跡が、現地に残っています。

○戸ノ口原には会津藩主力部隊のざんごう跡も150㍍残っています。

○白虎隊の篠田隊以外は、後方の水路に潜んでいました。

○戸ノ口原では、主力部隊と白虎隊は、はぐれたとなっていましたが、そうではなく、わざと最前線に行きました。それは、自刃した篠田隊です。

○食糧は、全くなかったわけでなく、飯盛山へ下る途中に、湊町赤井の小坂、金山地蔵前でわずかですが、みんなで分け合いおにぎりを食べていいます。

23日は、総指揮官の佐川官兵衛と白虎隊隊長の日向内記は居ませんでした。

○自刃は、19人と放送してしていました。自刃は17人です。1人・飯沼貞吉が蘇生しています。

○途中狙撃されたといいますが、滝沢峠の下で、敵と遭遇し、合言葉を掛け合っています。そしたら通じなかったので、永瀬雄治が撃たれたのです。

○飯盛山での自刃は、「城周辺が燃え、帰るところがない」ではなく、「敵に捕まると殿様や先祖に申し訳ない」という理由で、「武士の本分を明らかにした」いというものです。

○自刃の時間は、午後4時といっていましたが、午前10時から11時です。飯沼貞吉が伝えています。

○飯盛山の墓は、明治17年までは16人の墓で、23年に19人の墓となりました。

○新選組が神指城の如来堂で戦ったのは、20数名といっていましたが、13人であり誰も戦死していません。

上記の内容は、飯沼貞吉が残した「顛末記」などに書かれています。

石田 明夫

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