新選組・土方歳三会津を去る2
会津古城研究会長 石田明夫
旧幕府軍の大鳥圭介は、1868年8月21日(現在の新暦で10月6日)郡山市と猪苗代町の境目に位置する母成峠の戦いに敗北した後、裏磐梯の秋元原から桧原の雄子沢を経て大塩温泉に向かいます。『南柯紀行』には、道は悪く物資は乏しく困り果て、大塩宿に着くと、大きな家の内に入り、病人のために毛布を提供してもらおうとしますが、物資がなく、大鳥らが持参した毛布を出して貸して与える程であったという。
8月24日、大鳥圭介は、米沢藩に入り弾薬を借りに行こうとしますが、米沢藩では、標高1100メートルを越す桧原峠を下った綱木宿近くを封鎖し、入国を断わり、早々に帰るようと言われます。夜も近いので、談判して綱木宿に1泊の許可を取りますが、宿泊場所や兵糧の確保に窮し、弾薬は無いと断られ、米沢藩が変心したのを察したのです。
8月25日、兵を米沢藩の綱木宿から会津藩の桧原宿へ戻します。すると、帰り道、米沢藩が傍らの大木を倒し、街道を封鎖し始めていました。そのことから、桧原峠を完全に封鎖したのは、25日のようでした。
大鳥圭介らとともに米沢藩入ったのは、桑名藩主の他に、旧幕府の当時日本一の医師で、若松記で日新館大病院を指揮していた松本良順と土方歳三も25日に米沢に入っています。しかし、ことごとく米沢藩の協力は得られなかったのです。
『谷口四郎兵衛日記』によると、大塩温泉に戻った土方は、会津に残ることにした大鳥に対し、
「新選組のことをよろしく頼む」
と依頼し、仙台藩の協力を得ようと、土湯峠を越えて行きます。ここでいう新選組は、会津に残った会津新選組14名のことで、残った斎藤一は、当時山口次郎と名乗り
「一たび会津にきたれば、今落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠儀にあらず」
の言葉を残し、大鳥圭介とともに会津に残ります。
大鳥圭介と齋藤一は喜多方市の塩川へ行くことから、土方と齋藤一が分かれたのは、26日で、会津新選組は、9月22日の開城後も南会津で会津藩が降伏する9月27日まで戦い、斎藤一は、一ノ瀬伝八の名で降伏し、塩川送りとなっています。
写真は、土方歳三と斎藤一が8月26日に分かれた福島県耶麻郡北塩原村大塩の大塩裏磐梯温泉
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