石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争28 戸ノ口原の戦い4

2019年02月13日 | 会津の歴史


戸ノ口原の戦い 4

 会津古城研究会長 石田明夫 

 慶応四年(1868)8月23日、現在の暦では10月8日、戸ノ口原の戦いが早朝から開始されます。『戊辰戦争実歴談』によると、前日は「大暴風雨」で雨が降り、長州藩士が残した『陣中日記』によると23日は、朝から少し雨で、後に晴れたという。
 夜が明け切らない真っ暗な朝4時頃『若松記』によると、西軍本隊が猪苗代を出発したという。前日には、すでに戸ノ口村の丘陵に土佐藩と薩摩藩、大垣藩兵の先鋒が陣取っていました。会津藩最前線の奇勝(正)隊は、戸ノ口村の南の丘陵に後退して対峙し、夜明けを待っていました。夜が少し明るくなった暁、5時30分頃、西軍本隊が十六橋に板を掛け、大小銃で激しく攻撃し進攻して来たのです。
 白虎隊は、旧街道を北と南に分かれ、挟み撃ち作戦を取ります。前日、北側の篠田小隊は単独行動の許可を得て、強清水の菰土山の陣地を飯沼定吉が残した『顛末記』や酒井峯治が残した『戊辰戦争実歴談』によると、敢死隊や新選組に譲り、篠田小隊は、姥山の前線に移動し、山内隊は、南の赤井谷地西側に移動して、布陣しました。しかし、前日、白虎隊隊長の日向内記は、強清水の口伝によると、前日夜10時頃、強清水郷頭の荒井家に集合が命じら、諸隊の隊長らが作戦会議をしたのです。そこで指揮官の佐川官兵衛らと相談し、朝4四時頃に前線に戻ろうしますが、日向隊長は、白虎隊の南側に布陣した山内・原田小隊のもとへ行こうとし、笹山原方面に行ったのですが、道に迷い戻ることができませんでした。そして、佐川官兵衛は、容保公のいる滝沢本陣へ行き『戊辰戦争見聞略記』によると、そこで容保公から酒もらい寝込んでしまい、戸ノ口原には戻らなかったのです。
 『顛末記』に、白虎隊篠田小隊は、「明ければ討死と覚悟し、さんさんごご団らんし、食べ物を腰から取出して食べ、寝る間もなく、東の天(空)がまさに明けなんとす」とあり、寝ないで朝を迎えたという。

 写真は、山内・原田小隊がいた、新四郎堀。会津若松市湊町の赤井川から引いたもので、現在でも強清水の用水として利用されています。


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