石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争30 戸ノ口原の戦い6

2019年02月16日 | 会津の歴史



戸ノ口原の戦い 6

 会津古城研究会長 石田明夫 

 白虎隊で生き残った飯沼貞吉が残した『顛末記』によると、1868年8月23日、篠田隊は、高さ二尺から三尺ある溝に隠れて撃ち「敵弾を受けたる者は、いずれも胸部以上であり、「即死者が最多く、屍は累々と堆積し」と、二本松裏街道北側の篠田小隊は、銃撃戦で西軍の銃撃を受け、弾は胸より上にあたり、複数の即死者もいたのでした。 
 街道南側の原田・山内小隊は新四郎堀から銃撃し、『懐舊談』に、
「左軍(篠田隊)では、激しく戦う音が聞こえ、鉄砲の弾が、ピュツピュツと耳を掠めますので、なに糞と思って当方(原田隊)も暫く夢中になって対戦いたしていましたところ、隊長の声で『引上げろ』と聞こえるのです。見ると誰も怪我をしていらんので、又味方は負けてはいらん様なので、何だか訳も分かりませんが、隊長の命令で仕方なくとうとう退却致しました。」
とあります。『原田伊織翁の直話』では
「明け方のほの暗い時、七人を率いて溝渠にたどりて、遠く進み南方より射撃した。まもなく本隊(山内隊)は敵に追われ、自分らは、あまりに進み居たため重囲のうちに陥った。止むを得ず、迂回して原街道に出た」
と、湊町赤井の穴切に退却しました。そこから下を見ると、沓掛峠では、所々に屍あり、坂下には多数の敵兵がいたので、赤井山(金山)に登ったというのです。
 篠田小隊は、『顛末記』によると、
「引けの号令を聞くや、各隊士は溝内を出て篠田に尾して退却す。行くこと約二十丁ばかりにして、初めて敵兵の追撃を脱れたり。然れども砲声はなお遠く聞こえけり。ここに何人か供養の為建立せる見上げるばかりの大なる地蔵あり。其の周囲皆芝生にして、足を休むるに敵せり。人員点検するに僅かに十六名なり」
 と、戦場から、約2キロ後退し、強清水を通り、湊町赤井の食糧基地だった小坂に出て、金山下の地蔵前で生存16名を確認し、地蔵前で、おにぎりを持っていたのを、石の窪みに入れ、皆で分け合って食べたというのです。そして、若松城を目指し、赤井西側の丘陵上の尾根道に向かったのです。

 写真は、篠田小隊が地蔵前で休息し、おにぎりを分け合って食べた会津若松市湊町赤井の金山下で、後方に食糧基地だった小坂地区が見えます。今でも会津戦争時代にあった茶屋3軒の建物があります。地蔵は現在では代替わりして西側にあります。


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