石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争27 戸ノ口原の戦い3

2019年02月08日 | 会津の歴史


戸ノ口原の戦い 3

 会津古城研究会長 石田明夫 

 戸ノ口原から生残って城に入った白虎隊の酒井峯治が残した『戊辰戦争実歴談』によると、1868年8月22日夕方、4時頃、強清水を過ぎ、約一丁半(実際は、清水から1千メートル、上強清水集落からは約200メートル)行った左側の小山・菰土(こもつち)山に登り、そこに穴を掘り胸壁(ざんごう)を築いたという。菰土山には、その時掘られた塹壕跡が、丘陵山城のように三段の平場が街道を見下ろすように残されています。
 西軍を防戦する策として、日橋川にかかる十六橋の防御があり、『若松記』によると奇正(勝)隊が、しきりに橋を壊そうとしたが、僅かに橋板を取るに過ぎず、後退して戸ノ口原に布陣したという。
 西軍方の戦没50年祭にまとめられた『維新戦役実歴談』には
「十六橋は、石橋にて、幅三尺に長さ一間半くらいな石が三枚渡してある極めて危険な橋」と書かれ、そのため
「家屋を壊してその柱を渡してそれを藤でからげて畳をおいた」
とあり、渡ることができたのです。橋は、会津藩奇正隊で一部壊したことは間違いないようですが、西軍の進攻が早かっため落とすことはできませんでした。
 薩摩藩士の萩原源五郎『陣中日記』によると、薩摩藩の4・5番隊、兵農隊、3・4番隊は、進んで賊(東軍)を追い、十六橋を渡り、会津藩と隔てること一里余(実際は約700メートル)の野に宿泊しました。
 『戊辰戦争実歴談』には、白虎隊が戸ノ口原に進むと、西軍は4・5百メートル離れて数千人居るのが認められ、十六橋近くにいた旧幕府の衝鋒隊15・6人がラッパを吹いて向かったのです。
 そこで側の山(レク公園のトイレ付近)に登り、身を隠して敵の様子をうかがうと、既に西軍は、胸壁を築いていたというのです。そこを攻撃すると、敵は退きますが、大砲を引いて来て攻撃してきました。会津藩の敢死隊は、和銃と槍で進んで来て戦っていました。白虎隊はその後、姥山付近に後退したのです。

 写真は、猪苗代湖から出る唯一の川、日橋川にかかる要衝の十六橋です。幕末には、両側の橋の中間にありました。西軍と会津藩の戸ノ口原にある陣地跡の発見は石田明夫です。 
 
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