石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争31 戸ノ口原の戦い時の会津藩主

2019年02月20日 | 会津の歴史
   



戸ノ口原の戦い時の会津藩主 

 会津古城研究会長 石田明夫 


 1868年8月23日、現在の10月8日、会津若松市一箕町の滝沢峠下に国指定重要文化財、国史跡の滝沢本陣では、松平容保公らが、敗走して滝沢峠を下る会津藩兵を見て驚いたのでした。桑名藩兵が残した『戊辰戦争見聞略記』によると
「会ノ佐川官兵衛、直ニ援刀進テ、退兵ニ向テ曰」
「両君是ニ在テ自ラ令ヲ下サル。是ヲ叛キ公ヲ捨テ退ハ、何人ソヤ、不忠不義ナル者」
「速ニ斬ント乱兵ノ中ニ飛入ル。」
「其勢ヒ雷ノ如、刀ヲ振フ電ノ如シ。兵大奮ヒ進ヒ戦フ。」
と、戸ノ口原での総指揮官のはずであった佐川官兵衛は、前日二十二日夜、滝容保公と桑名の松平定敬(さだあき)公と会い、二十三日朝は戸ノ口原には行かず滝沢本陣にいたのでした。そして、滝沢峠を下ってくる会津藩兵を見て、
「不忠不義なる者」と、烈火のごとく怒り、会津藩士を峠に追い返そうとしたのです。しかし、それは無駄なことで、指揮官のいない戸ノ口原の戦いは大失敗で、官兵衛の大汚点となったのです。
 容保公と弟の桑名藩主松平定敬公は
「両公共ニ進テ令ヲ下ス。敵近ク進ミ烈発ス。公馬前ニ弾丸飛フ、雨ノ如シト雖(いえども)トモ、更ニ一歩モ動ス、実ニ薄氷ヲ踏カ如シ。」
と、馬で滝沢峠に進み、雨のように飛んでくる弾も気にせず、一歩も動かないで指揮をしていたのでした。
 西軍の若松城下進攻が現実となった今、両藩主は
「会公ハ入城セラル。我公ハ直ニ米沢城ニ赴ルゝハ何ノ故ソヤ。是ノ場ニ至リ、兄弟共ニ籠城シテ協力、決戦死ヲを共ニス、是義ナレハ則然ル可シ。」
と容保公は、若松城に入り籠城し、定敬公は、米沢藩へ援軍を頼みに行くことにしたのでした。本来なら、兄弟ともに籠城すべきところ、米沢藩と義理の兄弟関係だった定敬公は、米沢藩に最後の頼みとして、援軍を期待したのでした。しかし、米沢藩は、すでに会津藩を裏切り、西軍方になびき、会津との唯一の峠であった標高1,100メートル以上ある桧原峠を封鎖したのです。

 写真は、国重文、国史跡の滝沢本陣。米沢藩が封鎖した桧原峠。米沢市と裏磐梯の北塩原村との境にある米沢街道桧原峠頂上の「境塚」、高さ4メートルあり、車で行ける道路からは徒歩で20分。

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