戸ノ口原の戦い 5
会津古城研究会長 石田明夫
飯盛山で蘇生した白虎隊の飯沼貞吉が残した『顛末記』によると、1868年8月23日早朝、隊長の日向内記は、隊に戻らなかったことから、
「一同顧みてあ然たり。この時、早くも教導の一人なる篠田儀三郎、揚言すらく、吾は教導の首席なるを以って、代わりて隊長の任務を執らんと。直ちに気を付けの号令を発し、人員点呼を行えり。その点呼終わらずや否や進めの号令を発せり」
と、篠田が、ざんごうを出で「進め」と号令を発しました。すると、銃声が次第に間近く聞こえたのです。
「既に戸ノ口の味方を打ち敗り、若松街道をまっ直ぐに発射しつつ進み行けり」
と、白虎隊より前線にいた奇正(勝)隊や敢死隊との戦いが始まり、それらの隊を難なく撃ち破り西軍が進攻して来たのです。その時の戦死者墓が、戸ノ口原戦奮戦の地碑がある東側にまとめられています。
そこで、篠田隊は、身を隠し待伏せしようとしましたが、身を隠す所がなかったのです。
「幸いに水なき溝あり」近くにあった溝に隠れることにしたのです。西軍が「距離百米ばかり」に近づいた時、「撃て」と篠田が命令したのです。西軍は、どこから撃たれたか分からず一時沈黙後、ただちに激しい銃撃が返されました。
一方、篠田隊以外の南側から挟み撃ちにしようとし原田・山内小隊は『戊辰戦争実歴談』によると
「側ヨリ敵ヲ銃撃スルモ利アラズ」「新堀ノ所ニ至リ、身ヲ潜ム。而シテ土提ノ高サ五・六尺、其上ニヨジ登リ、敵ノ来ルヲ狙ヒ、立打ヲ為セシハ独リ石田和助ナリ。時ニ伊藤俊彦ハ見エズ、戦友一同心痛シ居ル所へ桟俵(さんだわら)ヲ被リ来レリ、其気ノ勇壮ナルニ驚カザルハナシ」
と、街道南側にある新四郎堀に身を南側から、側射していたのです。堀は、前日の大暴風雨により、水が浸していました。石田和助がここでは奮戦していたようで、この時点においては、山内・原田小隊に属していたのです。
写真は、道路が旧49号・二本松裏街道で、西軍が進行してきました。篠田小隊は左側の原野で戦いました。当日は雨や霧で、後方の磐梯山は見えませんでした。
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