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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争9 白虎隊の誕生

2017年05月14日 | 戊辰・会津戦争

「白虎隊の誕生」

  会津古城研究会長 石田明夫   
                  
 慶応四年(1868)2月4日、松平容保公は、家督を喜徳(よしのり)公に譲り恭順を表しますが、24日には、年少のためす政務は再び容保に託されています。7日には『会津戊戦史』によると、佐川官兵衛を司令官として、18歳から35歳までの江戸詰め会津藩兵にフランス人を招き訓練をしました。また、会津国境を守るため地方御家人や農兵による防備を定めたのです。同日、旧幕府兵約2000人(後の衝鉾隊・しょうほうたい)が会津藩援護のため江戸から会津へ向かいました。2月21日には、『会津藩大砲隊戊辰戦記』によると、江戸の小川町で、会津藩砲兵隊長の山川大蔵らがフランス人の「シャノアン」「メツリノー」から大砲隊だけ特訓を受けています。
 3月10日、会津藩は、フランス式に軍政改革をしました。『七年史』によると、服装は、すべて西洋式の黒の洋装にしましたが、名称だけは中国に伝わる東西南北の四神名に例え、年齢によって南神の「朱雀(すざく)隊」、東神の「青龍(せいりゆう)隊」、北神の「玄武(げんぶ)隊」、西神の「白虎隊」に編成し、さらに身分による階級でもって区分したのです。それぞれの隊は、大よそ100名編成で「一番隊」と称する中隊に分けられていました。その他砲兵隊、土工兵と呼ぶ築城兵などがあり、元帥、軍艦、軍艦副役、幌役、職司と、西洋式の役職も定めました。合計31番隊、約2800名の正規兵が誕生しました。
 白虎隊は、数え16・7歳が入り、中隊は、他の隊とは異なり半分の約50名編成となっていて、15歳以下は、「幼年組」として位置づけられていました。その号令は、フランス人から教練されたことから「アン」「ドウ」「トロワ」とフランス語でした。

写真は東京「皇居和田倉門脇にあった会津藩上屋敷跡」

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戊辰・会津戦争8 容保公会津に帰る

2017年05月11日 | 戊辰・会津戦争
「容保公会津に帰る」

  会津古城研究会長 石田明夫   
                  

 西軍は、慶応四年(1868)1月16日、秋田藩主の佐竹氏、翌日には『仙台藩史』によると仙台藩主の伊達氏に対し、会津藩などの征討を命じています。同日、容保公は、鳥羽伏見の負傷者が集まっていた江戸の三田会津藩下屋敷に見舞いに行きました。20日には、徳川慶喜(よしのぶ)が見舞いに来て、その時、大坂城から退却したことを攻めた家臣がいたという。
 2月12日慶喜は、恭順の意を表すために、江戸城を離れ、上野の寛永寺大慈院に移ります。翌日、会津藩家老の神保修理は、江戸の会津藩下屋敷で、大坂城より将軍と容保公が大坂城を出たことを責めたことに対し、切腹を命じられています。その悔しさの和歌は
「帰りこん時 親のおもうころ
  はかなきたより きくべかりけり」
と「親のおもうころ」と残されています。
 同日、西郷頼母は、江戸を出発したのです。
16日容保公は、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)に、恭順、謹慎、沙汰を待つことを記した朝廷への謝罪状を託し、江戸の上屋敷和田倉邸(東京駅から西へ皇居入る和田倉門脇)を出て会津へ向いました。また、この日容保公は、藩士にフランス式軍事教練を命じ、江戸小川町で訓練をしています。そして、梶原平馬らは、横浜でプロシアのスネル兄弟から小銃や大砲を購入しています。18日から3月1日の間、会津藩士と家族が江戸を離れています。
22日容保公は、会津へ到着し『諸月番申渡書』によると、27日には家臣に対し、「薩長(薩摩・長州)二藩は、私怨を酬いろうとして王師(天皇)の名を借りて、兵を我に加えようとしていると忠告があり、非常に備えよ」と、非常事態宣言をしました。

写真は東京「会津藩下屋敷跡、三井倶楽部庭園」

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戊辰・会津戦争7 容保公江戸に帰る

2017年05月08日 | 戊辰・会津戦争

「容保公江戸に帰る」

  会津古城研究会長 石田明夫   

 鳥羽伏見の戦いが勃発した時会津藩の兵力は、『会津戊辰戦争』によると、田中土佐隊の520人や大砲隊260人をはじめ920人であり、容保公の弟桑名藩は、約400人でした。慶応4年(1868)1月6日、京都淀の戦いで敗れた会津藩兵は、大坂へ敗走しました。鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士261人の慰霊碑は、京都黒谷光明寺西雲院にあり、毎年慰霊祭が行われ、例年6月上旬の日曜日となっています。
 鳥羽伏見の戦いで、錦旗が出たことを聞いた徳川慶喜は『会津戊辰戦争』によると、天皇に逆らうことを嫌い「我が命令を用ひざるが腹立たしさに如何やうとも、勝手にせよといひ放しこそ一期の不覚なれ」といい、従者にも「勝手にせよ」と言い、無責任さを露呈したのです。六日、『徳川慶喜公伝』には、夜十時頃慶喜らは、秘かに大坂城の後ろの門から出て容保公は、同行させられるとは思っていなかったという。そして、アメリカの艦船に乗込み、幕府の開陽丸に乗換え、8日江戸へ発したのです。
 慶喜と容保公は12日、『若松記草稿』によると、江戸の浜御殿(浜離宮)に上陸し江戸城に入り、容保公は上屋敷の和田倉邸に帰ります。その時容保公は、江戸に帰った理由を家臣に明かすことはなかったという。御辰韓は、家臣の浅羽忠之助が大坂城より秘かに持出しています。
 会津藩兵は、将軍や藩主がいなくなったことで8日、陸路で紀州へ向いますが、紀州藩は、入国を拒否し、陸路で入った藩士185八人を乗船させ江戸へ送り込み、西軍に恭順したのです。15日、正角丸は、江戸の品川に入港し、負傷者は三田下屋敷へ入りました。

写真は京都「黒谷・光明寺西雲院の会津藩戦死者慰霊碑」

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戊辰・会津戦争6 鳥羽伏見の戦い

2017年05月06日 | 戊辰・会津戦争

「鳥羽伏見の戦い」

  会津古城研究会長 石田明夫   

 王政復古が一般に発令された慶応3年(1867)12月9日、『京都守護職始末』によると、将軍徳川慶喜(よしのぶ)と松平容保公らは、12日に京都を離れ、会津藩士や桑名藩士を率いて大坂城へ避けました。しかし、旧幕府方には、政権を渡したことに反対する強硬派も多数いたことから、その年の11月に閉鎖されていた伏見奉行所へ終結したのです。そこには、会津藩や新選組も集結しました。また、会津藩は、慶応4年(1868)1月2日、伏見の東本願寺の伏見御堂に大坂から戻って援軍に来た約200人が集結しました。
 1月3日、旧幕府方は、薩摩藩の不届きな行動に対し、強硬派の強い要請により慶喜は、京都へ進軍を決め、それを阻止する西軍は、伏見の西、鳥羽の小枝橋でとうとう砲撃を開始し、鳥羽の戦いが始まったのです。そこから東約3キロに位置している伏見奉行所と、北の御香宮で対峙していた薩摩藩へも砲撃音が届き、薩摩藩の大山巌(いわお)が率いる大砲隊が、会津藩と新選組が居た伏見奉行所へ攻撃を開始し、伏見でも激しい戦いとなったのです。
 兵力は、薩摩藩を主力とする西軍が約5千人、旧幕府軍は3倍の1万5千人で、会津藩では、伏見の薩摩藩邸を攻撃しましたが、新鋭の武器で装備した薩摩藩らの激しい攻撃に会い、伏見奉行所は焼け落ちました。
 4日、突如、錦の御旗(みはた)の「錦旗」(きんき・長州藩の絵師に描かせたもの)が掲げられ、旧幕府軍の兵士は、朝敵になるのを恐れ、士気が大きく低下し、また、淀城にいた徳川譜代の稲葉正邦(まさくに)は、入城を拒否したことにより旧幕府軍は大敗したのです。この戦いで、山本(新島)八重の弟三郎は、6日、八幡の戦いで負傷し、江戸の会津藩中屋敷(汐留)へ送られ16日死去しています。

写真は京都「伏見奉行所跡」

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戊辰・会津戦争5 大政奉還と王政復古

2017年05月04日 | 戊辰・会津戦争

「大政奉還と王政復古」

  会津古城研究会長 石田明夫   

 徳川幕府最後の将軍慶喜(よしのぶ)は、水戸藩徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれ、一橋家の養子となります。慶応二年(1866)6月の第二次長州征伐で、薩摩藩は出兵を拒否し、薩長同盟が加速されます。同年7月20日、将軍家茂の病気で将軍職を継いだ慶喜は、第二次長州征伐を休戦し、開国派であったことから、フランスの協力を得て、横須賀に造船所を開設し、軍政の近代改革、神戸の開港と西洋文明を取り入れた政治改革を進めました。また、慶応三年に開催されたパリ万国博覧会へ弟の昭武(あきたけ)ら33名の使節団を送り、会津藩からも横山主税(ちから)と海老名季昌(すえまさ)の2人が参加しています。
 諸外国からの開国に迫られ、また薩長の力が強くなり、幕府の力が低下していることに気付いた慶喜は、政権を朝廷に返上することで、倒幕の動きを抑えようとします。10月13日には、『京都守護職始末』によると、朝廷から、薩長両藩に対し、会津と桑名藩の誅誅(ちゆうばつ)の密勅が出されたという。これが戊辰・会津戦争の始まりです。慶喜は、坂本龍馬の影響を受けた土佐の後藤象二郎らにより、公武合体で新たに体制づくりを模索し、土佐藩主の山内豊範の意見を聞き、10月16日「大政奉還」をしたのです。
 しかし、薩長は、関ケ原の戦いで、徳川家康に敗れた恨みが続いていたこともあり、倒幕の動きを加速し、12月8日、「王政復古」の大号令を発しました。慶喜は、幕府と朝廷の合同による政治体制になると踏んでいたがもろくも崩れ去り、265年の江戸時代幕府は終わったのです。
写真は京都「二条城」

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