「大政奉還と王政復古」
会津古城研究会長 石田明夫
徳川幕府最後の将軍慶喜(よしのぶ)は、水戸藩徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれ、一橋家の養子となります。慶応二年(1866)6月の第二次長州征伐で、薩摩藩は出兵を拒否し、薩長同盟が加速されます。同年7月20日、将軍家茂の病気で将軍職を継いだ慶喜は、第二次長州征伐を休戦し、開国派であったことから、フランスの協力を得て、横須賀に造船所を開設し、軍政の近代改革、神戸の開港と西洋文明を取り入れた政治改革を進めました。また、慶応三年に開催されたパリ万国博覧会へ弟の昭武(あきたけ)ら33名の使節団を送り、会津藩からも横山主税(ちから)と海老名季昌(すえまさ)の2人が参加しています。
諸外国からの開国に迫られ、また薩長の力が強くなり、幕府の力が低下していることに気付いた慶喜は、政権を朝廷に返上することで、倒幕の動きを抑えようとします。10月13日には、『京都守護職始末』によると、朝廷から、薩長両藩に対し、会津と桑名藩の誅誅(ちゆうばつ)の密勅が出されたという。これが戊辰・会津戦争の始まりです。慶喜は、坂本龍馬の影響を受けた土佐の後藤象二郎らにより、公武合体で新たに体制づくりを模索し、土佐藩主の山内豊範の意見を聞き、10月16日「大政奉還」をしたのです。
しかし、薩長は、関ケ原の戦いで、徳川家康に敗れた恨みが続いていたこともあり、倒幕の動きを加速し、12月8日、「王政復古」の大号令を発しました。慶喜は、幕府と朝廷の合同による政治体制になると踏んでいたがもろくも崩れ去り、265年の江戸時代幕府は終わったのです。
写真は京都「二条城」
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