「容保公江戸に帰る」
会津古城研究会長 石田明夫
鳥羽伏見の戦いが勃発した時会津藩の兵力は、『会津戊辰戦争』によると、田中土佐隊の520人や大砲隊260人をはじめ920人であり、容保公の弟桑名藩は、約400人でした。慶応4年(1868)1月6日、京都淀の戦いで敗れた会津藩兵は、大坂へ敗走しました。鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士261人の慰霊碑は、京都黒谷光明寺西雲院にあり、毎年慰霊祭が行われ、例年6月上旬の日曜日となっています。
鳥羽伏見の戦いで、錦旗が出たことを聞いた徳川慶喜は『会津戊辰戦争』によると、天皇に逆らうことを嫌い「我が命令を用ひざるが腹立たしさに如何やうとも、勝手にせよといひ放しこそ一期の不覚なれ」といい、従者にも「勝手にせよ」と言い、無責任さを露呈したのです。六日、『徳川慶喜公伝』には、夜十時頃慶喜らは、秘かに大坂城の後ろの門から出て容保公は、同行させられるとは思っていなかったという。そして、アメリカの艦船に乗込み、幕府の開陽丸に乗換え、8日江戸へ発したのです。
慶喜と容保公は12日、『若松記草稿』によると、江戸の浜御殿(浜離宮)に上陸し江戸城に入り、容保公は上屋敷の和田倉邸に帰ります。その時容保公は、江戸に帰った理由を家臣に明かすことはなかったという。御辰韓は、家臣の浅羽忠之助が大坂城より秘かに持出しています。
会津藩兵は、将軍や藩主がいなくなったことで8日、陸路で紀州へ向いますが、紀州藩は、入国を拒否し、陸路で入った藩士185八人を乗船させ江戸へ送り込み、西軍に恭順したのです。15日、正角丸は、江戸の品川に入港し、負傷者は三田下屋敷へ入りました。
写真は京都「黒谷・光明寺西雲院の会津藩戦死者慰霊碑」
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