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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争14 宇都宮戦争と日光を救った者

2018年01月04日 | 戊辰・会津戦争

宇都宮戦争と日光を救った者

 会津古城研究会長 石田明夫  

 江戸城開城が決定されると、西軍の標的は、旧幕府軍の一掃と会津藩攻撃に向けられました。1868年3月23日、西軍は奥羽鎮撫総督の九条道孝らが仙台に入り、25日には、仙台藩と米沢藩に対し会津征伐を命じます。同日『戊辰事情慨旨』では、米沢藩と仙台藩の使者が若松城下に入り、会津藩救済を談合しています。そのため、両藩とも会津藩攻撃の行動はしませんでした。
 4月7日、西軍が宇都宮城に入ると、徹底抗戦派旧幕府軍の大鳥圭介が率いるフランス軍事使節団から特別訓練を受けた旧幕府軍精鋭部隊が、宇都宮城の西軍と激しい戦いとなりました。旧幕府軍は、会津藩の秋月登之助や新選組の土方歳三ら総勢二千人でした。19日には、宇都宮城を攻撃し、東軍が城を占拠したのです。しかし、23日、西軍は、薩摩藩の大山巌が指揮する四斤山砲を主力とする砲兵隊らを投入したことで、城は再び西軍の手に落ちたのです。この日、新選組の土方歳三は、足首を撃抜かれる大ケガを負い、その後、会津の東山温泉で治療することになりました。この時『会津藩大砲隊戊辰戦記』に、会津藩砲兵隊長の日向内記(後に戸ノ口原で白虎隊隊長となる)は、戦わずして今市から若松に引揚げたため、隊長を罷免されています。
 敗北した旧幕府軍の大鳥らは、日光へ向かいます。26日には、東照宮焼失を心配した会津藩らが東照宮御神体を会津へ運んだのです。
 日光は、徳川家にとって江戸城と並ぶ大変重要な場所です。それを戦禍から守ったのは、土佐藩の板垣退助で、大鳥圭介に日光を渡すよう使者を送ったこと、日光の僧道純と慈立が、土佐藩の谷干城(たにたてき)へ戦争回避を直訴したことです。大鳥が日光での弾薬補給を諦め、会津田島へ退却することを決めたことも偶然に一致し、日光は残ったのです。
 
 写真は「宇都宮城と背後の高ビルは宇都宮市役所」

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戊辰・会津戦争13 江戸城無血開城と会津藩士の出陣

2017年07月19日 | 戊辰・会津戦争

江戸城無血開城と会津藩士の出陣

 会津古城研究会長 石田明夫  

 新政府の西軍は、鳥羽伏見の戦いに勝利すると、慶応4年(1868)1月10日、徳川慶喜、会津藩の松平容保公ら27名に対し官位の剥奪と屋敷の没収を決定しました。その日、会津藩大砲隊などは『大砲隊戊辰戦記』によると紀州にいたのです。
 その後、幕府内部では、主戦派の勘定奉行兼陸軍奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と軍艦頭の榎本武揚(たけあき)が作戦を練っていましたが、徳川家存続を図るため慶喜は戦わず恭順を決めていたことから陸軍総裁に穏健派の勝海舟を任命し、自ら寛永寺に移り謹慎の身となったのです。
 しかし、謹慎だけでは西軍は、慶喜を許すことはなく東海道、東山道、北陸道から江戸進攻を決定し、2月9日には、東征大総督が決められ、3月15日を江戸城進撃と定めたのです。そこで、慶喜の命を受けた山岡鉄舟が、西郷隆盛のいた駿府に乗込み、直談判をして、徳川家の寛大な処分と江戸城明け渡しが決められ、山岡は江戸に戻り幕府の陸軍総裁の勝海舟へ報告したのです。そして、3月13日・14日、江戸の薩摩藩邸(港区三田・会津藩下屋敷の隣が薩摩藩邸)で勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ、無抵抗の慶喜を許すこととなったのです。そのころ会津藩では、3月12日『若松記草稿』によると、会津藩の四方を防備するため、容保公が三ノ丸において藩士に出陣を命じています。
 4月11日江戸城は、無血開城となりましたが、新政府の徳川家処分に不満を持つ幕府の陸軍歩兵頭大鳥圭介と、海軍副総裁で八隻の軍艦を率いていた榎本武揚らが江戸を出て徹底抗戦を決意し、会津戦争へ向かっていったのです。
 
 写真は「会津藩下屋敷跡・東京三井倶楽部」

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戊辰・会津戦争12 若松城下の女性と娘子軍の誕生

2017年06月09日 | 戊辰・会津戦争

「若松城下の女性と娘子軍の誕生」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 江戸詰めだった会津藩士と家族は、西軍の進行により若松城下へ帰ることになります。江戸詰めで代々住んでいた家臣も会津の遠縁を頼り、若松城下へ戻りました。
 『会津戊辰戦争』によると、城下の女性たちの中には若松城下で「娘子軍(じょうしぐん)」と呼ばれる女性だけの軍事訓練をする団体が結成さたという。それは、江戸詰めの家臣や家族が会津に戻り、鳥羽伏見の敗戦の話が伝わるとともに、会津の藩士の中にも戦死の知らせや、遺髪や形見の軍服が届いたりしたことによります。
そこで、婦人のなかには、江戸詰めで江戸勘定役中野平内(へいない)の妻の中野こう子、竹子・優子ら親子と、会津在住の依田まき子、水島菊子、山本八重らといくつかのグループが非常に備えて、武芸を習うもの者が20数人誕生したのです。『会津戊辰戦争』には、城下の水島菊子と姉の依田(よだ)まき子は、まき子の夫が鳥羽伏見で戦死したことにより、「夫の仇(あだ)なれば、是非一太刀たりとも怨まんものと思い」と、思いは一つで肉親の仇討ちでまとまっていたのです。しかし、「指揮者は定まらず」とあることから、統率する者はいなかたようです。その中でも江戸詰めであったこう子(43歳)は、年上であったため、一定の指揮をしていました。
 会津藩では、『会津戊辰戦史』で、女子が戦いに参加することは、男子としては恥ずべきものと考えていたことから、正式に許すことはなく、女性の集団を「女隊」「婦人決死隊」と呼んでいました。婦人たちは「娘子軍」と呼び薙刀(なぎなた)を日々練習していたのです。その後、8月25日、神指町東城戸において、中野こう子、竹子親子は柳橋の戦いで奮戦することになります。


写真は「中野竹子に似せた石像」

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戊辰・会津戦争11 西出丸での銭貨鋳造

2017年05月29日 | 戊辰・会津戦争

「西出丸での銭貨鋳造」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 戊辰・会津戦争が終結したとたん会津では、各地で「ニセ金」が鋳造され大混乱となりました。明治2年5月、西出丸で鋳造に関わった職人らが「軍司方」と称し、贋金を造ったためです。その手法は。万延年間の(1860)の二分金と二朱金を真似たもので、金ではなく、金メッキを施して流通させたものでした。「会津のニセ金」として知られ、明治政府は贋金の製造と流通を禁止し、約1200人を捕え、約18万両を回収しています。
 これらの人の多くが、慶応四年春、海老名郡治を奉行として、120万両(現在の価値で約48億円)の銭貨を「御城吹」と称し、武器を買う軍事資金ため鋳造した人たちです。
 4月19日、『簿暦』に、山川大蔵は鋳金(贋金)について唐津藩の旧幕府老中小笠原長行と御薬園で相談しています。『会津戊辰戦史』に「西出丸に鋳造所を設け、該金金工等をして二分金及び、その他を鋳造せしめ、その鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納額は、六十萬両に達し、守城前後の金融を圓滑ならしむることを得たり。」と、藩士や庶民から金銀を集め、西出丸で職人に銭貨を鋳造させ、供出した金銀の半分を藩士らに戻し、残りは軍資金にしたのです。
 籠城戦中の8月25日、鋳造金の持出し事件があり、翌26日には、城内の銭貨を運び出したのです。関東学院大学を創立した日向内記の孫、坂田祐(たすく)は、『新編恩寵の生涯』の中で、明治時代、貨幣を新潟港から秋田港に運び、青森県の斗南藩へ持って行ったという。真相は、26日、家老の西郷頼母が容保公から密命を受けて銭貨を運び出し、27日高久から舟で西会津町上野尻へ運び、一時埋め、明治に入り掘り出して運んだのです。

写真は「明治2年に作られた会津のニセ金」

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戊辰・会津戦争10 会津藩の武器購入

2017年05月20日 | 戊辰・会津戦争

「会津藩の武器購入」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 慶応四年(1868)の戊辰戦争が始まると、会津藩では、武器を調達するため、オランダ国籍でプロシャ(ドイツ)人のヘンリー・スネル、エドワルド・スネル兄弟から購入するようになります。『会津藩武器購入に関する一問題』に、慶応四(1868)年3月23日、会津藩では、エドワルド・スネルから、オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)を一挺洋銀九枚で、合計780挺を7020ドルで買っています。買ったのは、会津藩商人の鈴木多門が、新潟港経由で買ったのです。同じ日、若松城三ノ丸では、フランス人から銃隊歩法訓練受け、須藤時一郎、柴五六郎ら20数人は、フランス語で、小隊止まれを「小隊アルハイ」と言っていました。
 会津藩では、金を用意できず船の荷を受け取ることが出来なかったこともあります。旧幕府の「順動(じゅんどう)丸」を借上げ、3月13日に江戸を出発し、箱館経由で4月11日新潟港へ入港したものの運送代2700両の内、700両しか用意できず、結局、荷は揚げられず、船は移動し、5月24日、新潟県の寺泊港で停泊中、薩摩藩の乾行(けんこう)丸と長州藩の丁卯(ていぼう)丸から砲撃を受け艦は焼失しています。同じ日『甘粕継成日記』によると、武器商人のヘンリー・スネルは、髪を剃り、日本製の羽織に袴姿で名を平松武兵衛と称し、若松城内で松平容保公と会い、城下西(材木町の西若松駅南西隣)に屋敷が与えられました。
 西軍の長州藩と薩摩藩では、イギリスから莫大な資金援助と、スペンサー銃、アームストロング砲などの武器援助もあり、会津藩とは圧倒的な軍事力の差があったのです。そこで、会津藩では、資金援助がないことから、西出丸で埋蔵金を作ることになるのです。

写真は「会津若松市材木町、スネルの屋敷跡」

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