
宇都宮戦争と日光を救った者
会津古城研究会長 石田明夫
江戸城開城が決定されると、西軍の標的は、旧幕府軍の一掃と会津藩攻撃に向けられました。1868年3月23日、西軍は奥羽鎮撫総督の九条道孝らが仙台に入り、25日には、仙台藩と米沢藩に対し会津征伐を命じます。同日『戊辰事情慨旨』では、米沢藩と仙台藩の使者が若松城下に入り、会津藩救済を談合しています。そのため、両藩とも会津藩攻撃の行動はしませんでした。
4月7日、西軍が宇都宮城に入ると、徹底抗戦派旧幕府軍の大鳥圭介が率いるフランス軍事使節団から特別訓練を受けた旧幕府軍精鋭部隊が、宇都宮城の西軍と激しい戦いとなりました。旧幕府軍は、会津藩の秋月登之助や新選組の土方歳三ら総勢二千人でした。19日には、宇都宮城を攻撃し、東軍が城を占拠したのです。しかし、23日、西軍は、薩摩藩の大山巌が指揮する四斤山砲を主力とする砲兵隊らを投入したことで、城は再び西軍の手に落ちたのです。この日、新選組の土方歳三は、足首を撃抜かれる大ケガを負い、その後、会津の東山温泉で治療することになりました。この時『会津藩大砲隊戊辰戦記』に、会津藩砲兵隊長の日向内記(後に戸ノ口原で白虎隊隊長となる)は、戦わずして今市から若松に引揚げたため、隊長を罷免されています。
敗北した旧幕府軍の大鳥らは、日光へ向かいます。26日には、東照宮焼失を心配した会津藩らが東照宮御神体を会津へ運んだのです。
日光は、徳川家にとって江戸城と並ぶ大変重要な場所です。それを戦禍から守ったのは、土佐藩の板垣退助で、大鳥圭介に日光を渡すよう使者を送ったこと、日光の僧道純と慈立が、土佐藩の谷干城(たにたてき)へ戦争回避を直訴したことです。大鳥が日光での弾薬補給を諦め、会津田島へ退却することを決めたことも偶然に一致し、日光は残ったのです。
写真は「宇都宮城と背後の高ビルは宇都宮市役所」
会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ