「白虎隊の誕生」
会津古城研究会長 石田明夫
慶応四年(1868)2月4日、松平容保公は、家督を喜徳(よしのり)公に譲り恭順を表しますが、24日には、年少のためす政務は再び容保に託されています。7日には『会津戊戦史』によると、佐川官兵衛を司令官として、18歳から35歳までの江戸詰め会津藩兵にフランス人を招き訓練をしました。また、会津国境を守るため地方御家人や農兵による防備を定めたのです。同日、旧幕府兵約2000人(後の衝鉾隊・しょうほうたい)が会津藩援護のため江戸から会津へ向かいました。2月21日には、『会津藩大砲隊戊辰戦記』によると、江戸の小川町で、会津藩砲兵隊長の山川大蔵らがフランス人の「シャノアン」「メツリノー」から大砲隊だけ特訓を受けています。
3月10日、会津藩は、フランス式に軍政改革をしました。『七年史』によると、服装は、すべて西洋式の黒の洋装にしましたが、名称だけは中国に伝わる東西南北の四神名に例え、年齢によって南神の「朱雀(すざく)隊」、東神の「青龍(せいりゆう)隊」、北神の「玄武(げんぶ)隊」、西神の「白虎隊」に編成し、さらに身分による階級でもって区分したのです。それぞれの隊は、大よそ100名編成で「一番隊」と称する中隊に分けられていました。その他砲兵隊、土工兵と呼ぶ築城兵などがあり、元帥、軍艦、軍艦副役、幌役、職司と、西洋式の役職も定めました。合計31番隊、約2800名の正規兵が誕生しました。
白虎隊は、数え16・7歳が入り、中隊は、他の隊とは異なり半分の約50名編成となっていて、15歳以下は、「幼年組」として位置づけられていました。その号令は、フランス人から教練されたことから「アン」「ドウ」「トロワ」とフランス語でした。
写真は東京「皇居和田倉門脇にあった会津藩上屋敷跡」
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