大阪の高校のバスケ部だったか、キャプテンの少年が顧問の先生に殴られたとかで自殺し、大問題になった。橋下市長が入試を辞めさせるとかなんとかで大騒ぎして…。
今年に入ってオリンピックの女子柔道で体罰があり、うんぬんという話で、再び体罰が俎上に上がった。
だが、この両者を同列に論じるのはナンセンスだと思う。
後者は、問題提議した選手たちは国を代表しようという選手。大学生や社会人といった分別のある大人であって、彼らが訴える時点で、体罰やパワハラが問題であることは火を見るよりも明らか。しかも問題を隠蔽し、監督を辞めさせなかった時点で、組織自体が健全に機能してないことが明白に分かる。例の内柴の事件と同じで、日本の柔道界はもう腐り切ってると言えるのではないか。
前者については、私は体罰を認める気はない。
しかし、問題の本質はその生徒が自殺してしまったことにある。
なぜ殴られたくらいで自殺を選んでしまうのか?
いじめにしろ体罰にしろ暴力にしろ、人間の社会からは永遠になくならない。それは人類が生まれ持っている宿命みたいなものだ。
真の教育とは…真の人間形成とは…。そうした困難に直面しても、決して負けずに生き抜くことだ。
学校からいじめや体罰を駆逐しても問題は解決しない。社会に出ればより酷い悪意、犯罪、差別、事故、不運、悲劇が待っているのだ。そんな逆境においてもめげずに強く生きる人間を作ること。それが真の教育なのだ。今回の問題では体罰ばかりが問題視されて、そこの議論がまるでなされていない。
昔は体罰なんて当たり前にあった、と言う人は、そういう反面教師があったから今の強い自分がある、といいたいのかもしれない。
暴力や体罰、いじめを肯定するわけではない。
が、人間の社会からそれらを完全に駆逐することはできない。仮に学校からそれらをなくして、無菌状態で子供たちが育ったらどうなるか? 社会に出て、無防備な彼らがどんな目に会うか? 考えるだに恐ろしい。
繰り返すが、真の教育とは学校から体罰やいじめをなくすことではなく、どんな困難に直面しても負けずに強く生きる人格を作ることなのだ。
「艱難辛苦、汝を玉にす。」
「子孫のために美田を買わず。」
蝶よ花よと安全に育ててはまともな人間はできない。
人間を育てるのは、育てる方も命懸けの覚悟が必要だ。
今年に入ってオリンピックの女子柔道で体罰があり、うんぬんという話で、再び体罰が俎上に上がった。
だが、この両者を同列に論じるのはナンセンスだと思う。
後者は、問題提議した選手たちは国を代表しようという選手。大学生や社会人といった分別のある大人であって、彼らが訴える時点で、体罰やパワハラが問題であることは火を見るよりも明らか。しかも問題を隠蔽し、監督を辞めさせなかった時点で、組織自体が健全に機能してないことが明白に分かる。例の内柴の事件と同じで、日本の柔道界はもう腐り切ってると言えるのではないか。
前者については、私は体罰を認める気はない。
しかし、問題の本質はその生徒が自殺してしまったことにある。
なぜ殴られたくらいで自殺を選んでしまうのか?
いじめにしろ体罰にしろ暴力にしろ、人間の社会からは永遠になくならない。それは人類が生まれ持っている宿命みたいなものだ。
真の教育とは…真の人間形成とは…。そうした困難に直面しても、決して負けずに生き抜くことだ。
学校からいじめや体罰を駆逐しても問題は解決しない。社会に出ればより酷い悪意、犯罪、差別、事故、不運、悲劇が待っているのだ。そんな逆境においてもめげずに強く生きる人間を作ること。それが真の教育なのだ。今回の問題では体罰ばかりが問題視されて、そこの議論がまるでなされていない。
昔は体罰なんて当たり前にあった、と言う人は、そういう反面教師があったから今の強い自分がある、といいたいのかもしれない。
暴力や体罰、いじめを肯定するわけではない。
が、人間の社会からそれらを完全に駆逐することはできない。仮に学校からそれらをなくして、無菌状態で子供たちが育ったらどうなるか? 社会に出て、無防備な彼らがどんな目に会うか? 考えるだに恐ろしい。
繰り返すが、真の教育とは学校から体罰やいじめをなくすことではなく、どんな困難に直面しても負けずに強く生きる人格を作ることなのだ。
「艱難辛苦、汝を玉にす。」
「子孫のために美田を買わず。」
蝶よ花よと安全に育ててはまともな人間はできない。
人間を育てるのは、育てる方も命懸けの覚悟が必要だ。
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