TBSのドラマ「-JIN-仁」の評判がいいけれど、今回はドラマと漫画の違いを明確にしてみよう。
まず、設定で大きく違ってるのは、未来(みき)という、現代に残した南方仁の恋人の存在だ。彼女は同じ外科医だが、脳に腫瘍が見つかり、仁は摘出手術を行うものの失敗して、植物状態にしてしまう。彼女は外見が花魁の野風にそっくりであり、仁の行動によって、未来と一緒に撮った写真の内容が変化していく、というのがドラマのキーとなる。
しかし、原作には未来という恋人の存在はなく、写真もない。ドラマ化にあたってもっとも原作と異なるのが、この部分である。南方先生は現代に戻れるのか? 未来はどうなってしまうのかが、視聴者の興味をかきたてるポイントになっている。
次に、ドラマは1クールで納めるため、いろいろなことが前倒しになったり、エピソードが省かれたりしている。具体的には、麻疹の治療の件がそっくり省かれてコレラで代用されるなど。(原作では枝豆売りの少年喜市がかかるのはコレラではなく麻疹である。)
仁が竜馬暗殺を阻止するというのが原作のストーリーの骨子だが、ドラマでは竜馬暗殺の時期も早まっている。その理由も、仁がペニシリンを開発するなど歴史を変えたためだ。未来の写真の変化もそうだが、これらを説明するために、バタフライ効果等の話もドラマでは語られている。漫画でも仁は歴史を変えてはいるものの、それがどの未来につながるのかは不明なため、仁は内心その行為に慄然としながらも、一方で淡々と行動しているように見える。
ドラマの中では、毎回印象的なセリフが出てくる。緒形洪庵の説く「国のため道のため」だの、仁の言う「神は乗り越えられない試練しか与えない」だの、喜市の「ちちんぷいぷい御用のおん宝」だの……。ところがこれらは、原作には全く登場しない。脚本家がどっかから持ってきたセリフなのだ。
もちろん、原作にある台詞も登場する。死に行く女郎が言う「おさらばえ」なんてのはそう。咲が手術中の仁を落ち着かせようと「蒸しますね」と笑いながら語りかけるとことかね。原作を知らない視聴者には、どこがドラマオリジナルなのか判別がつきにくい感はある。
ドラマではやたら登場人物が号泣したり、熱く語ったりするシーンが多いが、原作にはほとんどない。緒形洪庵との別れなんかさっぱりしたもんだし、火事を理由に仁に去られた野風が流す涙もただ一筋のみ。決して竜馬に抱かれて号泣したりしない。ドラマの演出ははっきり言ってくどく、そこが鼻につくが、逆に仁を見て号泣してるような人たちは多分そこがいいんだろう。(もちろん自分はちっとも泣けないが) 映画「三丁目の夕日」に泣くような層をターゲットにしてる気がする。
不自然なシーンが目立つのもドラマならではだ。たとえば、仁が辻斬りに襲われるところを咲が助けるシーン。男女が神社の周囲でたくさん逢い引きをしており、刺客はそれで立ち去るわけだが、漫画では夜のシーン。夜鷹が客を引っ張ってるような野原で、咲もその辺の事情を察してカモフラージュのため仁と抱き合うわけだ。咲の機転の良さを示すと共に、仁が咲を異性として意識する重要なシーンだが、ドラマでは仁が死の恐怖から生きている実感を取り戻すというふうに意味づけが変わってしまっている。しかし、昼間っから男女がたくさんそんなところで愛の営みをしてたら、風紀が乱れて教育的にもよろしくない。
洪庵が血を吐いた手で浜口儀兵衛の手を取って頼みごとをするが、そんなことをしたら結核が移ってしまう。洪庵がそんなに無神経でどうするのか。
仁先生も、やたらと現代の医学用語を不用心に使いまくっている。漫画では周囲に怪しまれないよう、極力江戸ことばに置き換えて話しているのに。
とまあこのように、漫画とドラマはいろいろ違うのだった。
噂では映画化されるとか何とか。平成22年発行の十円玉をみると、仁が再び現代から過去に来るんだと思うけどね。
まず、設定で大きく違ってるのは、未来(みき)という、現代に残した南方仁の恋人の存在だ。彼女は同じ外科医だが、脳に腫瘍が見つかり、仁は摘出手術を行うものの失敗して、植物状態にしてしまう。彼女は外見が花魁の野風にそっくりであり、仁の行動によって、未来と一緒に撮った写真の内容が変化していく、というのがドラマのキーとなる。
しかし、原作には未来という恋人の存在はなく、写真もない。ドラマ化にあたってもっとも原作と異なるのが、この部分である。南方先生は現代に戻れるのか? 未来はどうなってしまうのかが、視聴者の興味をかきたてるポイントになっている。
次に、ドラマは1クールで納めるため、いろいろなことが前倒しになったり、エピソードが省かれたりしている。具体的には、麻疹の治療の件がそっくり省かれてコレラで代用されるなど。(原作では枝豆売りの少年喜市がかかるのはコレラではなく麻疹である。)
仁が竜馬暗殺を阻止するというのが原作のストーリーの骨子だが、ドラマでは竜馬暗殺の時期も早まっている。その理由も、仁がペニシリンを開発するなど歴史を変えたためだ。未来の写真の変化もそうだが、これらを説明するために、バタフライ効果等の話もドラマでは語られている。漫画でも仁は歴史を変えてはいるものの、それがどの未来につながるのかは不明なため、仁は内心その行為に慄然としながらも、一方で淡々と行動しているように見える。
ドラマの中では、毎回印象的なセリフが出てくる。緒形洪庵の説く「国のため道のため」だの、仁の言う「神は乗り越えられない試練しか与えない」だの、喜市の「ちちんぷいぷい御用のおん宝」だの……。ところがこれらは、原作には全く登場しない。脚本家がどっかから持ってきたセリフなのだ。
もちろん、原作にある台詞も登場する。死に行く女郎が言う「おさらばえ」なんてのはそう。咲が手術中の仁を落ち着かせようと「蒸しますね」と笑いながら語りかけるとことかね。原作を知らない視聴者には、どこがドラマオリジナルなのか判別がつきにくい感はある。
ドラマではやたら登場人物が号泣したり、熱く語ったりするシーンが多いが、原作にはほとんどない。緒形洪庵との別れなんかさっぱりしたもんだし、火事を理由に仁に去られた野風が流す涙もただ一筋のみ。決して竜馬に抱かれて号泣したりしない。ドラマの演出ははっきり言ってくどく、そこが鼻につくが、逆に仁を見て号泣してるような人たちは多分そこがいいんだろう。(もちろん自分はちっとも泣けないが) 映画「三丁目の夕日」に泣くような層をターゲットにしてる気がする。
不自然なシーンが目立つのもドラマならではだ。たとえば、仁が辻斬りに襲われるところを咲が助けるシーン。男女が神社の周囲でたくさん逢い引きをしており、刺客はそれで立ち去るわけだが、漫画では夜のシーン。夜鷹が客を引っ張ってるような野原で、咲もその辺の事情を察してカモフラージュのため仁と抱き合うわけだ。咲の機転の良さを示すと共に、仁が咲を異性として意識する重要なシーンだが、ドラマでは仁が死の恐怖から生きている実感を取り戻すというふうに意味づけが変わってしまっている。しかし、昼間っから男女がたくさんそんなところで愛の営みをしてたら、風紀が乱れて教育的にもよろしくない。
洪庵が血を吐いた手で浜口儀兵衛の手を取って頼みごとをするが、そんなことをしたら結核が移ってしまう。洪庵がそんなに無神経でどうするのか。
仁先生も、やたらと現代の医学用語を不用心に使いまくっている。漫画では周囲に怪しまれないよう、極力江戸ことばに置き換えて話しているのに。
とまあこのように、漫画とドラマはいろいろ違うのだった。
噂では映画化されるとか何とか。平成22年発行の十円玉をみると、仁が再び現代から過去に来るんだと思うけどね。
肺病が感染症だと分かったのはもっと後なのでは??ドストエフスキーの小説を読むと肺病の人が健康な人と一緒に食卓を囲んでいます(^^;
えーと、結核菌が発見されたのは1882年のことで、日本だと明治15年のことだそうです。。。
日本ではその後も遺伝病か伝染病かという議論があったのだとか。