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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

1968年の前と後

2014-05-30 08:59:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
いちご白書:演じる政治が、陽気な抗議に勝る時

 学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ。普通「親替え」と呼ばれる、良心を受容的、寛容にする作業が、演劇的要素を通じて、実践することができ...
 

 1968、と言っても、小熊英二(立川高校のクラスメート、座席が「お隣り」だったので、呼び捨て、ゴメンね)の大著のタイトルではありません。

 加藤周一さんが、亡くなる直前のNHKのインタヴューに応えて、「20世紀から21世紀へ積み残した閉塞感 、根本的に変わる必要がある。…だんだんにシステム・組織の力が強くなってきて、個人の影響力が後退する。昭和や大正時代のほうが個人が、まだあった。今、専門部分に関する細かい話になって、全体として、人間的に、大きな方針、行き先を指示出来る人がいない。…何とか、人間らしさを、人間が作ったものを、世の中に再生させる、…そのために何が相手なのか、敵なのかを理解することが大切である。」と言っていました。

 個人が後退し、それでなくても強力だったコンフォーミズムcomformism(形だけ同じになること、が原義)「日和見主義」「大勢順応主義」 が、一層はなはだしくなっているのが、今の日本の現状でしょう。その転換点が、1968年だった。加藤周一さんも、小熊もそこに目をつけているのだと思います。

 なぜ、そこまで、コンフォーミズムがますます広がったのか?

 それは、エリクソンが取り上げたコロンビア大学での一件でも、日本の全共闘も、権力に「負け」たから。その時以降、それぞれの人が「痛い目」と「冷や飯」と「冷や汗」を、それぞれの事情で、その多寡はあっても、体験したから。髪を切り、ジーパンからスーツに履き替えて、社会の中に、それとなく納まっていったから。

 生きることに手応えを感じるどころか、そんなことを考える暇がないほど、せかされ、脅され、監視されているような日々。

 それでも、山本義孝さん(安田講堂占拠の時の東大全共闘代表)のように、権力におもねることなく、自分の信を貫いただけではなく、学問的にも後世に残る仕事をした人が、「いる」ことを覚えますね。

 「何とかなる!」のです。

 

 

 

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声なき声

2014-05-30 08:46:21 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ヨナの黄泉帰りの物語って、「人間の勝手な正義」と≪真の関係≫がコントラストだったって、今回フロムを読み返して、初めて気が付きましたよ。今日はp26の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

  労わることと関心を持ち続けることは、≪真の関係≫のもう一つ別の側面です。それは、「弱い立場の人の声にならない声に応え続けること」です。今日、この「弱い立場の人の声にならない声に応え続けること」とは、「ねばならないこと」、すなわち、外側から課せられたことになっていることが多いのです。しかしながら、これは、声になった場合でも、声なき声の場合でも、他の人のニーズに応えることなのです。「弱い立場の人の声にならない声に応え続けることができる」ということは、他者のニーズに「応える」準備ができた、という意味です。ヨナは、ニネベ市民の声なき声に応えることができる、とは、感じませんでした。ヨナは、カイン(旧約聖書「創世記」に出てくる、カインとアベルの物語)と同様に、神様に問いかけます。「私が兄弟の面倒を見なくちゃいけないんですか?」と。≪真の関係≫の人は、やり取りの人です。自分の兄弟の人生は、その当人だけが関わればいいものでなくて、兄弟である自分自身も係るべきなのです。その人は、自分の仲間とやり取りできる(自分の仲間と対話できる)と感じますが、それはちょうど自分自身とやり取りできる(自分と対話できる)と感じるのと同じです。こういった「弱い立場の人の、声にならない声に応え続けること」とは、一人のお母さんのその赤ちゃんの場合、(赤ちゃんの)体が必要とすることのために、(母親が)労わることです。大人同士では、「弱い立場の人の声にならない声に応え続けること」とは、相手の人の魂の求めに応えることを主に言います。

 

 

 

 

 

 「声なき声に応える」。これは、いま、NHKで毎週火曜に放映されている、ドラマ「サイレント・プア」のメインテーマでしょう。毎週、深田恭子さんが演じるコミュニティ・ソーシャルワーカー(CSW)が、近隣の「弱い立場の人達」の声なき声を掬い上げて、それに応える具体的手立てを、苦戦しながらも、自分自身を放り込んで、見つけていこうとする姿に、心温まる思いが致します。深田恭子さんの演技は、決して上手な訳ではないけれども、一生懸命な感じが伝わる、とても素敵な番組です。

 それでも、なにも「声なき声」に応えるのは、他者のそれに応えることだけではないはずです。自分自身の「声なき声」に応えることができて初めて、他者の「声なき声」に応えることが可能なのではないでしょうか? あるいは、他者の「声なき声」に応えることが、自分自身の「声なき声」に応えることと繋がっていなくては、本物ではない、と感じます。

 その意味では、この番組は、そのモデルである豊橋社協のスタッフの人たちが、上手に監修しているからでしょう、「よくできてる」と感じますね。

 次回は最終回、あなたも是非、ご覧になってくださいね。

 

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