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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「くれない族」、あるいは、≪与える恵み≫

2014-05-19 08:07:15 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 「真」はイキイキ、ピチピチ生きること。「真」は、自由であって初めて、人の幸せを作り出す力になるようですね。今日は、p21のL4から。

 他人にことはとやかく言いたかないし、「まかた」と思うだけだけど、法政大学の先生の翻訳、バカ売れの割には、大間違いですね。「落ちる」話でもなければ、「踏み込む」話でもありませんよ。 こんな翻訳を出すから、大江健三郎さんは日本の翻訳輸入のことを「誤訳文化」というんです。

 

 

 

 

 真はイキイキ、ピチピチ生きることであって、仕方がないのでいやいややらされる気持ちじゃぁ、ありません。真の関係は「相手の身になる」ことであって、「相手を好きになる」ことじゃ、ありません。一番よくあるパターンだと、真の関係の、イキイキ、ピチピチする特色は、「真の関係は、(アンパンを)あげることであって、(ご褒美や≪自分が得すること≫を)貰うことではない」と言えるでしょう。 

 

 

 

 

 真(真の関係)は、与える恵みそのものなのですね。

 人と一緒にいるときに、すぐに「〇〇してくれない」、「△△してくれない」、「◇◇してくれない」...と言うのが習慣の「くれない族」は、愚痴や嘆きを言う場合が多いですね。ご褒美や「自分が得になること」を貰うことばかり考えているのでしょう。あるいは、「くれない族」は、相手のしていることの意味が分からないと、自分が≪やらされてる感じ≫になりますから、「いつまでバカなことをしてるのかしら、…」、「早く止めにして、もっと『ちゃんとしていること』をすればいいのに、…」、「私も暇じゃあ、ないんだから…」という感じになるかも分かりません。それじゃぁ、相手とやり取りすることなどできませんね。

 真(真の関係)は、この「くれない族」さんとは真逆です。「眼の前の相手が求めていることは何なんだろうか?」、「どうすれば、相手が喜んでくれるかな?」、「どうすれば、≪いまここ≫を一緒に楽しめるかな?」などを探しながら、感じながら、過ごします。そして、その答えが見つかれば、その見つかったことをプレゼントせずにはいられません。その答えが、なかなか見つからない場合だってありますね。その場合でもその相手の人は気づくもんですよ。「あっ、この人は自分の幸せを、自分にとって大事なことを探してくれてるなっ」ってね。その相手が、幼い子どもでも、知恵が遅れているって言われている子どもでも、その大人の気持ちにすぐに気づきます。答えをすぐにくれなくたって、その答えを探そうって気持ちそのものが、その相手、その子にとって、宝物です。あるいはまた、その答えが見つからないので、「ごめんなさい、今はちゃんとした答えが見つからないので、いったん引き下がります」という場合だって、あるでしょう? そういう場合でもね、その相手は、その子は、その見つけようとしてくれる、真実な気持ちだけは伝わりますよね。その相手が「強い」男でもね、その気持ちが分かれば、男泣きするに決まってます。

 「真」の関係では、いずれも、そこには、やり取りと≪与える恵み≫が必ずありますね。

 あなたは、どちらを選びますか? 「くれない族」の関係? それとも、「真」の関係?

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遊びこそ、天の “不思議の” お恵み

2014-05-19 05:42:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
遊びこそ天のお恵み

 儀式化の概念の重要性について、述べられていました。今日は、エリクソンが謝辞を通して、「遊びこそ天のお恵みである」と宣言します。翻訳します。 私は私どものセミナーから多...
 


 エリクソンは、この序文を書いたとき、すでに73(72)才。文章にありますように、すでにハーバード大学をリタイヤしています。奥さんのジョアンと一緒に、一生を、アイデンティティという名の、自分を確かにする道を探し続けた人生でした。もっとも、エリクソンは大変長命なので、この後20年以上も、長生きしたのですが。

 エリクソンは、一生かけて、自分を確かにする道を探し続けた、と今申し上げました。この自分を確かにする道において、何が根源的か? と問われれば、それは、自分自身を感じていること、自分自身であることだと私は考えます。自分自身を感じること、それをエリクソンは、≪ 「私」が生かされている感じ、自分自身の感じ a sense of "I"≫と呼びます。考えてみたら、自分であることを感じることなしに、自分自身であるなんて、不可能でしょうからね。

 エリクソンが優れている点はいろいろあるのでしょう。挙げればきりがないのかもしれません。エリクソンが最も優れている諸々の中で最も大事なことの一つは、遊びの重要性に気付いて、それを自分自身を確かにする道を整える上で、必要不可欠のものだ、とはっきり示したことだと、私は考えます。それは、遊びを通して、遊びのおかげで、自分自身を感じるその感じが整えられる、ということです。

 しかし、それだけではないのです。その遊びには、必ず、遊び相手(それをエリクソンは、カウンタープレイヤー counterplayerと呼びます。)があり、その遊び相手とのやり取り(英語ではミューチャリティ mutualityといいます。「相互性」とやったら、話し言葉から離れてしまいます)が非常に大事にしたことです。遊びにおいて、遊び相手とやり取りすることが、自分自身を感じることを整える上で必要不可欠である、ということを明確にしてくれたことも、エリクソンが最も優れている点だと考えます。

 そして、遊びの不思議です。子どもは誰に教えられもしないのに、この遊びが自分自身を確かにする道に繋がっていることを知っているかのようです。自分自身の足りないところを補い、自分の最深欲求にこたえる答えを見つけ出すためには、遊びが必要不可欠だと知っているかのようです。何故なんでしょうか?

 それは、遊びの “不思議の” 恵みのおかげで、自分自身の声に気付き、自分自身の声に聴き従う練習ができるからでしょうね。そして、自分を織り上げ、自分になっていけるからでしょうね。

 

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