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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

マルクスの名言

2014-05-25 08:49:39 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ≪与えることの不思議≫。面白いですね。貰うつもりのない人が貰い、貰いたくて仕方がない人は貰えない、なんてね。今日は、p23の下から、10行目途中から。

 

 

 

 

 

 与えることにおいて、なにがしかのものが生まれます。与える者も与えられる者も、2人にとって、産んでもらった人生に対して感謝の気持ちが湧いてきます。≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)に関して特に申し上げれば、つまりこういうことです。 ≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)は、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)を生み出す力である、ということです。関係に対して不誠実だと、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)はもらたしません。この考え方について、マルクスが巧いことを言っています。「人間を人間として、世の中に対する関係を人間らしい関係として仮定するならば、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)はね、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)とのみやり取りできるし、信頼はね、信頼とだけやり取りできるんだね。そのほかのことだって、一緒だよ。もし芸術を楽しみたいなら、芸を極めた人にならなくちゃね。他の人に影響力のある人になりたかったら、他の人を元気にしたり、他の人が得になることを実際に出来る人にならなくっちゃね。人間や自然に対する関係ってね、自分の意識が向かっている対象に対して、実際に、自分がどう生きているのか、生かされているか、その命をハッキリあらわすものになっちゃってるんだよね。もしも相手を大事にしているつもりで、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)をもたらさなかったのならば、つまり、自分が≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)だとおもっていたものが、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)を生み出さなかったならば、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)を大事にする人として、「命を表現すること」によって、自分を、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)を大事にする人にならなかったら、あなたが≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)と思いこんでいることが、ダメで、間違っちゃってるからなんだね。」 だけど、与えることが貰うことっていうのは、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)の専売特許じゃありませんね。教師は生徒たちから教えて貰えますし、役者は聴衆から元気を貰いますし、セラピストはクライアントから癒しを貰います。それぞれが相手をモノ扱いするんじゃなくって、お互いに自分との対話を誠実に、創造的にしてれば、自ずからそうなりますね。

 

 

 

 

 

 フロムも、透徹した人間観察者ですね。

 それにしても、マルクスがこんなロマン主義のことを言ってるなんて、ちょっと意外ですね。でも、このマルクスの言葉は『マルクス・エンゲルス全集』第一巻(大月書店)に出てくるそうです。

  ここのところは、私なりに申し上げれば、次のようになります。

 子どもとやり取りが生まれないのは、子どもとの関係が、≪真の関係≫(関係に対する誠実さ)ではないからなんですよ、ということです。

 それは同時に、仕事に忙しくて、自分との対話を忘れてしまって、「心無い大人」になっちゃってるからなんですよ、ということです。

 

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自分との対話を忘れることから、ウソとゴマカシが始まる

2014-05-25 05:27:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
現実とのやり取りを失ったウソ

 権力者の嘘に対して抱く国民の気持ちと、親の嘘に対して子どもが抱く気持ちが、おんなじものであることが分かりました。今日はより具体的に、報道の中身が語られます。それでは翻訳です。...
 

 去年の今日も、権力者のウソとゴマカシが、親のウソとゴマカシに似ているというお話の続き。

 ウソとゴマカシは、意識してそうしているレベルであれば、修正は比較的容易かもしれません。しかし、エリクソンが指摘している、権力者のウソとゴマカシは、一層厄介です。なぜなら、それは意識レベルから、すでに無意識レベルに落っこちているウソとゴマカシだからです。

 これは、親のウソとゴマカシの場合も一緒なんです。意識的にウソとゴマカシを言ったりやったりするのも、どうかと思う向きもおありでしょうけれども、意識レベルのウソとゴマカシなら、まだまし。厄介なのは、無意識レベルに落っこっちゃったウソとゴマカシです。

 なぜそうなっちゃうのか?

 それは、自分との対話を忘れて、国民を、子どもを支配することに意識が向かっているからなのです。フロムがハッキリ示してくれたように、これこそ、サド、そのものでしたね。自分がサドになっているとも知らずに、国民を、子どもを支配しているのです。「支配」と申し上げると、「ちょっとキツスギル」言葉遣いだと感じる方もおありかもしれません。それならば、コントロールと言っていいかもしれません。国民や、子どもを、権力や、親の都合のいいようにコントロールしようということに、意識が向かってしまっているのです。市民の立場、子どもの立場に立たずに、相手の身になってみることもなくて、市民をコントロールしよう、子どもを都合よくコントロールしようとすることを「支配」というのですがね。

 この場合、権力や親は「自分のことは棚に上げて、人(市民や子ども)のことをとやかく」言ったり、やったりすることになります。

 それは、自分との対話が足りないからなのです。そして、自分との対話が足りないのは、遊びと「静かな時間」が足りないからですね。いずれも、きっとお仕事に忙しすぎて、「心無い大人」になってしまっているからですよ。

 

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