
遊び場とは? 競技場~法廷。 心理面接も遊びなのね
人間が「本当に楽しい」を体験する時、遊びを通して、実に大事な発達を、イメージと話し言葉(声)と体験(出来事)とを結びつけることを通して、実現するかが、よく分かりましたね。今回は、...
理科の実験など、実験をするときには、仮説を立てて、実際仮説の通りに実験がなるのか、それとも、仮説とは異なる実験結果になるのか、調べます。実験が仮説通りであれば、それは、その仮説が正しいと検証されたことになります。逆に、仮説とは異なる実験結果になった場合には、その実験結果を基に、新たな仮説を立てる必要が出てきます。その場合は、新しい仮説を検証するために、別の実験が必要になります。
それでは人生においてはどうか。理科の実験も、授業がなければ実験しないように、人生においても、何か実験を迫られなければ、実験などしない。そんな実験をするよりも、「家内安全」、「安全第一」とばかり、ルーティーン・ワークに勤しむ方が多数派でしょうね。それでいて、そういう人に限って、「毎日おんなじことばかりで、つまんなーい」などと言っているのかもしれませんね。あるいは、刺激を求めて、芸能人のゴシップ記事を気にしたり、お隣の国の事故ニースに、「金があっても、あれじゃあね」、「やっぱり遅れてるね、あの国は」等と、なんか変な溜飲を下げている御仁もいるかも分かりません。
それでも、「実験好き」の人も少数かもしれませんが、いるのも事実です。先日NHKの「ラスト・デイズ」という番組で、俳優の勝新太郎さんのことが取り上げられていましたね。それをたまたま見ていましたら、そのラストに「生きている限り、実験と冒険を続けなければならない」という勝新太郎さんの言葉が出てきました。「麻薬をパンツに隠す」バカという印象しかありませんでしたから、意外な発見になりました。「あっ、一廉に人物かもしれない…」。
人生の実験を生きた人で、勝新太郎さん同様に生きた人に内村鑑三がいます。彼ほど人生の実験を痛々しいほど苛酷に、しかし、勇ましく生きた人も少ないと思います。その内村は、1894年(明治27年)、彼が34才の7月に、有名な講演をしています。それは「後世への最大遺物」です。その文字通りラストに内村は次のように書いています。「若し我々が正義は終に勝つものにして不義は終に負けるものであると云うことを世間に発表する者であるならば、其通りに我々は実行しなければならない」。この「我々が正義は終に勝つものにして不義は終に負けるものである」の部分が、実験の仮説でしょう。内村は、1930年(昭和5年)、70才になるまで、この仮説を検証する実験を実際に生き続けたのでした。
今日のエリクソンは、遊び場が話題です。その遊び場の特徴は、翻訳の後に、私が4点挙げています( 1)場が限定されている、2)日常世界の中にあるけれども、そこから隔絶された特別の世界である(一般的には、その世界は「非日常世界」と言われます)、3)特別なルールがある。4)独自の行動を実際にする)。しかし、子どもから大人までの、さまざまな遊び場は、やはり、実験の場でもあります。それは、過去に生き切れなかった自分を改めて生きてみたり、「こうありたい」という自分を生きてみる場でもあります。その仮説は何か?といえば、その当人の最深欲求によります。ですから、「これです」とは申し上げられません。
しかし、次のようには、申しあげられるかもしれません。
自分との対話、最深欲求との対話を続ける人は、
生涯、自分と最深欲求の間を実験できます。
自分との対話、最新欲求との対話を取りやめにした人は、
その代わり、生涯、自慢と負け惜しみの間を経験できます。