忙中閑話

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尾崎行雄氏逝く

2013-06-17 | 随想
元東映フライヤーズ(現 日ハムファイターズ)のエースピッチャーだった尾崎行雄氏が亡くなった。享年68歳。平均寿命が80の時代、本当に若すぎる。

根っからの地元西鉄ライオンズ(現 西武ライオンズ)のファンだったので、小学、中学
時代とよくラジオ中継を聴いて応援をしたものだが、たびたび尾崎氏に抑えられて悔し
い思いをした。


大変なピッチャーが出てきた、この先どうなるのだろうと心配していたら、数年後に肩
を壊してしまい、申し訳ないが正直ホッとした記憶がある。

ラジオ中継は当然音声だけだがそれでも尾崎投手の剛球ぶりは十二分に伝わってきた。
実際に経験した人の証言によると球速は160km近くでていただろうという。

改めて経歴を調べてみた。
1961年(昭和36年)、高校2年で夏の甲子園大会の優勝投手となりその年の秋
に高校を中退して東映に入団。翌年のシーズンでいきなり20勝、翌年こそ2年目の
ジンクスか7勝にとどまったがその後の3年で20、27、24勝をあげている。
この5年間が本当に輝いた時で合計98勝、その後は剛速球ピッチャーの宿命ともいえ
る肩の故障のため7年でわずか9勝しかあげられず1973年(昭和48年)に引退し
ている。

打ち上げ花火のように一瞬の輝きではあったが、大玉も大玉の本当に心に残る名投手で
あった。

今はピッチングマシーンのお陰で打者有利となっていて、投手は直球だけでは簡単に勝
負できないことは十二分に承知している。最近はフォークを始めツーシームなどと多彩
な球種を投げ分けるピッチャーが多いが、今でも速球ピッチャーが出てくるとワクワク
する。

因みに、尾崎氏の2年目のジンクスの年である昭和38年に西鉄ライオンズが優勝して
いて友人と小躍りして喜んだことが思い出される。パーマーらの外人トリオの活躍が目
覚しかったが、尾崎氏がこの年調子が上がらなかったお陰もあるのだろう。

その後西鉄ライオンズは低迷を続け、さらにその後いわゆる”黒い霧事件”で池永を始
めとする主力選手が永久追放となったことなどからクラウンライター、太平洋クラブな
どという今では全く耳にしない会社に次々と転売され、最終的に今の西武に落ち着いて
いる。しかし、自分自身はなぜか本拠地が博多の平和台球場から所沢に変わった現在も
西武ファンであり続けている。そしておかしなことに西鉄ファンに導いてくれた兄は、
西鉄と長い間シノギを削った南海が身売りされて本拠地が大阪から博多に移ったダイエ
ー、その後の身売り先であるソフトバンクのファンになってしまっている。

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