湯取車、東照宮奉曳から筒井天王まで、我らが祭をご覧の皆様、ご覧頂き、ありがとうございました。
わたくしの目的はあくまで、筒井天王祭が今後も続いて行くこと、決して東照宮奉曳を目的としておりませんでした。
ですが燃え尽きた感があります。これはわたくしの生活が、日に日に筒井天王と離れつつある現実があります。
これは仕方がないものです。11年前各地の山車祭を観に行き始め、またブログを書き始めてからも、わたくしの生活は変化が激しかった。
その生活様式は、地元祭礼と調整がつきにくい。地元祭礼の皆に貢献できず、我が力の無力さを感じてしまう日々が続いております。
せめて置き土産として、時間が空いた時にブログ書いて筒井天王というものを世間に知って頂く、他、ネットで紹介する、それしか出来ませんでした。
各地の祭礼も行けなくなった。昨年の8月 僕の祭礼見物第一歩となった「小牧 湯取車」を観た帰り道、節目の10年を迎えた安堵感など無く、寂しさしかなかったのです。
一つの時代の終わりを感じてしまいました。
ブログやら掲示板に筒井天王祭を書いていると、時々、就職やら、結婚などで筒井町から離れた人よりメールが来ました。山車のお祭は故郷であり、懐かしい、筒井町について書いてくれてありがとう、という内容がほとんど。こういうメールはありがたく、応援が僕の原動力となりました。
ふるさとの「守り人」から、僕自身、湯取を「ふるさと」故郷としなければ、ならないかもしれない。「守り人」から「旅人」に代わって行く時がきました。
一人で笛を吹いていると、我が笛の音にふるさとへの慕情を感じてしまう。物悲しい笛となってしまいました。
こう書いていても、数ヵ月後にはこのブログを続けて書いているかもしれませんし、全く別の分野で違うハンドルネームでブログなど書いているかもしれません。
本来ならこのブログを祭りの後と同じく、閉鎖させるのが正道でしょうが、ここに残されたコメントを消すには惜しい。筒井天王に興味を持ってここに来る方へお祭の良さを知って頂くキッカケとして残します。
読み返せば、500以上の記事を書き続けました。
50年後、山車はあるだろう。多くの人が湯取車、神皇車を自分の「ふるさと」としている。これからも「ふるさと」であり続けるだろう。
その希望を胸にまた新たな道を歩んで行きます。このブログは当初「夢日記」「夢を駆ける」などサブタイトル付けていました。思えば、このブログそのものも、名古屋に住むタヌキのみた「夢」にすぎないのかもしれません。夢から覚めたのか?夢に向かっているのかは、皆様のご判断で。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」(上杉謙信)「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」織田信長が好んだ敦盛の一句。
上杉謙信の句が好きでした。一睡の夢を好んだ男が、未来へ湯取車の栄華を夢見るのは、矛盾しているかもしれません。
敦盛の出典の平家物語では平敦盛、源義経など笛の名手は悲劇の人生を歩みました。私はその点を考え、決して名手を目指しませんでした。何事もほどほどとしました。それが良かったのかはわかりません。
「菜根譚」の次の一節が僕の10年だったのでしょう。「短笛、風に吟ずるを知るのみ」
長い間、このブログを読んで頂いた方の御健康、御多幸を祈念し、ここに筆を置きます。
わたくしの目的はあくまで、筒井天王祭が今後も続いて行くこと、決して東照宮奉曳を目的としておりませんでした。
ですが燃え尽きた感があります。これはわたくしの生活が、日に日に筒井天王と離れつつある現実があります。
これは仕方がないものです。11年前各地の山車祭を観に行き始め、またブログを書き始めてからも、わたくしの生活は変化が激しかった。
その生活様式は、地元祭礼と調整がつきにくい。地元祭礼の皆に貢献できず、我が力の無力さを感じてしまう日々が続いております。
せめて置き土産として、時間が空いた時にブログ書いて筒井天王というものを世間に知って頂く、他、ネットで紹介する、それしか出来ませんでした。
各地の祭礼も行けなくなった。昨年の8月 僕の祭礼見物第一歩となった「小牧 湯取車」を観た帰り道、節目の10年を迎えた安堵感など無く、寂しさしかなかったのです。
一つの時代の終わりを感じてしまいました。
ブログやら掲示板に筒井天王祭を書いていると、時々、就職やら、結婚などで筒井町から離れた人よりメールが来ました。山車のお祭は故郷であり、懐かしい、筒井町について書いてくれてありがとう、という内容がほとんど。こういうメールはありがたく、応援が僕の原動力となりました。
ふるさとの「守り人」から、僕自身、湯取を「ふるさと」故郷としなければ、ならないかもしれない。「守り人」から「旅人」に代わって行く時がきました。
一人で笛を吹いていると、我が笛の音にふるさとへの慕情を感じてしまう。物悲しい笛となってしまいました。
こう書いていても、数ヵ月後にはこのブログを続けて書いているかもしれませんし、全く別の分野で違うハンドルネームでブログなど書いているかもしれません。
本来ならこのブログを祭りの後と同じく、閉鎖させるのが正道でしょうが、ここに残されたコメントを消すには惜しい。筒井天王に興味を持ってここに来る方へお祭の良さを知って頂くキッカケとして残します。
読み返せば、500以上の記事を書き続けました。
50年後、山車はあるだろう。多くの人が湯取車、神皇車を自分の「ふるさと」としている。これからも「ふるさと」であり続けるだろう。
その希望を胸にまた新たな道を歩んで行きます。このブログは当初「夢日記」「夢を駆ける」などサブタイトル付けていました。思えば、このブログそのものも、名古屋に住むタヌキのみた「夢」にすぎないのかもしれません。夢から覚めたのか?夢に向かっているのかは、皆様のご判断で。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」(上杉謙信)「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」織田信長が好んだ敦盛の一句。
上杉謙信の句が好きでした。一睡の夢を好んだ男が、未来へ湯取車の栄華を夢見るのは、矛盾しているかもしれません。
敦盛の出典の平家物語では平敦盛、源義経など笛の名手は悲劇の人生を歩みました。私はその点を考え、決して名手を目指しませんでした。何事もほどほどとしました。それが良かったのかはわかりません。
「菜根譚」の次の一節が僕の10年だったのでしょう。「短笛、風に吟ずるを知るのみ」
長い間、このブログを読んで頂いた方の御健康、御多幸を祈念し、ここに筆を置きます。
私がこのブログを読み始めたのは4年ぐらい前ですが、以来今日まで読み続けその結果色々な知識を得ることが出来ました。
また一昨年は多屋の祭礼の様子を詳しく紹介して頂き、本当にありがとうございました。
今回の休止表明は残念ですが、アキ様が今置かれている状況を考えると仕方がありませんね。
かく言う私も最近諸般の事情で、名古屋市中心部の山車祭りを見に行く回数が減っています。
私にとって名古屋市中心部は、山車祭り趣味の「準ベースエリア」だったのですが・・・。
最後にアキ様、長きに渡るブログの執筆本当にお疲れ様でした!
自分が憧れた囃子、神皇車帰り囃子でブログを締めようと考えていました。狙って出来るわけではありませんが、狙ってみました。
この十年で車道は大きく変わってしまいました。湯取と神皇さんが車道を北に帰る動画が、10年後貴重な資料となりそうです。あそこには、こういう家があり、道がここに出来て…と。
月日が経つのは残酷です。今年、山車の中、僕を写真で撮ってくれた方が居られましてね。小学生の頃、山車の同じところで笛吹いている写真があるのですが、それ比べると、老けたなーと(苦笑)20年近くたっていますからね、当たり前ですけれど。
まだ僕が神皇車を私服で曳いていた頃(小学一年頃)のビデオあったりしますが、その頃の神皇車で切師やっている主力が今は役員ですからね。でも皆さん、今でも元気じゃないですか(元気ありすぎで困っている?)
過去の資料、現在の祭遂行、未来の継承者、どれも大切ですが、今は「現在」で手一杯ですか。
「老兵はただ去るのみ」とは言いませんよ。後進が困らぬ様、手助けしていくつもりです。朱高覧様もまだまだやるべき仕事はありますよ。
筒井町も新時代が来ました。僕自身戸惑ってしまいます。
ただ己に課せられる義務、期待を遂行するのみ…(夢が無いなー)
敢えて言うならば、小中学生の中から時代を担う人材が育つ環境を整えたいですね。
人それぞれ役割は違います、時に残酷、孤独を感じてしまいますが、それを埋めるだけの喜びがある。それを実感しています。
「僕の夢はまだ続きがある」その言葉を噛み締めてこれから……
朱高覧様、これからもご指導お願いします。
ブログの書く理由として多いのが「自分の趣味の記録」なんです。やっぱり一般公開を前提として書かないと、何時までたっても書こうとしないもんなんです。ユーチューブの動画もそうかもしれませんね。
それとブログを書く理由として挙げられるのが「マスコミに対するアンチテーゼ」
マスコミの情報ってけっこう編集とかで加工されちゃうでしょ?そこで自分で作ってみたい、今回の「祭を語る」シリーズは、マスコミなら絶対取り上げてくれないだろう、自分への取材を意識して書きました。それがあるためか?ブログが更新される時間帯ってテレビでニュース流している時間帯ですね。
多屋編はかなり印象に残るベスト記事です。たとえメジャーじゃなくともいいお祭をしている所がある、そういうところを発掘するのは、重要だと思いますがね。
ひょっとしたら性懲りも無く、何処かの祭礼をほっつき歩いてるかもしれません。まだ祭の心の灯火は消えていません。どこかでお会いしましょう!!