
80年代後半武漢に冬に2週間、交渉業務で武漢に滞在した。秋には直前調印で計2回訪問した。そのときの宿は長江ほとりにある当時最新の高層ホテル「晴川飯店」だった。このホテルは三峡下りで観光客が食事もしくは乗船または下船で1泊させる予定で建築したようだ。今は、99年に改装されて晴川假日酒店ホリデイ イン リバーサイド となっている。武漢では同行の組織は日本人通訳同行、管理者は通訳なしだったから、ガタガタのソ連製イルリュ-シンでバラックの飛行場に到着したら、すぐに中山路の国際旅行社武漢分社に中国語通訳を依頼した。すぐにその晩は、彼らと宴会になった。通訳ができても、日本語のみならず、仏語、英語の各国に渡航経験ない連中がご馳走も長江産の淡水蟹と桂魚料理目当てで呼びもしないのに参加してきた。連中は文化革命の頃は外国人が来ないから、仕事がなく毎晩灯りを絞って麻雀の日々だったという。
その時に武漢(ウーハン)にも泊まったが、古い大きな丸い屋根のホテルで名前は覚えていない。
三峡下りの船も当時新建造されたいわゆる観光船ではなく、川を行き来する生活船で一般の中国人も多く乗っていた。
観光客は上の船倉の上等級にわれわれ日本人10数人とアメリカ人だけだったが、広いデッキを行き交いながら片言の英語を楽しんだものだ。
下の階には中国人がそれこそ酢しずめに近い人数が詰め込まれていたが、その人たちが持ち込む生きた犬や豚や鶏などの泣き声もして賑やかだった。
われわれが、食堂で食事をしていると、晴れた日なのにガラスが曇ってしまうくらいの中国人が覗き込んでいるので驚いたものだった。
彼らは茶碗や橋を持参していて、大釜の前で並んでご飯に炒めた菜っ葉のようなものをぶっ掛けて掻き込んでいた。あっという間に食べつくしてしまう。
茶色く濁った川には小さい呂で漕ぐ船が何層と無く行きかい、そのたびにこちらの船から警笛が鳴る。
とても強い流れに流されないように必死に漕いでいる姿が印象的だった。
そうこうして長江下りは5日くらいだったか?、川の両岸の景色も良いのだが、下等級の船倉に降りていって中国将棋を教わったりした、船の中の中国人の生活を見るのが楽しかった。