(1969/フランソワ・トリュフォー監督・共同脚本/ジャン=ピエール・カルゴル、フランソワ・トリュフォー、ジャン・ダステ、フランソワーズ・セーニエ/86分)
18世紀末のフランス。森の中で動物のように裸で生きている、推定年齢11、2歳の少年が発見される。“アヴァロンの野生児”と呼ばれた、いわゆる“狼少年”と、彼を引き取り、人間社会に適応出来るように言葉や習慣を教えようとした医学博士との触れ合いを描いた実話を元にした映画。
博士は人間愛に根ざした医学者としての興味から少年に靴や衣服やベッドを与え、声帯が傷ついていないのに言葉を発しない少年に言葉や文字を教えようとする。2足歩行もままならなかった少年は、外見こそ普通の少年の様になるが、スプーンの使い方も、水という意味の『オー』という言葉さえなかなか覚えなかった。そんな試行錯誤を、トリュフォー自ら演じるイタール博士のナレーションを絡めて、観察日記風に描いた作品だ。
トリュフォーとしては大変珍しい題材のように感じるが、恋愛ドラマでも「恋のエチュード(1971)」のように何処か人間観察風な視点で作られた作品もあり、語り口はいつものトリュフォータッチだった。多用されたアイリス・ショットも印象深い。
発見された時、少年の感覚は臭覚が一番強く、後は味覚、視覚、触覚の順。大きな物音に反応しないので聴覚は無いと判断されたが、背後でクルミを割る音に振り向いたことから、単に聴覚は悪いと判断された。弱い聴覚の為か言葉は発せず、少年は国立聾唖学校に入れられることになる。
博士の推測では、『少年は3、4歳くらいの時に親の都合で森に捨てられ、それからの8年間を森で一人で生きていたと思われる。頸に鋭利な刃物で切られたような傷跡があり、恐らく赤ん坊を遺棄した者が殺そうとしたのだろうが、落ち葉か何かが傷を塞ぎ奇跡的に生き延びた。動物のように川の水を飲み、木の実や動物を食べて暮らしていたと思われる』
聾唖学校で化け物のように扱われる少年を見て、イタール博士は引き取って教育してみたいと言い出す。『今のまま学校の中に閉じこめて置くだけでは、森から連れ出した意味がない。幼児の頃から教育を受けなかった人間の知能がどの程度のモノなのか調査したい』
こういう映画を見る時の態度として、どうあればいいのか迷うことがある。それは、あまりに異常な生い立ちの少年が主人公の為、内面の動きが想像しにくいからである。イタール博士の上司は少年は白痴だろうと判断しているし、人間的な感情を勝手に与えてもおかしい。いわば動物を見るような態度で見るのがいいのかもしれない。演じたジャン=ピエール・カルゴル少年はコレがスクリーンデビューらしいが、変につじつまの合う尤もらしい表現にならなかったのがよろしい。
聾唖学校で見世物のように扱われたり、他の少年達にいじめられるシーンでは「エレファント・マン」を思いだし、イタール博士とのやり取りでは「奇跡の人」を思い出した。
終盤、博士と家政婦のゲラン夫人(セーニエ)の努力の甲斐あって、少しずつ聞き言葉に理解を示し始めた少年だが、博士が留守をした隙に家出をする。ここではトリュフォーの「大人は判ってくれない」を重ね合わせた。
時に森を懐かしむように庭に出て月を眺め、雨の日は嬉しそうに濡れネズミになる。自由を欲しているかのような少年を見つめるカメラに、トリュフォーの優しさを感じましたな。
自然を美しく捉えたモノクロ・カメラは、スペイン出身のネストール・アルメンドロス。この作品の後も「家庭(1970)」「恋のエチュード」「アデルの恋の物語(1975)」「逃げ去る恋(1978)」「終電車(1980)」「日曜日が待ち遠しい!(1982)」などでトリュフォーと組み、ハリウッドにも進出して「クレイマー、クレイマー(1979)」「青い珊瑚礁(1980)」「ソフィーの選択(1982)」などでアカデミー賞候補となり、「天国の日々(1978)」ではオスカーを受賞した。
音楽にはビバルディなどの曲も使われた模様。
娯楽映画としては万人向けではないが、学術的な報告書からココまでの脚本(トリュフォー&ジャン・グリュオー)を起こしたことも素晴らしく、映画を勉強したい人にはとても参考になる作品でしょう。
18世紀末のフランス。森の中で動物のように裸で生きている、推定年齢11、2歳の少年が発見される。“アヴァロンの野生児”と呼ばれた、いわゆる“狼少年”と、彼を引き取り、人間社会に適応出来るように言葉や習慣を教えようとした医学博士との触れ合いを描いた実話を元にした映画。
博士は人間愛に根ざした医学者としての興味から少年に靴や衣服やベッドを与え、声帯が傷ついていないのに言葉を発しない少年に言葉や文字を教えようとする。2足歩行もままならなかった少年は、外見こそ普通の少年の様になるが、スプーンの使い方も、水という意味の『オー』という言葉さえなかなか覚えなかった。そんな試行錯誤を、トリュフォー自ら演じるイタール博士のナレーションを絡めて、観察日記風に描いた作品だ。
トリュフォーとしては大変珍しい題材のように感じるが、恋愛ドラマでも「恋のエチュード(1971)」のように何処か人間観察風な視点で作られた作品もあり、語り口はいつものトリュフォータッチだった。多用されたアイリス・ショットも印象深い。
発見された時、少年の感覚は臭覚が一番強く、後は味覚、視覚、触覚の順。大きな物音に反応しないので聴覚は無いと判断されたが、背後でクルミを割る音に振り向いたことから、単に聴覚は悪いと判断された。弱い聴覚の為か言葉は発せず、少年は国立聾唖学校に入れられることになる。
博士の推測では、『少年は3、4歳くらいの時に親の都合で森に捨てられ、それからの8年間を森で一人で生きていたと思われる。頸に鋭利な刃物で切られたような傷跡があり、恐らく赤ん坊を遺棄した者が殺そうとしたのだろうが、落ち葉か何かが傷を塞ぎ奇跡的に生き延びた。動物のように川の水を飲み、木の実や動物を食べて暮らしていたと思われる』
聾唖学校で化け物のように扱われる少年を見て、イタール博士は引き取って教育してみたいと言い出す。『今のまま学校の中に閉じこめて置くだけでは、森から連れ出した意味がない。幼児の頃から教育を受けなかった人間の知能がどの程度のモノなのか調査したい』
こういう映画を見る時の態度として、どうあればいいのか迷うことがある。それは、あまりに異常な生い立ちの少年が主人公の為、内面の動きが想像しにくいからである。イタール博士の上司は少年は白痴だろうと判断しているし、人間的な感情を勝手に与えてもおかしい。いわば動物を見るような態度で見るのがいいのかもしれない。演じたジャン=ピエール・カルゴル少年はコレがスクリーンデビューらしいが、変につじつまの合う尤もらしい表現にならなかったのがよろしい。
聾唖学校で見世物のように扱われたり、他の少年達にいじめられるシーンでは「エレファント・マン」を思いだし、イタール博士とのやり取りでは「奇跡の人」を思い出した。
終盤、博士と家政婦のゲラン夫人(セーニエ)の努力の甲斐あって、少しずつ聞き言葉に理解を示し始めた少年だが、博士が留守をした隙に家出をする。ここではトリュフォーの「大人は判ってくれない」を重ね合わせた。
時に森を懐かしむように庭に出て月を眺め、雨の日は嬉しそうに濡れネズミになる。自由を欲しているかのような少年を見つめるカメラに、トリュフォーの優しさを感じましたな。
自然を美しく捉えたモノクロ・カメラは、スペイン出身のネストール・アルメンドロス。この作品の後も「家庭(1970)」「恋のエチュード」「アデルの恋の物語(1975)」「逃げ去る恋(1978)」「終電車(1980)」「日曜日が待ち遠しい!(1982)」などでトリュフォーと組み、ハリウッドにも進出して「クレイマー、クレイマー(1979)」「青い珊瑚礁(1980)」「ソフィーの選択(1982)」などでアカデミー賞候補となり、「天国の日々(1978)」ではオスカーを受賞した。
音楽にはビバルディなどの曲も使われた模様。
娯楽映画としては万人向けではないが、学術的な報告書からココまでの脚本(トリュフォー&ジャン・グリュオー)を起こしたことも素晴らしく、映画を勉強したい人にはとても参考になる作品でしょう。
・お薦め度【★★★=一度は見ましょう、私は二度見ましたが】
「家庭」をレンタルで見付けたまんま放置して、それ以降が今の所進んでないんですよ。
「野性の少年」は映画としての感覚は非常に優れているんですが、本文中に書いたように、題材が一般的ではないという意味でお薦め度は★三つ(一見の価値有り)にしました。
トリュフォーと重ね合わせ、見るほどに感慨深く思います。今までは、作品単体で見てきたのですが、この作品を観ると、もう一度トリュフォー作品を製作順に観たくなってきました。彼にとって映画とは彼の人生そのものなんだってつくづく思います。
昨日は「トリュフォーの思春期」観て、そして本作。またまた、トリュフォーにはまっていきそうです。
レビュー今からお伺いします♪
トリュフォーは意外とこういうクラシックな演出(アイリスはサイレント時代から使われていました)が好きで、彼がフランスの古典(デュヴィヴィエなど詩的リアリズムの監督たちの作品)を批判したのは自分の好みが案外解っていなかったのではないかと思ったりも致します。晩年彼はデュヴィヴィエを再評価したと言います(私は映画関連の書籍を余り読まないので伝聞ですが、悪しからず。
トリュフォーの中でも私は純粋性が高く好きな作品です。もう少し細かいところは、是非わがレビューをご一読ください(ペコリ)。
今回はツタヤで中古販売のVHSビデオを買いました。
anupamさんの記事では当時のヒット作とのことでしたが、もしも最近の映画だとしたらどうなんでしょう? 公開されるかどうかも怪しい・・なんて思ったりしますが。
>「アイリス・ショット」ってなあに?あの○から始まって○で画面を閉める撮り方ですか?
That's right!
○で始めるのをアイリス・イン、○でシーンを閉めるのをアイリス・アウトというようです。画面を暗くして、○の中のみで進めるシーンもあり、観客の注意がソコに集中されるという効果もあります。
初公開時に鑑賞したきりになっていますが、いつかまた一度見てみたい作品ですね。
ところでド素人な発言ですんまそんですが、「アイリス・ショット」ってなあに?あの○から始まって○で画面を閉める撮り方ですか?