フィッツジェラルドの小説「華麗なるギャツビー」には、40年経っても覚えている文章がいくつかある。本筋はギャツビーとデイジーの虚しい恋物語かも知れないけれど、どうもボクにはそれ以外のニックの独り言のような部分にこの小説の真意が多く込められている気が、昔も今もしている。
一つ目は、冒頭のニックの自己紹介のくだりのコレ。
<ぼくがまだ年若く、今よりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告をして与えてくれたけど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである。「この世の中の人がみんなお前と同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」>
そして、二つ目がその数ページ後の文章の一部で・・
<結局のところ人生は、一つの窓から眺めたほうがはるかに良く見えるのである>
一つ目の文章は、他人を見る時には多面的に判断しろと言っているみたいだし、二つ目は全く反対のことを言ってるみたいで、結局のところよく分からないんだが、とても印象的でずっと忘れずにいたもんです。
初めて読んだ時、ボク自身はまだ本格的に社会にでていなかったし、ニックのように恵まれた環境に育ったわけでもないけれど、とにかく他人を批判したくなった時にはこの言葉を思い出しておりました。
二つ目の言葉は短いのでハッキリと覚えていたのに、実は誰の言葉だったのか忘れていました。先日、パラパラと読み返して、あぁこの本の言葉だったのかと。若い頃からずっと映画を好きでいたのはこの言葉のせいかも知れんです。
三つ目は(これが最後ですが)小説の最後の言葉です。
<ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂騒的な未来を信じていた。あの時は僕らの手をすり抜けて逃げて行った。しかし、それはなんでもない・・・あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう・・・・・・そしていつの日にか・・・
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでいく。>
<先へ先へと後退してゆく狂騒的な未来>なんて、なんのこっちゃという感じですが、<過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでいく>というのは、懐かしさや思い出という過去に引き戻されながらも前に向かって進まねばならないという普遍的な人生の真理を語っているような気がしていました。そして、漕ぎ進んでいく、という言い方には、その哀しい矛盾を肯定的に捉えようとしている作者の心理も。
「華麗なるギャツビー」を読まれた方で、これらの文章について違う解釈をしている方、また他にも面白い文章が有るよという方、コメントプリーズです。
なお、ボクが読んだのは野崎孝氏訳の新潮社版です。
さて、村上春樹さんはこの文章をどう訳しているのかなぁ。
一つ目は、冒頭のニックの自己紹介のくだりのコレ。
<ぼくがまだ年若く、今よりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告をして与えてくれたけど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである。「この世の中の人がみんなお前と同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」>
そして、二つ目がその数ページ後の文章の一部で・・
<結局のところ人生は、一つの窓から眺めたほうがはるかに良く見えるのである>
一つ目の文章は、他人を見る時には多面的に判断しろと言っているみたいだし、二つ目は全く反対のことを言ってるみたいで、結局のところよく分からないんだが、とても印象的でずっと忘れずにいたもんです。
初めて読んだ時、ボク自身はまだ本格的に社会にでていなかったし、ニックのように恵まれた環境に育ったわけでもないけれど、とにかく他人を批判したくなった時にはこの言葉を思い出しておりました。
二つ目の言葉は短いのでハッキリと覚えていたのに、実は誰の言葉だったのか忘れていました。先日、パラパラと読み返して、あぁこの本の言葉だったのかと。若い頃からずっと映画を好きでいたのはこの言葉のせいかも知れんです。
三つ目は(これが最後ですが)小説の最後の言葉です。
<ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂騒的な未来を信じていた。あの時は僕らの手をすり抜けて逃げて行った。しかし、それはなんでもない・・・あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう・・・・・・そしていつの日にか・・・
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでいく。>
<先へ先へと後退してゆく狂騒的な未来>なんて、なんのこっちゃという感じですが、<過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでいく>というのは、懐かしさや思い出という過去に引き戻されながらも前に向かって進まねばならないという普遍的な人生の真理を語っているような気がしていました。そして、漕ぎ進んでいく、という言い方には、その哀しい矛盾を肯定的に捉えようとしている作者の心理も。
「華麗なるギャツビー」を読まれた方で、これらの文章について違う解釈をしている方、また他にも面白い文章が有るよという方、コメントプリーズです。
なお、ボクが読んだのは野崎孝氏訳の新潮社版です。
さて、村上春樹さんはこの文章をどう訳しているのかなぁ。
冒頭の、人を批判したい気持ちになった場合にはだな。。。この言葉自分の記憶にもずっと焼きついていて検索してしまいました。
自分の観点からものを言うってことは、自分の環境、経験、資質、運、他にも自分の意思ではどうにもならない無数の条件下でたまたま批判できる立場にあるというだけなんですよね。
人を批判したい気持ちになった時には、何か一つ欠ければ、オレはあいつだったかもしれないって思うようにしてます。それが自分より「恵まれた」ように見える人間であっても。
所詮人間はみんな全然違うんだから分かり合えないっていう解釈にも取れますし、だからこそ批判しないことでどんな人間とも当たり障りなくやっていくことができるっていう僅かに前向きな解釈にも取れます。
コメントありがとうございます。
記憶に残っているということは、「ギャツビー」を読まれたって事ですよね。
>だからこそ批判しないことでどんな人間とも当たり障りなくやっていくことができるっていう僅かに前向きな解釈にも取れます。
自分と違う部分を批判の対象とするのではなくて、人間の多様さと考えて、面白がったりする余裕が欲しいのですが、それは文学者やらがすることであって、やっぱり一般人は受け流す方法が一番と思います。
結局のところ人生は、一つの窓から眺めたほうがはるかに良く見えるから。