先日、川村美術館に行った際、長谷川等伯「烏鷺図」を見てきました。
右隻に鷺、左隻にサギの屏風
等伯のカラスは、少し前に七尾で「烏梟図」を見て以来ずっと、あとをひいている。
どうして等伯はカラスを?
南宋の牧谿に影響をうけた等伯は、牧谿であればハハチョウという黒い鳥を描いたところを、日本の鳥で描こうとカラスを用いたという。
でも、どこか、どちらも異様な感じが。
七尾の「烏梟図」は69歳の作。亡くなる3年前。
安倍龍太郎の「等伯」を読み返していたせいか、どうしてもそのストーリーに引きずられ、梟が等伯自身に見えてしまう。
等伯の絵にかける壮絶ともいえる思い。横やりや謀略・甘言に翻弄され、彼自身の絵に対する欲に抗えなかったゆえに引き起こしてしまった数々の過ち。
烏は等伯をあざ笑い、さらに挑発し、しかけてくるよう。
梟はじっと耐えて、動きを止めているかのように、強く描かれた足の爪。数々の過ちの自責の念のように、開かれた目。
あくまでも私的な感じ方ですが、七尾ではそんなふうに感じました。
帰ってから読んだ図録解説には、宮島新一氏の説を紹介していました。老いて目もよく見えず、昔ほど描けない。親しい人は次々といなくなり孤独を深めている、その心境を描いたのでは、と。
どうなのかわかりませんが、この老境ということで改めて見てみると、もしかしたら梟の姿は、烏の挑発にももう動じることもなく、全てを飲み込んだ静かな境地なのかもしれない。と、そんなふうに見えてきたり。図録では見にくいけれど、梟のバックには金泥が塗られています。
次に見たときにはどう感じるだろう。
そして、川村美術館の「烏鷺図」。
1605年、65歳以降の作品ということしかわからないようです。
烏は戯れているのか、それとも争っているのか。
蔓がたれ下がり、少し不気味に感じます。
枝にとまっている一羽は、けしかけているか操っているかのようで、少しそら怖ろしく見えます。眼もなんだか怖い。
対して、鷺の方は、穏やかな場面のように感じます。
三羽は寄り添って眠り、他の鷺も餌をついばんだり。
飛んでいる二羽は、並んでともに同じ方向に。つがいなのか、心温まる感じです。
こうしてそれぞれ見ると、烏と鷺の世界は、全く違うもののように感じます。
でも、烏も鷺も、向こうには同じように山が見え、葦が左双、右双にまたがって生えている。
この二つが、同じ世界なのだと気付くと、とてもリアルな世界。静と動、争いと平和は同時進行している。
自然の世界はシンプルで率直。
と、とりとめもなくソファに座って眺めていたら、2人組の奥様が「あらあ、かわいいカラスちゃんね~」と言いながら通り過ぎて行った。
かわいいの!?私はカラス嫌いだから不気味にみえるけれど、もしかして等伯は、元気いっぱい戯れるカラスちゃんを描いたの!?
わからなく…。
なので烏はひとまず離れてみれば、樹や草に等伯の筆の動きが、400年を経ても伝わってきます。
老木や枝が水につかっているところは、見惚れてしまいます。柳の葉の流れは、かすかな風によるのかも。
離れて見ると、それぞれ端に描かれた松と柳の形は、ともに響きあい、絶妙なバランスを生んでいるように感じました。
その間で、カラスは渦を巻いて広がっていくかのように、そして鷺は水平に、それぞれの描くラインが見えるような気が。
目に見えない線が、これもまたバランスを生み出している。余計な線がないからこそかもしれません。
若い頃は華麗で美しい障壁画などの仕事を多くこなした等伯が、晩年には七尾で見たような水墨画に取り組んでいた。もう装飾もありません。自然を率直に見つめ、帰したところで筆をひいたのかもしれない。
烏鷺図も烏梟図も、よくわからないままですが、等伯が最晩年に至った境地を反映しているのでしょう。絵師としての自分を生み出してくれた養父母や前妻、彼を引き立てた利休も死に、豊臣も滅び、息子の久蔵も、支えてくれた後妻も先立ち、時代だけは少しずつ平定されていく。その移り変わりは関係あるでしょうか。
東博の「松林図」とともに、私が老境に入ったときにはどう感じるか、なにかわかるか、気長に待とうかな。
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