はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●川村美術館「サイ・トゥオンブリーの写真ー変奏のリリシズムー」

2016-05-27 | Art

川村美術館「サイ・トゥオンブリーの写真ー変奏のリリシズム」

2016.4.16~8.28

 

一見不明瞭な写真が並びます。100点の写真、絵画3点、彫刻4点、ドローイング4点、版画18点。

”20世紀の現代アートを代表する一人”といわれる、サイ・トゥオンブリ(1928~2011)。

昨年、日曜美術館のアートシーンで短く紹介されて初めて知り、8月の炎天下に原美術館へ。(「サイ トゥオンブリー:紙の作品、50 年の軌跡 2015 年 5 月 23 日[土]-8 月 30 日[日] )

殴り書きのような作品。わかったなんてとても言えないけれど、感じるところのある作品が多く。

感情的なところ、男女、体内のリズム、抒情的なところ。自分の体の中に感じたことのあるもの・こと。(写真は原美術館のサイトより)

 

今回の川村美術館の展示は、写真がメイン。漂っていると、少しは端緒にふれたような気が。

多くの写真は数枚ずつ撮られています。

 

「静物」[ブラックマウンテンカレッジ]1951、23才(写真はすべて図録から

モランディ風な?

 アメリカ生まれ。奨学金を得て、長くひかれていたイタリアを初めて訪れたのはこの翌年。

遺跡にも魅せられたそう。

 左右とも、「神殿 [アグリジェント]」1952、24才

アグリジェントは、ググると遺跡が残るシチリアの街。神殿の連続したリズム。上に伸び上がる。Vと逆V を構成して、奥へ規律ある連続。

右の写真になると、一本一本の柱の中のすじにを幾度ども目がなぞりつつ、そのざらつき風化した岩肌が自分の指に感じられてくる。

 

上下とも「神殿セリヌンテ」1952

ごつごつした岩。穴の開いた溶岩石みたい

 

左右とも「テーブル・椅子・布」1953

 表面の細かいしわ。もめんの手触り。触ってないのに、その感覚が脳に回って、私の感覚となり。

 

1957年にはイタリアに移り、59年に結婚。アメリカとイタリアを行き来しながら製作。ヨーロッパ、特に古代の歴史や詩、神話、芸術に興味があったようで、彼に影響を与えます。

50年代後半からは写真はお休み、絵画を製作。

「What Wing Can Be Held?[ローマ]1960」

ひだに番号がふってある。

この楽しさの延長にやってくる、なにか。この番号通りに見ていると、そのリズムが体の中にダウンロードされる。(よくわからないので絵の意味は考えません)。

「マグダでの10日間の待機[ローマ]1963」

飛び散る瞬間、解放される瞬間、体に押しとどめていた何かから。

「Untitled [ニューヨーク]1968」

線は、体の中に入り、その通り過ぎていくリズム。

 

そして次の部屋へ。1980年には写真を再開したようです。

中くらいの写真が横に一列、均等に壁に並んでいます。川村美術館の空間に似合っています。

三枚とも「室内[バッサーノ・イン・テヴェリーナ]1980 

バッサーノ・イン・テヴェリーナローマはの北の田舎町。

扉の向こうに椅子。誰も座っていないし、座る風もなく。 それを見たしんとした感覚、小さな戦慄。

椅子の後ろにあったぼやけた木は、見たわけじゃないけど、瞼の裏に記憶されていたらしい。

 

「ケルティックボート[ガエータ]1990」、ガエータはローマの南の漁師町。

これなに?食虫花?


無題[ガエータ]1994」

落ち葉?そして目は目の粗い石畳へ


左右とも「ズッキーニ[ガエータ]1997」

 

なめらかでセクシーな、なに?。なぞりたくなるけど。  種明かしは、ズッキーニでした。


「林[レキシントン]2000

木立はのこの感覚はなんだろう。


「セルフポートレイト[ガエータ]2003

室内にたゆとう光、でも見ていると認識はしていない。

心や頭以外のところに、別の記億倍体がある気がする。瞼の裏?脳の裏?指の先?頭に行く前の体のどこか?シナプス経由ではなくてどこかに入り。


左右とも「海[ガエータ]2005

見た海の景色は、いつか形を失い、遠のき、でも消えるわけでなく、どこか記憶され、そこで静かに横たわる。


「バッカスの絵のディテール2005」

なだれ込んだ感情が突然に。

「葉[バッカス2005]」

試しに、葉の先に番号うって、読んでみて。


左右とも、「レモン[ガエータ]

花は落ち。花と影。この二つの間にどんなことが起こったのか?

 

左右とも、「ライトフラワーV[ガエータ]2008 

花がテーブルにある。いつしか、花のふちのリズムを見ている。


「墓地[サン・バルテルミー島]2011」

墓地の花。きれいだって思う前に、この花びらの線描が脳裏に入り込み、ピンクが広がる。


「雲[ サンバルテルミー島]2011

 このカリブの島での製作を最後に亡くなります。墓地での夢のような美しい写真。

 

写真にふわふわと漂っているうちに、最後の絵画の小部屋へ。大きく3つのシリーズ。

 「版画集1キノコ1974」10枚ほどのシリーズ。

ここまで写真を見てきてたので、なんの違和感もなく、その延長上に。

きのこが、感覚に刻んで去っていった、きのこの幻影。まいたけがいる?。ひだひだのへんなきのこが、たいへんなことになっちゃっている。

 

版画集「博物誌Ⅱ イタリアの木々1975」7枚ほどのシリーズ。

葉っぱに番号が振ってある。

横に並べる、斜めに並べる、面に並べる。心の作業領域の必要な容量が違うのを感じる。

一番最後の「いちじく」(右端)は、作業領域から飛び出した。それから一個の細胞が分離して落っこちた。

 

最後に「理想的結婚の風景1986」58才、4枚のシリーズ。

原美術館の展覧会で、印象的な二枚組の絵があったことを思い出す。タイトルはその絵もUntitledだからよくわからいけど、一枚がピンク、一枚が紫を基調とした、おそらくそれは男女の絵。ピンクの方には、女性の内的なものと宇宙的なものが一体であることを感じた。紫のほうには多少の男性の暴力的な面を見たような。

この絵は、4枚組だけど、絵にタイトルの順が描いてあるわけではない。おそらく目録の番号順にみるのだろうか。

なんとなく、「結婚」ていうことがわかるような。二人が知り合い、暮らし、いろいろありつつ、最後の一枚には、わりにはっきり重なる男性と女性の姿が見える。

これ逆に見ていったら、どういうことになるのかな ?どちらの方向にも、行ったり来たりを繰り返していられるのが、理想的な結婚といえるのかもしれません。彼が58才の時の境地。

 

展示はここで終わり、いつもの静かな森が見える廊下に出ていきます。

展示を出たところの壁に「ものの流転を見せているのです」と。

その通りだったと感じました。物事や景色は、彼の中で流転していました。その彼の意識にただ添っていくと、頭は休止され、違う領域が。

はっきりとでなく。形はよりあいまいな形に変容され、感覚が通り過ぎ、記憶のどこかにあいまいなまましまわれ。

心地よい時間を過ごしました。

 

 



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