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はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 4

2020年11月11日 10時13分44秒 | 風の終わる場所


雨はしばらく糸雨であったのだが、文偉たちが村に着くと同時に、ふたたび土砂降りとなった。
一軒先も見えないほどの豪雨である。
村長の屋敷に招かれた文偉は、まず、屋敷中に炊かれた、香の薫りの濃さに驚いた。
なにか凶事でもあったのだろうか。
家人が出てきて、雨に濡れた文偉の世話をしてくれるのだが、その仕草も、どうもぎこちない。
雨のために家が暗い、というのもあるが、どこになにがあるのか、家人同士で話し合って捜している、というありさまであった。
芝蘭という娘は、家に着くなり奥のほうへと去ってしまった。
どうも、悪いときにお邪魔しているようだ、と気まずさをおぼえた文偉であるが、この雨の中、いまさら帰るわけにもいかない。
一晩だけ、宿を借りて、朝になったら早々に村を出ようとおもった。

村長の馬光年だけは気のよい男で、文偉が成都から来たと知ると、今宵は宴を開こうといって、てきぱきと家人に采配をはじめた。
家には芝蘭のほかは女手がすくないらしい。
馬光年には妻がいない様子である。
やがて、宴の準備がされ、雨のなか、村じゅうの人があつまった。
遠方からやってきた文偉のために、村の娘たちも着飾ってあらわれて、いろいろもてなしをしてくれた。
しかし文偉は奇妙におもった。
かれらはたしかに歓迎してくれており、みな一様に、にこにこしているのであるが、口数はすくない。
おたがいの表情をさぐり、ことばをさぐり、慎重に口をひらいているというふうだ。
とはいえ、文偉が奇妙におもうことがあったとしても、酌にあらわれた娘を見たら、そんなものは吹っ飛んでしまったであろう。
よくぞこの山奥に、というくらいにうつくしい、山の精の化身のような娘があらわれたのだ。
名を紫芝という。
匂いたつような色香があり、物腰は宮女のように雅やかで、見とれるほどに垢抜けた娘であった。
芝蘭の姉娘ということを知ったとき、文偉は、芝蘭の右目のことをおもった。
あの傷さえなかったら、あの娘もこれほど煌めいたのであろうと残念におもったのだ。





そうして、宴は、いささか賑やかさにはかけるものの、穏やかに過ぎていった。
その夜更けである。
更衣のために目がさめた文偉であるが、ふと、部屋にだれかがいるのに気づいた。
「たれぞ」
誰何すると、部屋に忍び込んだその影は、ゆらりと揺らめいて、文偉のところにやってきた。
おどろいたことに、紫芝であった。
纏うものは、うすい衣一枚で、下手をすれば、はっきりと体の線があらわになる。
なまめかしい姿が唐突に迫ってきたのにどぎまぎしつつ、文偉は、間抜けな問いをした。
「そなた、ここでなにをしているのだ?」
だが、紫芝は答えず、意味ありげな艶やかな笑みを浮かべつつ、髪飾りを、ひとつ、またひとつとはずしてく。
そのたびに、豊かな黒髪が、ほつれて肩に流れ落ちていく。
これは、もしかして。
いや、もしかしなくても。
文偉とて、もう二十になる青年であるから、女を知らないわけではない。
しかし、これほど積極的に女から誘われる経験は、はじめてであった。
しかも、相手はめったにお目にかかることのできない絶佳ときている。
あまりの嬉しい状況に、すっかりどぎまぎしていると、不意に、紫芝の顔が、大きく見開かれた。
「どうした?」
暗がりで、ムカデでも踏んでしまったような顔をしている。
文偉の問いに答えることもなく、紫芝は、そのまま、白目を剥いて、ぱたりとその場に倒れてしまった。
おどろいた文偉が駆け寄ると、するどい制止の声がかかった。
「だめ、近づいてはなりません!」
さらに仰天したことに、戸口の帳をかきわけて、芝蘭がそこにいた。
手には、先端に針の仕込まれた、ちいさな桐のような武器を持っている。
そうして、いまは、目を隠さず、鼻と口を布で隠しているのであった。
「このひとは、全身が毒なのですわ。馬光年が育てた、体中に毒の沁み込んだ暗殺者なのです」
「なんと?」
「美貌で男を釣って、閨に入ったところで、毒を移して殺してしまうのです。吐息も涙も、唇も、すべてが毒なのです」
唐突な話に、状況がつかめずうろたえた文偉に、芝蘭は前に進み出ると、いきなり、杯を差し出した。
「さあ、お飲みなさい」
「これも毒か?」
「いいから、早くお飲みなさい! 馬光年がやってきます。その前に早く!」
「待て。そなたは、馬光年の娘ではないのか。紫芝は、姉ではないのか。どうなっている?」
芝蘭は、躊躇していたが、やがて、決意したらしく、きっ、と眼差しを強くして、まっすぐ文偉を見た。
その瞳は純粋で、夜闇に星のように輝いていた。
「わたくしが、きっと貴方をお守り申し上げますわ。ですから、どうぞこれを飲んでくださいまし!」
文偉は、ごくりと生唾を飲んだ。
芝蘭が、おのれを殺そうとしているとはおもえない。
だが、この状況は一体、どうかんがえればいいのだ?
「さあ、お早く!」
ままよ。
文偉は覚悟を決めて、芝蘭の勧める杯を飲んだ。
とたん、頭をぶん殴られたようなはげしい衝撃と、息苦しさをおぼえ、文偉は悶絶した。
涙があふれ、呼吸ができなくなる。
にじんだ視界に、芝蘭と、馬光年の姿が見えた。





『やっぱり一人ぐらいは残しておくべきだった…』
『仕方ないだろう。急だったのだから。それより、早いところ始末をしてしまえ』
『兵卒が捜しにきたりしないだろうか』
『大丈夫、奴らは動かない、さあ、早くするのだ』

ざっ、ざっ、と軍隊が土を蹴って進む音が聞こえる。
俺はどこへ行くのだ。捕虜になったのか?
俺みたいな貧乏書生なんぞ、人質になる価値もないというのに。
そんなことをぼんやりとかんがえながら、文偉は、体中がひどく冷たく、そして重たくなっていくのを感じていた。

「若様…若様…」
揺り起こされて、ようやく文偉は目を覚ました。
ひどく頭痛がする。
吐き気もひどい。
俺はどうしたのだ、と口を開こうとして、唇に溜まっていた土が口の中に入ってきた。
おもわずむせる。
「しぃっ! お静かに。奴らがもどってきてしまいますわ」
奴らとは? 
痛む頭をおさえつつ、文偉はなんとか目を開いた。
雨はいつしか止み、群雲のうえに、青白い月が昇っている。
そうして、間近にあったのは、芝蘭の心配そうな顔であった。
「よかった。薬が利きすぎてしまったのかと。時間がありません。奴らが気づく前に、早くここからお逃げください」
芝蘭のすぐそばで、獣の荒い息遣いがしている。
それも一匹や二匹ではない。

ようやく意識がはっきりしてきた文偉は、起き上がり、そして周囲を見て、絶句した。
まず、自分は掘り返された穴の中にいた。
全身、泥だらけである。
自分は、いまのいままで、土の中に埋められていたのだ。
全身を、なんとも形容しがたい、悪寒がつらぬいた。
死者のように葬られていたのだ。
傍らには芝蘭がいて、その背後には、狼のような獰猛そうな犬の群が控えている。
そして、自分の横たわっていた穴には、費観がつけてくれた従者たちの、物言わぬ骸があった。

「これは、おまえがやったのか?」
文偉の問いに、芝蘭は悲しそうに目を伏せた。
それを攻撃と取ったのか、背後に控える犬たちが、文偉に威嚇の唸り声をあげる。
「くわしくお話をしている時間がございません。若様は、いますぐ成都へおもどりくださいませ。そして、二度とここへもどってきてはなりませぬ」
「なぜ?」
「殺されてしまうからですわ。ここは群狼の村なのです。あちらの道を行けば、村の人間に気づかれることなく、広漢へもどることができます。ですが、費将軍のもとへ立ち寄られてはなりませぬ。だれにもお会いせず、まっすぐ成都におもどりを」
「従兄に会うなというのか? しかし、かれらは従兄の部下であったのだ」
「だからこそでございます。どうぞ、この芝蘭を、もう一度信じてくださいまし」
文偉が、しかし、とためらっていると、芝蘭は、意志の強そうな唇を、きゅっと引締めて、背後にいる犬たちに、鋭く命令した。
「さあ、おまえたち、この者たちの骸を引きちぎって、だれのものかわからぬようにして!」
犬たちは、芝蘭の声に忠実に、そして獰猛に、従者たちの体に襲い掛かっていく。
そのあまりの凄惨な光景に、文偉は絶句するしかない。
「な、なぜこのようなことを?」
「こうすれば、骸がだれのものか、確かめられなくなるからですわ。これで少しは時間が稼げるはず。若様、どうぞお早く、お行きくださいませ」
腰が抜けていた文偉は、なんとか立ち上がり、芝蘭の言う道へ、夢遊病者のようにふらふらと歩きだした。
が、芝蘭のことが気にかかり、足を止めて、振りかえる。
「俺を庇った、そなたはどうなる?」
「どうにもなりませんわ。ただし、貴方様がいつまでもそうしてらっしゃると、わたくしも心が変わって、犬をけしかけるかもしれませんわね」
そうして、芝蘭は、厳しい顔を文偉に向けて、叫ぶように言った。

「行って!」

その声に弾かれるようにして、文偉は芝蘭の示した道を走り出した。

費観のもとへ行こうと何度もかんがえた。
しかし、二度も命を救ってくれた、芝蘭の言葉が重くひびいた。
結局、言うとおり、広漢では、誰にも姿を見られぬよう気をつけながら、ひたすら、成都を目指した。
ようやく、目に馴染みのある成都のそばにまでやってきたとき、文偉は背後より、まさに芝蘭が形容したように、群狼のような連中が追いかけてきたことに気がついた。
なぜだ。
道中、何度とその問いを繰り返したか知れない。
しかし、答えはない。
ともかく、かれらが自分を狙っている、ということだけは、ハッキリしている。
文偉は、成都に入る直前に、農夫からロバを盗んで、これに飛び乗り、そして一路、軍師将軍の屋敷を目指した。
あとからかんがえれば、屯所へ向かえば話が早かったのかもしれないが、ともかくまっ先におもいついたのが、孔明のところだったのである。
ところが、連中はおそろしく足が速く、成都に入る直前、衣を引っつかまれて、捕まりそうになった。
しかし、天の助けというべきであろう。
ちょうど前方より、夕闇の残滓に、きらきらと輝く得物をかかげた者たちが、成都の大門の正面から出てくるのが見えた。
それを見て、追っ手は、耳にはっきりわかるほどそばで舌打ちをして、手にした文偉の衣を乱暴に引きちぎると、一端、消えて行った。

兵卒ならば、助けを請おうとおもった文偉であるが、前方よりやってきた者たちの正体を見て、おもわず笑ってしまった。
それは、農具をかかえた、郊外の農夫たちだったのである。
逢魔がときで視界があやふやだったこともあり、追っ手は武器を手にした兵卒と勘違いして退散したのだ。
しかし、油断はならない。
すぐにでも、連中は追いかけてくるだろう。
一刻も早く軍師将軍のもとへ…そうして文偉は、なんとか帰還を果たしたのであった。





「屯所に行けばよかったものを」
偉度のぶっきらぼうなことばに、文偉は、おもわず反駁する。
「仕方なかろう。屯所の当番は、たしか今月は魏将軍であったはず。わたしの話をまともに聞いてくださるかどうか、不安があったのだ」
「なるほど、文偉らしいな。追われて混乱しているなかでも、ちゃんと先のことをかんがえていたのか。しかし奇妙なものよ。村人は、なぜにおまえを狙ったのだろう。軍師、狙いはもしや、費観どのであったのかもしれませぬな」
偉度の問いかけに、孔明は、うむ、と生返事をして、傍らの蒋公琰にたずねる。
「そなたはどう見る」
「村人の正体はわかりませぬが、しかし、かれらが何かを隠そうとしていたのは事実でございましょう。しかも広漢から、成都まで追ってきたとなれば、相当なものでございます」
「文偉よ、よくおもいだせ。村長という馬光年に宴に招かれた際、どのような話をした?」
「四方山話でございます。成都の最近の様子とか…ああ、戸籍をあらたに作る、という話をいたしました。あと、橋梁の工事の話を少々」
それを聞くと、孔明は、ふむ、と呟いて、腕を組み、なにやらかんがえ込んでいる。
「芝蘭という娘だが、どんな娘であった? 隻眼という以外に、なにか特長はなかったか?」
「江東の訛りがございました」
「江東の…そうか。ほかの村人たちは?」
「それが、馬光年以外は、ほとんど口を利きませんでした。従者たちと言葉を交わした者もあったようですが、従者たちが殺されてしまったので、わかりませぬ」
「費家の者は、いままで終風村に足を踏み入れたことはなかったのだな?」
「ございません。村人がこちらに来るばかりでございました」
そうか…と、孔明は呟くと、なにやら沈思している様子だ。
その様子を、息を詰めて見守っていると、孔明は、突如として立ち上がった。
期待をこめて、休昭が孔明に尋ねる。
「軍師、なにか妙案でも?」
孔明は、ぱっと文偉を見ると、言った。
「文偉、襲われるのだ」
「は?」
唖然とする文偉の代わりに、公琰が答える。
「囮、ということでございますか」
孔明は、わが意を得たり、というふうに、深くうなづく。
「そのとおり。ほんとうならば、広漢にまで足を運べばいちばん早いのであろうが、そんな暇はない。しかし向こうがわざわざ来てくれているのだ。だったら、丁重に出迎えて差し上げればよかろう。茶菓でもってもてなす、というわけにはいかぬがな」
そして、孔明はちらりと、自分の机の上に積まれた竹簡を見て、軽くため息をつく。
「わたしはいますぐには動けぬ。わたしの代わりとして、公琰を派遣する。偉度、公琰を補佐せよ。休昭も文偉を助けてやれ。わたしも仕事を片付けたらすぐに行く」
「お待ちを。どこへ?」
孔明は、なぜそんなことを、と言わんばかりの呆れ顔で、文偉に言った。
「決まっておろう。そなたの屋敷ぞ。ああ、伯仁殿には内密な。あの御仁に知らせたら、きっと寝込んでしまわれるから」

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出・2005/05/01)


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