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芋虫のように床に転がされながら、斐仁は考えていた。
一睡もしていない。ずっと考えていた。
日の差さない地下牢において、時間を掴むことはむずかしい。
辛うじて、獄吏が運んでくる食事のおかげで、だいたいのところはつかめたが、この獄吏からして、囚人を人間扱いしておらず、居眠りをしてしまうと、食事がそのまま忘れられてしまう、といったこともあったからだ。
おれはあとどれくらい、命があるのだろう。
斐仁は生き抜くことを考え始めていた。
『壷中』への報復のために襄陽城へ押し入った。
殺す相手はだれでもよかった。
『壷中』の中心人物であれば。
『あの男』に教わったとおり、目指す相手がいるはずの部屋へ押し入った。
ところが、そこには人はいなかった。
ただ、ついさきほどまで人であった肉塊が、血の海に浮いていた。
哀れな程子文の身体であった。
わけがわからなかった。立ち尽くしていると、甲高い悲鳴が聞こえた。
花安英とかいう、程子文に付きまとっていた少年であった。
花安英の悲鳴が呼子のようになって、衛士たちがやってきて、斐仁は囚われた。
抗弁をしても、聞いてくれるものはなかった。
それが、『あの男』の狙いであったのか?
おれに罪をかぶせ、趙将軍や軍師に陰謀の疑惑を向けさせることが?
『壷中』は孔明を恐れている。
孔明が諸葛玄の甥である、という事実が、つねに『壷中』を怯えさせていた。
ただ、孔明自身は、『壷中』のことなどなにも知らない。
それに、『壷中』は、孔明に手をだすならば、もっと早くにするべきであったのだ。
孔明は、あまりに名が高くなりすぎた。
劉備の軍師になった、というのもよくなかった。
『壷中』は、まさか争いごとを嫌う孔明が、任侠あがりの劉備の軍師になるとは思っていなかったのだ。
劉備は『壷中』にまるで縁のない人間だ。
それとなく『壷中』が接触しようとしたこともあったらしいが、いずれも失敗に終わっている。
劉備のもつ、あきれるほどの健全さと、『壷中』のような不自然な組織は、相容れないから、当然の結果であった。
その劉備は、孔明を実に可愛がっている。
それは、一介の兵卒にすぎなかった斐仁の目から見てもあきらかであった。
孔明に何事かあれば、劉備は動くだろう。
現に、いま襄陽にて、諸葛玄のように孔明が遭難すれば、劉備は軍を率いてやってくる。
暗い想像に、斐仁は声をたてて笑った。
そうすれば、憎き『壷中』の連中も、あれほど流浪のヤクザどもと見下していた新野の人間に、ことごとく殺されるであろう。
その様を想像し、斐仁はいくらか慰められた。
七年間親しんだ、新野の人間に対する、屈折した想いも、そこには込められていた。
石の上を叩くようにして響く足音が近づいてくる。
食事の時間か、と首だけをもたげ、斐仁は思った。
食事のときだけは、拘束を解いてもらえる。
とはいえ、逃げられないように、足かせだけはそのままであった。
「心は決まったか、斐仁」
『じいさん』は言った。
食事よりも、待ちかねていた男であった。
斐仁は、予想より早くやってきた男に、歓喜した。
とはいえ、それは表情に出さない。
この男は、おそろしく勘がよい。
ちょっとの油断で、斐仁が心から恭順して、その指示に従おうとしているのではないと、素早く見抜くだろう。
いまの斐仁は、おとなしくなったからということで、獄吏によって、口の拘束具を外されていた。
厳しい目線を注ぐ男に、斐仁は言う。
「あんたの言っていた、『あの御方』というのがわかったぞ。諸葛孔明だな」
「そうだ。ようやく正道に立ち戻る気になったようだな。協力するか」
「無論だ。おれもようやく目が覚めた。いまこそ、昔の恩に報いるとき」
「うむ。『壷中』の動きがおかしい。早くあの御方と合流し、お守りせねばならぬ。休んでいる暇は無いぞ。動けるか」
いいざま、そいつは脇に控えていた獄吏に牢を空けさせた。
そうして、斐仁に寄ってきて、拘束を解いていく。
これでいい、と斐仁はこみあげてくる笑いを押し殺しつつ、思った。
とにかく、自由にさえなれればよいのだ。
軍師も趙将軍も、この老いぼれもどうなろうと知ったことではない。
自由になって、遂げるべきことはただひとつ。
斐仁は、暗い胸のうちで大きく叫んだ。
『壷中』に復讐を。
つづく
花の章おわり
涙の章につづく
ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました!(^^)!
涙の章もひきつづきお楽しみください♪
芋虫のように床に転がされながら、斐仁は考えていた。
一睡もしていない。ずっと考えていた。
日の差さない地下牢において、時間を掴むことはむずかしい。
辛うじて、獄吏が運んでくる食事のおかげで、だいたいのところはつかめたが、この獄吏からして、囚人を人間扱いしておらず、居眠りをしてしまうと、食事がそのまま忘れられてしまう、といったこともあったからだ。
おれはあとどれくらい、命があるのだろう。
斐仁は生き抜くことを考え始めていた。
『壷中』への報復のために襄陽城へ押し入った。
殺す相手はだれでもよかった。
『壷中』の中心人物であれば。
『あの男』に教わったとおり、目指す相手がいるはずの部屋へ押し入った。
ところが、そこには人はいなかった。
ただ、ついさきほどまで人であった肉塊が、血の海に浮いていた。
哀れな程子文の身体であった。
わけがわからなかった。立ち尽くしていると、甲高い悲鳴が聞こえた。
花安英とかいう、程子文に付きまとっていた少年であった。
花安英の悲鳴が呼子のようになって、衛士たちがやってきて、斐仁は囚われた。
抗弁をしても、聞いてくれるものはなかった。
それが、『あの男』の狙いであったのか?
おれに罪をかぶせ、趙将軍や軍師に陰謀の疑惑を向けさせることが?
『壷中』は孔明を恐れている。
孔明が諸葛玄の甥である、という事実が、つねに『壷中』を怯えさせていた。
ただ、孔明自身は、『壷中』のことなどなにも知らない。
それに、『壷中』は、孔明に手をだすならば、もっと早くにするべきであったのだ。
孔明は、あまりに名が高くなりすぎた。
劉備の軍師になった、というのもよくなかった。
『壷中』は、まさか争いごとを嫌う孔明が、任侠あがりの劉備の軍師になるとは思っていなかったのだ。
劉備は『壷中』にまるで縁のない人間だ。
それとなく『壷中』が接触しようとしたこともあったらしいが、いずれも失敗に終わっている。
劉備のもつ、あきれるほどの健全さと、『壷中』のような不自然な組織は、相容れないから、当然の結果であった。
その劉備は、孔明を実に可愛がっている。
それは、一介の兵卒にすぎなかった斐仁の目から見てもあきらかであった。
孔明に何事かあれば、劉備は動くだろう。
現に、いま襄陽にて、諸葛玄のように孔明が遭難すれば、劉備は軍を率いてやってくる。
暗い想像に、斐仁は声をたてて笑った。
そうすれば、憎き『壷中』の連中も、あれほど流浪のヤクザどもと見下していた新野の人間に、ことごとく殺されるであろう。
その様を想像し、斐仁はいくらか慰められた。
七年間親しんだ、新野の人間に対する、屈折した想いも、そこには込められていた。
石の上を叩くようにして響く足音が近づいてくる。
食事の時間か、と首だけをもたげ、斐仁は思った。
食事のときだけは、拘束を解いてもらえる。
とはいえ、逃げられないように、足かせだけはそのままであった。
「心は決まったか、斐仁」
『じいさん』は言った。
食事よりも、待ちかねていた男であった。
斐仁は、予想より早くやってきた男に、歓喜した。
とはいえ、それは表情に出さない。
この男は、おそろしく勘がよい。
ちょっとの油断で、斐仁が心から恭順して、その指示に従おうとしているのではないと、素早く見抜くだろう。
いまの斐仁は、おとなしくなったからということで、獄吏によって、口の拘束具を外されていた。
厳しい目線を注ぐ男に、斐仁は言う。
「あんたの言っていた、『あの御方』というのがわかったぞ。諸葛孔明だな」
「そうだ。ようやく正道に立ち戻る気になったようだな。協力するか」
「無論だ。おれもようやく目が覚めた。いまこそ、昔の恩に報いるとき」
「うむ。『壷中』の動きがおかしい。早くあの御方と合流し、お守りせねばならぬ。休んでいる暇は無いぞ。動けるか」
いいざま、そいつは脇に控えていた獄吏に牢を空けさせた。
そうして、斐仁に寄ってきて、拘束を解いていく。
これでいい、と斐仁はこみあげてくる笑いを押し殺しつつ、思った。
とにかく、自由にさえなれればよいのだ。
軍師も趙将軍も、この老いぼれもどうなろうと知ったことではない。
自由になって、遂げるべきことはただひとつ。
斐仁は、暗い胸のうちで大きく叫んだ。
『壷中』に復讐を。
つづく
花の章おわり
涙の章につづく
ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました!(^^)!
涙の章もひきつづきお楽しみください♪