甘寧は、はじめに送った孫権あての書状のなかに、おのれの思いのたけと、そして、これからの天下の趨勢《すうせい》がどうなるかの予測を、あますところなく綴っていた。
その予測を読んで、呂蒙は、これは只者ではないと判断したのである。
呂蒙は甘寧の見識の高さを買って、孫権へとりなす役目を買ってくれることになった。
それだけではない。
呂蒙から甘寧のことを聞いた周瑜が、甘寧につよい興味をおぼえて、同じく、推薦の役目を買ってくれることになったという。
周瑜、字を公瑾。
孫権の実兄孫策の義兄弟で、孫家を公私共に支えている傑物である。
その人物が後ろについたことで、甘寧の孫家への仕官は、まちがいのないものとなった。
甘寧は、呂蒙、つづいて周瑜と接見し、それから孫権に紹介された。
とんとんとうまい具合にすべてが順調にすすみ、あっという間に江東の孫家の家臣に加えられた。
孫権も、甘寧の気性の荒さと、義に厚い性格が気に入ったのだ。
「たしかにかれは黄祖の家臣であった。
われらの敵ではあったが、今後は仲間なのであるから、旧怨はいっさい忘れて、これに復讐しようとしてはならない」
孫権みずからが、こう命令を出したほどである。
甘寧がこれほどまでに歓迎されたのは、見どころのある人物だから、というだけではない。
歓迎された理由。
それは、周瑜にある。
孫権に下るにあたり、甘寧は、呂蒙らに送った手紙のなかで、情勢の予測のほかに、孫権がどうしたら天下をとれるか、その計画にまで筆を進めていた。
甘寧は、こう考えた。
まずは夏口をおとして黄祖を倒し、つづいて荊州を奪う。
そして荊州を奪ったあと、そこを足がかりにして益州を併呑。
中原の曹操の勢力とは、北と南とで対峙する。
実際に巴郡の生まれで、蜀では、平和にかまけて、劉璋の政治がゆるんでいることを、甘寧はその目で見て知っている。
益州を攻略するにあたって気にするべきは、土地の堅牢さであり、劉璋そのものは、すこしも恐れる必要がない。
それは、周瑜の考えと、ほぼ一致するものであった。
周瑜は天下を二分する計画を立てていたのである。
だからこそ、呂蒙はおどろき、そして周瑜は、自分と同じ目を持つ同志として、甘寧を歓迎したのである。
実際にあらわれた甘寧が、荒々しくも颯爽とした男であることが、よけいに歓迎される理由となった。
それまで冷遇されつづけてきた甘寧にとって、孫権の歓待ぶりは、夢ではないかしらというほどだった。
物資が豊かなのか、その宴は、とにもかくにも派手である。
蔵の中が空になってしまったのじゃないか、というくらいに大量の料理が並び、酒も飲みつくせないほどに、つぎからつぎへと差し出された。
いっしょについてきた子分たちにも、ご馳走が振る舞われ、それどころか、まだ何の働きもしていないうちから、それぞれに、あたらしい絹が配られた。
宴のさいには、たくさんの芸人たちがやってきて、舞姫が踊ったり、芸人が玉乗りをしてみたりと、さまざまに楽しませてくれた。
きわめつけは、宴が最高潮を迎えたころにやってきた。
それまで孫権、それから程普につぐ席に座っていた周瑜であるが、すっくと立ち上がると、楽団たちに指揮をして、剣の舞をはじめたのである。
それまでさまざまな人間の顔を見てきた甘寧にとっても、周瑜は格別だなと感心するほどの男前であった。
前もって、美貌であることは聞いていた。
実際に会って、動いているのを見ると、また一層、印象が変わる。
軽薄さのまったくない、威風堂々とした美丈夫で、物腰は優雅ながら、発言には重みがあり、若くして高い地位についた人間にありがちな驕慢《きょうまん》さは、欠片も感じることができなかった。
とん、とんと、楽団の打ち鳴らす太鼓に合わせて、うっとりするほど見事な剣の舞をみせる周瑜をながめながら、甘寧は、腹の底から、わくわくするのを感じていた。
これから、とびきり楽しいことがやってくるような、そんな予感である。
そして、甘寧をそんな心持ちにさせる、周瑜とは、そういう人物であった。
※
甘寧が黄祖のもとを去って、孫権に仕えるようになって以降、夏口に陣取る黄祖との小競り合いは、数度にわたってつづけられた。
孫権が黄祖を攻めあぐねていたのは、やはり、その水軍の強さに秘密があった。
それに、孫権のほうにも、黄祖に集中できない理由があった。
揚州の内部を荒らす、山越《さんえつ》を始めとする異民族の叛乱である。
もともとが、山越の土地に漢民族が入り込んだという図式であるが、かれらはまさに、まつろわぬ民であった。
さまざまに撃退しても、かれらは何度となく立ち上がり、孫権の統治の悩みの種となっていた。
それまで、揚州の南と、荊州に向かって西にと、孫権は両方に気を配っていた。
だが、建安十一年(206年)、周瑜を中心とした軍は、異民族討伐に、集中して動き出した。
これは周瑜と程普の見事な指揮により、大成功をおさめた。
完全とまではいかないが、あらかたの叛乱を収めることが出来たのである。
そして翌年、周瑜は勢いにのった軍を率いて、一気に夏口へ軍を向ける。
何度かの小競り合いのあと、周瑜はふたたび水軍を再編成しなおして、建安十三年(208年)夏、黄祖へふたたび軍を向けた。
黄祖との最終局面がやってきたのだった。
つづく
その予測を読んで、呂蒙は、これは只者ではないと判断したのである。
呂蒙は甘寧の見識の高さを買って、孫権へとりなす役目を買ってくれることになった。
それだけではない。
呂蒙から甘寧のことを聞いた周瑜が、甘寧につよい興味をおぼえて、同じく、推薦の役目を買ってくれることになったという。
周瑜、字を公瑾。
孫権の実兄孫策の義兄弟で、孫家を公私共に支えている傑物である。
その人物が後ろについたことで、甘寧の孫家への仕官は、まちがいのないものとなった。
甘寧は、呂蒙、つづいて周瑜と接見し、それから孫権に紹介された。
とんとんとうまい具合にすべてが順調にすすみ、あっという間に江東の孫家の家臣に加えられた。
孫権も、甘寧の気性の荒さと、義に厚い性格が気に入ったのだ。
「たしかにかれは黄祖の家臣であった。
われらの敵ではあったが、今後は仲間なのであるから、旧怨はいっさい忘れて、これに復讐しようとしてはならない」
孫権みずからが、こう命令を出したほどである。
甘寧がこれほどまでに歓迎されたのは、見どころのある人物だから、というだけではない。
歓迎された理由。
それは、周瑜にある。
孫権に下るにあたり、甘寧は、呂蒙らに送った手紙のなかで、情勢の予測のほかに、孫権がどうしたら天下をとれるか、その計画にまで筆を進めていた。
甘寧は、こう考えた。
まずは夏口をおとして黄祖を倒し、つづいて荊州を奪う。
そして荊州を奪ったあと、そこを足がかりにして益州を併呑。
中原の曹操の勢力とは、北と南とで対峙する。
実際に巴郡の生まれで、蜀では、平和にかまけて、劉璋の政治がゆるんでいることを、甘寧はその目で見て知っている。
益州を攻略するにあたって気にするべきは、土地の堅牢さであり、劉璋そのものは、すこしも恐れる必要がない。
それは、周瑜の考えと、ほぼ一致するものであった。
周瑜は天下を二分する計画を立てていたのである。
だからこそ、呂蒙はおどろき、そして周瑜は、自分と同じ目を持つ同志として、甘寧を歓迎したのである。
実際にあらわれた甘寧が、荒々しくも颯爽とした男であることが、よけいに歓迎される理由となった。
それまで冷遇されつづけてきた甘寧にとって、孫権の歓待ぶりは、夢ではないかしらというほどだった。
物資が豊かなのか、その宴は、とにもかくにも派手である。
蔵の中が空になってしまったのじゃないか、というくらいに大量の料理が並び、酒も飲みつくせないほどに、つぎからつぎへと差し出された。
いっしょについてきた子分たちにも、ご馳走が振る舞われ、それどころか、まだ何の働きもしていないうちから、それぞれに、あたらしい絹が配られた。
宴のさいには、たくさんの芸人たちがやってきて、舞姫が踊ったり、芸人が玉乗りをしてみたりと、さまざまに楽しませてくれた。
きわめつけは、宴が最高潮を迎えたころにやってきた。
それまで孫権、それから程普につぐ席に座っていた周瑜であるが、すっくと立ち上がると、楽団たちに指揮をして、剣の舞をはじめたのである。
それまでさまざまな人間の顔を見てきた甘寧にとっても、周瑜は格別だなと感心するほどの男前であった。
前もって、美貌であることは聞いていた。
実際に会って、動いているのを見ると、また一層、印象が変わる。
軽薄さのまったくない、威風堂々とした美丈夫で、物腰は優雅ながら、発言には重みがあり、若くして高い地位についた人間にありがちな驕慢《きょうまん》さは、欠片も感じることができなかった。
とん、とんと、楽団の打ち鳴らす太鼓に合わせて、うっとりするほど見事な剣の舞をみせる周瑜をながめながら、甘寧は、腹の底から、わくわくするのを感じていた。
これから、とびきり楽しいことがやってくるような、そんな予感である。
そして、甘寧をそんな心持ちにさせる、周瑜とは、そういう人物であった。
※
甘寧が黄祖のもとを去って、孫権に仕えるようになって以降、夏口に陣取る黄祖との小競り合いは、数度にわたってつづけられた。
孫権が黄祖を攻めあぐねていたのは、やはり、その水軍の強さに秘密があった。
それに、孫権のほうにも、黄祖に集中できない理由があった。
揚州の内部を荒らす、山越《さんえつ》を始めとする異民族の叛乱である。
もともとが、山越の土地に漢民族が入り込んだという図式であるが、かれらはまさに、まつろわぬ民であった。
さまざまに撃退しても、かれらは何度となく立ち上がり、孫権の統治の悩みの種となっていた。
それまで、揚州の南と、荊州に向かって西にと、孫権は両方に気を配っていた。
だが、建安十一年(206年)、周瑜を中心とした軍は、異民族討伐に、集中して動き出した。
これは周瑜と程普の見事な指揮により、大成功をおさめた。
完全とまではいかないが、あらかたの叛乱を収めることが出来たのである。
そして翌年、周瑜は勢いにのった軍を率いて、一気に夏口へ軍を向ける。
何度かの小競り合いのあと、周瑜はふたたび水軍を再編成しなおして、建安十三年(208年)夏、黄祖へふたたび軍を向けた。
黄祖との最終局面がやってきたのだった。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます(^^♪
みなさんにたくさん読んでもらっているおかげで、弾みがついております!
赤壁編も、一週間分のストックができましたー!(^^)!
この調子で、どんどん書いていきます!
今後もひきつづき、当ブログをごひいきに(^^♪
ではでは、次回もおたのしみにー(*^▽^*)