日がいよいよ西にゆっくりと傾きかけたころ。
息の詰まるような静寂に包まれた広漢の終風村は、いきなり大きく響いた、どしん、という音に、一斉に動き出した。
それは、蔵に積んでいた米俵が崩れ、地面に落ちたような音にも聞こえた。
蔵に米俵はあった。
だがそれは、崩れないようにきちんと積み上げてあったし、また米俵を移動させる作業の予定もなかった。
それをおもい出した兵卒たちは、いっせいに顔を見合わせ、音のした方角へと飛んで行く。
終風村にあつめられた兵は、みな特別に調練を受けた精鋭ばかりであった。無駄口のひとつも叩かずに、かれらは目指すところへと飛んでいく。
村の端にある、楼閣のところである。
楼閣はすでに大騒ぎとなっており、ぴんと張り詰めた糸が切れ、緊張が飽和したような状態となっていた。
楼閣の入り口には兵卒がいた。
が、中を守っていた兵卒が飛び出してくるや、これは一大事と瞬時に判断し、ともに持ち場を離れて、音のした方角に向かう。
緊張が高まっていくのと同時に、兵卒たちのあいだには、安堵ともいうべき空気がひろがっていた。
これで無事に故郷へ帰れる。
それだけではない。
敵方の軍師が死に、これで天下がふたたび統一される。
平和な世の中がやってくるのだ。
兵卒たちは、みな、劉括という子供の出自や、約束されている未来について知っていたし、そこに希望を託している者たちばかりであった。
かれらはそれぞれがそれぞれに、乱世によって受けた傷をどこかに抱えている。
劉括という子供には、とりたてて希望をもたらしてくれるような片鱗はどこにもなかったし、あの覇王曹操の事績を、こんな小さな子供が受け継いで大丈夫なのか、という不安もあった。
だが、そこに目をつぶり、あえてかれらはやってきたのだった。
中から飛び出してきた兵卒たちが、駆けつけてきた兵卒たちに声をかける。
「諸葛亮が、楼閣から飛び降りたらしい。おまえたちは、諸葛亮の部屋の真下を見てくれ。おれたちは、ほかの連中に知らせにいく」
「うむ…やつめ、いよいよ覚悟を決めたか。もうすこし粘るかとおもったが。きっとほかの連中も、喜ぶにちがいない。早く知らせてやってくれ」
わかった、といって、楼閣の内部を兵卒たちは連れ立って、無人の村を駆けていく。
自分以外の兵卒の、地面を蹴る足音を四方八方に聞きながら、みながそれぞれ、あたらしい時代に向けての高揚感をおぼえていた。
そして、そのあたらしい時代のはじまりに、自分たちが貢献しているのだという誇りが、かれらをなお、興奮させていた。
※
足がもつれそうになるのを何度も励ましながら、孔明はひたすら駆けていた。
もしも、はしこい者ならば、周囲に気を配って目立たぬようにすることも出来たであろうが、もとより生真面目で不器用な孔明には、そんなことはできない。
かぶった兜も、鎖帷子も、実際で見るのと、装着するのとではまったくちがって、重いし、動きがままならない。
これに厳しい調練がくわわるのだから、新兵が不安に怯えて故郷を恋しがるのも無理はないなと、妙に一部だけ冴えている脳裏のなかでおもいつつ、孔明は男のあとにつづいて走った。
その背を見ながら、生きて帰れたなら、工房に指示をして、軽くて丈夫な鎖帷子の作成を命令しようとぼんやりかんがえた。
自分の吐く荒い息で、耳朶が塞がっている。
「ずいぶん流暢に河北のことばを話される。何処で覚えたのです」
前方を行く男が、孔明の速さにあわせて、隣に並んで、たずねてきた。
「だれに教わったというわけでもない。旅をしているうちに、自然とおぼえたのだ。これでも耳はよいのだよ」
「もうすこしで、村の侵入者を見張るための櫓が見えてきます。そこの兵卒たちも楼閣に向かわせましょう。あとは、村を出ればよいのです」
「そう簡単に行くだろうか。首尾よく村を出られたとして、わたしはこのあたりに詳しくない」
「大丈夫、村を出た先に、樵夫が住んでおります。そいつに金をやって、道案内をさせましょう」
もともと、孔明には一案があった。
天蓋の布を裂いて、紐を作り、それをわざと途中で裂いて、自分と同じくらいの重さのものを地面に落とし、それから兵卒や陳長文たちがそちらに気をとられている隙に、楼閣を脱け出すというものである。
そうして扉の向こう側の人間の気配に注意しながら、せっせと準備にはげんでいたのだが、そこへ、さきほど、みごとな舞を披露した芸人が、ひょっこり顔をだしたのである。
しまった、見咎められたか、と観念した孔明であるが、小男は、こう言った。
「お助けいたします」
とはいえ、そうか、ありがたいと素直に喜べる状況ではない。
沈黙していると、男は、身の上を簡単に話しはじめた。
曰く、
「わたくしはしがない旅芸人の子でありましたが、芸を深く愛する魏王さまに拾われ、たいそうご温情をいただきました。それゆえ、いかに天下のためとはいえ、あの方の築き上げたものを、劉姓というだけで、あのように傀儡にしかならぬと明らかにわかっている子供に譲らねばならないなど、納得がいきませぬ。
わたしは陳長文さまにも、ひとかたならぬご恩がございますが、芸人にも義の心がございます。魏王さまは、わたくしにとっては父。父に背くことはできませぬ」
こんどは、『陳長文さま』か、とおもいつつ、孔明はとりあえず、この青年の言うことを聞くことにした。
ともかく、楼閣から脱け出すことが先決である。ここに留まる限り、確実に命はないのだから。
孔明は、自分が途中までこさえた紐を、頃合を見計らって下に垂らし、そして布団を首括り用の糸束でまとめたものに自分の上着を着せて、地面に投げ捨てた。
そうして何事かと部屋に飛び込んできた兵卒や、陳長文らが欄干から外を覗いている隙をみはからって、ともに連れ立って部屋を出た。
途中、青年がこっそり用意していたという、兜や鎖帷子などの一式にすばやく着替え、兵卒の振りをして、上手に楼閣から脱け出した、というわけである。
※
青年は、息を切らしている孔明の肩越しに、だれも追いかけてこないことを確認して、兜の下で、にやりと不敵にわらっている。
孔明はもとより、そんな気分ではない。
装束は用意されていたとはいえ、武器は用意されていなかった。
用意できなかったと青年は言ったが。
あまり息を切らせていると不信におもわれる。
孔明は懸命に息をととのえ、見えてきた櫓の兵卒に、軽く手を振って合図を送ってみた。
すると、向こうも何事かという顔をして、櫓から声をかけてくる。
孔明は、さきほど披露した、河北の訛りで兵士たちに言った。
気をつけないと、うっかり蜀の訛りが出そうになる。
孔明は董和のすすめにより、人前ではなるべく蜀の言葉を使うようにしていた。
周囲は荊州出の文官ばかりであったから、下手をすると、まったく蜀の言葉に触れる機会がない。
だからこそとおもい、注意をしてつかっているうち、かえって蜀の言葉をおぼえたのである。
「諸葛孔明が楼閣より身を投げた。ここは俺たちが守るゆえ、おまえたちもその目で確かめてくるといい」
櫓の上の男は、一瞬、声を詰まらせたが、しかしすぐに冷静に言った。
「いいや、だめだ。なにがあってもここから離れてはならぬとの命令なのだ」
優秀だな。
焦りつつも、孔明は、櫓のうえの兵卒に感心した。
だが、優秀であるからこそ、取り除かねばならぬ障害だ。
孔明は、ちょうど太陽を背にするようにして立ち、表情のわからぬ兵士たちに、慎重に言った。
「この天下の命運が決まったのだぞ。その目で見たいとはおもわぬか」
兵卒は、しばし逡巡したあと、やはり慎重に答えた。
「ちゃんと、俺の代わりをしてくれるか? 士卒長に言うなよ?」
「言ったりするものか、兄弟」
ならば、と兵卒たちは櫓を下り、楼閣のほうへと急ぐ。
孔明は、兜を目深にかぶって、顔を見られないように注意をした。
もとより、兵卒たちは、相手がまさか孔明だとはおもっていないから、まともに目を合わせることすらなく、楼閣のほうへ行ってしまった。
もしも成都に帰れることになったなら、わたしの兵には、人を確認するときに、かならず目を見るようにと指示をしよう。
いろいろ勉強になるものだなと、ひたすら前向きな孔明は、今後のことを含めて、いろいろかんがえた。
さて、櫓を守っていた兵卒たちが行ってしまうと、あとは村を出るばかりである。
とはいえ、徒歩で逃げたなら、すぐに追われてしまうだろう。
楼閣に、孔明の姿がないことが、そろそろわかる頃合だ。
諸葛孔明は殺される運命にあると兵卒たちはおもっているのだから、あざむかれたと知った兵卒たちが追いかけてきた場合、すぐさま殺される可能性が高い。
馬が必要だ。
しかし、芸人の青年は、馬を探す孔明に、素早く言うのであった。
「いけませぬ、このあたりは悪路が多い。それに山深いなかで、道らしい道はほとんどございませぬ。馬は、かえって煩わしいでしょう。森を行くのです。森を抜けて、広漢の李巌の陣まで参りましょう」
なぜ李巌の陣の位置を、ただの芸人風情が知っているのだ。
その質問を口にするのは愚かであろう。
ともかく、この村を出ることが先決である。
孔明は、素直に青年の言うことに従うことにして、ともに足早に村を出た。背後より、いまにも、
「そこな二人、待て!」
との声がかかるのではとひやひやしたが、静かなものであった。
いや、静か過ぎる。
舐められたものだな、と孔明は腹が立った。
しかし、絶体絶命の危機に際して、誇りなんぞ荷物になるだけである。
そう言ったのは、劉備だったか、それとも?
ああ、子龍か。
長坂の戦いのおり、そんなことを口にしていたことがあった。
そういうものかと感心するばかりであったが、もっと詳しく聞いておくべきだった。
いま、この状況に子龍が置かれたら、どうするだろう。
鬼神のごとき働きをみせるあの男のことだ。
やはり同じように、この青年に黙ってついていくにちがいない。
そして、その先は、どうするだろうか。
青年は、迷うことなく、村を出るとすぐに暗い森へと孔明を案内した。
倒木や草むらに足のとられやすい樹海の道を、ぐんぐん進んでいく。
たしかに悪路であった。
孔明は懸命に足を前に進めるものの、障害物が多すぎるため、先に進むことがなかなかむずかしい。
青年は、芸事で足を鍛えているのか、息を切らせつつも、速度は落とさず、どんどん先に進み、遅れがちな孔明のために障害を取り除いたり、あるいは手を貸したりと、こまめに尽くしてくれる。
その双眸には、余裕などどこにもない。
真剣そのものの眼差しであった。
この青年が、ほんとうは何者かはともかくとして、かれなりに必死なのだ、ということだけは伝わった。
必死で真剣なものというのは、利害云々をこえて、情につよく訴えるものだ。
孔明もやはりそうで、おのれの推測が正しくないほうがよい、とさえおもってしまう。
だが、すぐに気持ちを引締める。
いま目の前にいる青年は、自分に、そんな隙を作らせる男なのだ。
つづく……
(サイト「はさみの世界」初掲載・2005/06/12)
息の詰まるような静寂に包まれた広漢の終風村は、いきなり大きく響いた、どしん、という音に、一斉に動き出した。
それは、蔵に積んでいた米俵が崩れ、地面に落ちたような音にも聞こえた。
蔵に米俵はあった。
だがそれは、崩れないようにきちんと積み上げてあったし、また米俵を移動させる作業の予定もなかった。
それをおもい出した兵卒たちは、いっせいに顔を見合わせ、音のした方角へと飛んで行く。
終風村にあつめられた兵は、みな特別に調練を受けた精鋭ばかりであった。無駄口のひとつも叩かずに、かれらは目指すところへと飛んでいく。
村の端にある、楼閣のところである。
楼閣はすでに大騒ぎとなっており、ぴんと張り詰めた糸が切れ、緊張が飽和したような状態となっていた。
楼閣の入り口には兵卒がいた。
が、中を守っていた兵卒が飛び出してくるや、これは一大事と瞬時に判断し、ともに持ち場を離れて、音のした方角に向かう。
緊張が高まっていくのと同時に、兵卒たちのあいだには、安堵ともいうべき空気がひろがっていた。
これで無事に故郷へ帰れる。
それだけではない。
敵方の軍師が死に、これで天下がふたたび統一される。
平和な世の中がやってくるのだ。
兵卒たちは、みな、劉括という子供の出自や、約束されている未来について知っていたし、そこに希望を託している者たちばかりであった。
かれらはそれぞれがそれぞれに、乱世によって受けた傷をどこかに抱えている。
劉括という子供には、とりたてて希望をもたらしてくれるような片鱗はどこにもなかったし、あの覇王曹操の事績を、こんな小さな子供が受け継いで大丈夫なのか、という不安もあった。
だが、そこに目をつぶり、あえてかれらはやってきたのだった。
中から飛び出してきた兵卒たちが、駆けつけてきた兵卒たちに声をかける。
「諸葛亮が、楼閣から飛び降りたらしい。おまえたちは、諸葛亮の部屋の真下を見てくれ。おれたちは、ほかの連中に知らせにいく」
「うむ…やつめ、いよいよ覚悟を決めたか。もうすこし粘るかとおもったが。きっとほかの連中も、喜ぶにちがいない。早く知らせてやってくれ」
わかった、といって、楼閣の内部を兵卒たちは連れ立って、無人の村を駆けていく。
自分以外の兵卒の、地面を蹴る足音を四方八方に聞きながら、みながそれぞれ、あたらしい時代に向けての高揚感をおぼえていた。
そして、そのあたらしい時代のはじまりに、自分たちが貢献しているのだという誇りが、かれらをなお、興奮させていた。
※
足がもつれそうになるのを何度も励ましながら、孔明はひたすら駆けていた。
もしも、はしこい者ならば、周囲に気を配って目立たぬようにすることも出来たであろうが、もとより生真面目で不器用な孔明には、そんなことはできない。
かぶった兜も、鎖帷子も、実際で見るのと、装着するのとではまったくちがって、重いし、動きがままならない。
これに厳しい調練がくわわるのだから、新兵が不安に怯えて故郷を恋しがるのも無理はないなと、妙に一部だけ冴えている脳裏のなかでおもいつつ、孔明は男のあとにつづいて走った。
その背を見ながら、生きて帰れたなら、工房に指示をして、軽くて丈夫な鎖帷子の作成を命令しようとぼんやりかんがえた。
自分の吐く荒い息で、耳朶が塞がっている。
「ずいぶん流暢に河北のことばを話される。何処で覚えたのです」
前方を行く男が、孔明の速さにあわせて、隣に並んで、たずねてきた。
「だれに教わったというわけでもない。旅をしているうちに、自然とおぼえたのだ。これでも耳はよいのだよ」
「もうすこしで、村の侵入者を見張るための櫓が見えてきます。そこの兵卒たちも楼閣に向かわせましょう。あとは、村を出ればよいのです」
「そう簡単に行くだろうか。首尾よく村を出られたとして、わたしはこのあたりに詳しくない」
「大丈夫、村を出た先に、樵夫が住んでおります。そいつに金をやって、道案内をさせましょう」
もともと、孔明には一案があった。
天蓋の布を裂いて、紐を作り、それをわざと途中で裂いて、自分と同じくらいの重さのものを地面に落とし、それから兵卒や陳長文たちがそちらに気をとられている隙に、楼閣を脱け出すというものである。
そうして扉の向こう側の人間の気配に注意しながら、せっせと準備にはげんでいたのだが、そこへ、さきほど、みごとな舞を披露した芸人が、ひょっこり顔をだしたのである。
しまった、見咎められたか、と観念した孔明であるが、小男は、こう言った。
「お助けいたします」
とはいえ、そうか、ありがたいと素直に喜べる状況ではない。
沈黙していると、男は、身の上を簡単に話しはじめた。
曰く、
「わたくしはしがない旅芸人の子でありましたが、芸を深く愛する魏王さまに拾われ、たいそうご温情をいただきました。それゆえ、いかに天下のためとはいえ、あの方の築き上げたものを、劉姓というだけで、あのように傀儡にしかならぬと明らかにわかっている子供に譲らねばならないなど、納得がいきませぬ。
わたしは陳長文さまにも、ひとかたならぬご恩がございますが、芸人にも義の心がございます。魏王さまは、わたくしにとっては父。父に背くことはできませぬ」
こんどは、『陳長文さま』か、とおもいつつ、孔明はとりあえず、この青年の言うことを聞くことにした。
ともかく、楼閣から脱け出すことが先決である。ここに留まる限り、確実に命はないのだから。
孔明は、自分が途中までこさえた紐を、頃合を見計らって下に垂らし、そして布団を首括り用の糸束でまとめたものに自分の上着を着せて、地面に投げ捨てた。
そうして何事かと部屋に飛び込んできた兵卒や、陳長文らが欄干から外を覗いている隙をみはからって、ともに連れ立って部屋を出た。
途中、青年がこっそり用意していたという、兜や鎖帷子などの一式にすばやく着替え、兵卒の振りをして、上手に楼閣から脱け出した、というわけである。
※
青年は、息を切らしている孔明の肩越しに、だれも追いかけてこないことを確認して、兜の下で、にやりと不敵にわらっている。
孔明はもとより、そんな気分ではない。
装束は用意されていたとはいえ、武器は用意されていなかった。
用意できなかったと青年は言ったが。
あまり息を切らせていると不信におもわれる。
孔明は懸命に息をととのえ、見えてきた櫓の兵卒に、軽く手を振って合図を送ってみた。
すると、向こうも何事かという顔をして、櫓から声をかけてくる。
孔明は、さきほど披露した、河北の訛りで兵士たちに言った。
気をつけないと、うっかり蜀の訛りが出そうになる。
孔明は董和のすすめにより、人前ではなるべく蜀の言葉を使うようにしていた。
周囲は荊州出の文官ばかりであったから、下手をすると、まったく蜀の言葉に触れる機会がない。
だからこそとおもい、注意をしてつかっているうち、かえって蜀の言葉をおぼえたのである。
「諸葛孔明が楼閣より身を投げた。ここは俺たちが守るゆえ、おまえたちもその目で確かめてくるといい」
櫓の上の男は、一瞬、声を詰まらせたが、しかしすぐに冷静に言った。
「いいや、だめだ。なにがあってもここから離れてはならぬとの命令なのだ」
優秀だな。
焦りつつも、孔明は、櫓のうえの兵卒に感心した。
だが、優秀であるからこそ、取り除かねばならぬ障害だ。
孔明は、ちょうど太陽を背にするようにして立ち、表情のわからぬ兵士たちに、慎重に言った。
「この天下の命運が決まったのだぞ。その目で見たいとはおもわぬか」
兵卒は、しばし逡巡したあと、やはり慎重に答えた。
「ちゃんと、俺の代わりをしてくれるか? 士卒長に言うなよ?」
「言ったりするものか、兄弟」
ならば、と兵卒たちは櫓を下り、楼閣のほうへと急ぐ。
孔明は、兜を目深にかぶって、顔を見られないように注意をした。
もとより、兵卒たちは、相手がまさか孔明だとはおもっていないから、まともに目を合わせることすらなく、楼閣のほうへ行ってしまった。
もしも成都に帰れることになったなら、わたしの兵には、人を確認するときに、かならず目を見るようにと指示をしよう。
いろいろ勉強になるものだなと、ひたすら前向きな孔明は、今後のことを含めて、いろいろかんがえた。
さて、櫓を守っていた兵卒たちが行ってしまうと、あとは村を出るばかりである。
とはいえ、徒歩で逃げたなら、すぐに追われてしまうだろう。
楼閣に、孔明の姿がないことが、そろそろわかる頃合だ。
諸葛孔明は殺される運命にあると兵卒たちはおもっているのだから、あざむかれたと知った兵卒たちが追いかけてきた場合、すぐさま殺される可能性が高い。
馬が必要だ。
しかし、芸人の青年は、馬を探す孔明に、素早く言うのであった。
「いけませぬ、このあたりは悪路が多い。それに山深いなかで、道らしい道はほとんどございませぬ。馬は、かえって煩わしいでしょう。森を行くのです。森を抜けて、広漢の李巌の陣まで参りましょう」
なぜ李巌の陣の位置を、ただの芸人風情が知っているのだ。
その質問を口にするのは愚かであろう。
ともかく、この村を出ることが先決である。
孔明は、素直に青年の言うことに従うことにして、ともに足早に村を出た。背後より、いまにも、
「そこな二人、待て!」
との声がかかるのではとひやひやしたが、静かなものであった。
いや、静か過ぎる。
舐められたものだな、と孔明は腹が立った。
しかし、絶体絶命の危機に際して、誇りなんぞ荷物になるだけである。
そう言ったのは、劉備だったか、それとも?
ああ、子龍か。
長坂の戦いのおり、そんなことを口にしていたことがあった。
そういうものかと感心するばかりであったが、もっと詳しく聞いておくべきだった。
いま、この状況に子龍が置かれたら、どうするだろう。
鬼神のごとき働きをみせるあの男のことだ。
やはり同じように、この青年に黙ってついていくにちがいない。
そして、その先は、どうするだろうか。
青年は、迷うことなく、村を出るとすぐに暗い森へと孔明を案内した。
倒木や草むらに足のとられやすい樹海の道を、ぐんぐん進んでいく。
たしかに悪路であった。
孔明は懸命に足を前に進めるものの、障害物が多すぎるため、先に進むことがなかなかむずかしい。
青年は、芸事で足を鍛えているのか、息を切らせつつも、速度は落とさず、どんどん先に進み、遅れがちな孔明のために障害を取り除いたり、あるいは手を貸したりと、こまめに尽くしてくれる。
その双眸には、余裕などどこにもない。
真剣そのものの眼差しであった。
この青年が、ほんとうは何者かはともかくとして、かれなりに必死なのだ、ということだけは伝わった。
必死で真剣なものというのは、利害云々をこえて、情につよく訴えるものだ。
孔明もやはりそうで、おのれの推測が正しくないほうがよい、とさえおもってしまう。
だが、すぐに気持ちを引締める。
いま目の前にいる青年は、自分に、そんな隙を作らせる男なのだ。
つづく……
(サイト「はさみの世界」初掲載・2005/06/12)