孔明は思い出す。
旅をしていた。
行き先も日程もまるで決めていない、あてずっぽうの旅だった。
目の前に、不思議な光景があった。
それは、一見すると、なんの変哲もない光景だ。
草原があり、道があり、木々があり、往来がある。
ところが地面には、それまでずっと一つの轍を刻んでいたものが、とある場所までくると、綺麗に真っ二つにわかれていた。
いままでひとつの轍のあとをなぞってきたものが、二股に分かれて、それぞれ西と東に分かれていたのである。
「荷車を仲良く引いてきたのに、ここで喧嘩でもして、分かれたのかな。証拠に、轍はまったくぶれていない。おそらく、たがいの顔も見たくないほど、派手にやりあったにちがいない」
と、崔州平が言った。
たしかに、轍のあとは、相手をまるで見向きもしなかったように、迷うこともなく、別々の方向へと向かっていた。
だが、徐庶は言った。
「そうではあるまい。きっと、荷車にはおなじ荷物が運ばれていたのだ。ここでお互いの商品を広めるために、おなじ荷物を等分にわけて、西と東に散っていったのだ。
二股に分かれたあとの轍のあとがそれぞれにぶれていないのは、仲間がおのれと同じように、荷物を運んでくれるだろうとわかっているからだ。
もし喧嘩別れしたのなら、むしろしばらくは、互いのことが気になって、轍がぶれるものだろう」
まるで見て来たように言うのだな、と崔州平は呆れた。
だが徐庶は、穏やかに地平を見遣って笑い、孔明に言った。
「この轍を行った商人たちが羨ましい。一見すると、道は分かれているようだが、かれらは信頼で結びついている。じつはおなじ道を行っているのだよ。
とはいえ、かれらにそのことを教えても、そんなむずかしいことは考えてないと、かえって笑われるのだろうがな。
意識しない信頼ほど、つよい絆はないと思う。俺もこんなふうに、人を信じて、真っすぐ前を向いて歩いていける人間になりたいものだ」
わたしは君を信じている、と孔明は思ったが、照れてしまって、口に出しては言えなかった。
それに、言葉にしたところで、崔州平がからかってきて、せっかく伝えた言葉が、冗談にまぎれてしまうのは想像がついた。
孔明は、漠然と、たとえいまは道が分かれていても、やがてはまた一つにもどるのだと思っていた。
まったく逆方向に分かれた轍も、はるか彼方では、ふたたび引き合うようにして、一つになっているはずだ、と。
徐庶は、道は、ばらばらに分かれているものだ、ということを知っていたのだ。
それがたまに呼び合うことはあっても、二度とふたたび一つに戻らない、ということも。
いま、道は分かたれた。
少年のころの幼い思い込みは、すべて払拭された。
未熟であったからこそ、美しい夢を見ていられた時代は、終りを告げたのだ。
あの草原で、徐庶は孔明に、先に行け、といった。
なぜ、と問うと、やはり笑って、なぜだろう、いつもおまえはおれのあとをついてくる。だから、たまにはおれの前を行くおまえの姿をみたくなったのだ、と答えた。
おかしな注文をつけるものだと苦笑しつつ、孔明は先に進んだ。
徐庶の言ったとおり、まるでぶれずに、力強く道に刻まれた轍を下に見ながら。
あの時とおなじ。
そして徐庶は、自分の来た道を、進むのではない。戻っていく。
その胸に、慟哭と後悔を刻みつけたまま、沈黙と哀悼の中で歩くのだ。
「徐庶の夢は、おまえに託されたのだ。おまえは、けして倒れちゃならないぞ、孔明」
と、劉備は言った。
「それが生き残っていく人間の義務だ。徐庶はおのれの人生を閉ざすことで、わしに忠誠を誓ってくれたのだ。わしたちが徐庶にしてやれることは、徐庶の言うとおり、あいつのいる所まで、迎えにいってやることだ」
劉備のことばに、孔明は、顔を上げた。
目の前に、力強い、おのが主人の顔があった。
「なあ、絶対に行ってやろう」
慰めではない。劉備は、ほんとうに行けるのだと信じている。
そうして、このお方もまた、多くの人々の夢を引き継いで、ここまで生きてきた人なのだと、孔明は思った。
劉備の傍らにいる関羽も、力強く肯いた。
この人たちは、なんと強い人たちなのだろう。孤独も重圧も、ものともせず、志を貫いて生きてきた。
道ははじめから分かれている。
けして交わることはなく、近寄ることができたとしても、互いに声をかけあうだけがせいぜい。
それでも、頑固に、三つ並んで、真っすぐ前だけを向いて歩いてく者がいる。
それが劉備たちであった。
孔明は、ようやく、なぜ徐庶が、劉備をわが君として選択したのか、その真の理由がわかった気がした。
そうして、あの草原の轍を見て、徐庶が思ったように、孔明も思った。
わたしも、この人たちに負けないようになれるだろうか、と。
劉備の言葉に、孔明は涙を拭いて、笑みを浮かべて肯いた。
そうだ、必ず北へ行くのだ。
そうして徐庶に会いに行こう。
草原で先に行け、といった徐庶の姿がまぶたに浮かんだ。
彼はずっと、そこで待っていてくれるような気がした。
つづく