はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

説教将軍 3 

2018年06月26日 14時25分38秒 | 説教将軍
見舞い篇

熱が下がってきたのをおぼえた孔明は、寝台から起きあがると、上着を肩に羽織って、庭に面した欄干に出た。
休む孔明を気遣って、屋敷のものたちは自室に近づかないでいてくれる。
風がほしいといった孔明のわがままを聞いて、家人たちは、いつもの奥の部屋から、寝台を窓辺に運んでくれていた。
こうすると、新鮮な風に触れることができて心地がよい。
それに家人たちが丹精にしてくれた庭を、じっくりとながめるよい機会である。
このところ、雑務におわれてバタバタしていたから、思いもかけないよい休暇が取れたな、と孔明は思いつつ、一方で、熱がひけたなら、すぐさま阿斗のところへ行かねばならない、とも考えた。
孔明が風邪をひいたときいた阿斗と側仕えの者たちが、いち早く見舞いの品を届けてくれたのである。
気を遣わせてしまうのがいやなので、なんとか出仕しようとしたのであるが、
偉度に、
「あなたは左将軍府に風邪を持ち込むおつもりか」
と容赦なく叱られ、そこで休みをとることにしたのである。

とはいえ、なにも沼に落ちてぬれねずみになったことだけが風邪の原因ではない。
益州と荊州をまじえた人事の結果、四方八方でさまざまに不平不満の声が挙がった。
それを抑えるための作業に加えて、新体制で生じた混乱をひとつひとつ解決せねばならない。
荊州の三郡を治めていたときとは、仕事量がまったくちがう。
そのこと自体に孔明がなれず、最近は眠りが浅かった。
寝所へ入って、懸命に目を閉じても、なんとかしてくださいと訴えている民の声が耳から離れないのだ。
そのため、あっさり風邪に倒れてしまった。

なんと心の弱い、とおのれを叱りつつ、孔明は夾竹桃の青葉から透けて見える陽光を見上げた。
さわさわとおだやかな風が、たゆんだ空気を流してくれる。
庭の池に棲む蛙の鳴き声が、けろけろとのんびりした歌を唄っていた。
ふと呼ばれたような気がして顔を向けると、家人に案内されて、廊下を歩いてくるおなじみの姿を見つけた。
しまった、なんと間の悪い。
素早く寝台に戻ろうとするが、趙雲が到着するほうが早かった。
挨拶もなしに、趙雲は起きあがった孔明の姿を見て、抗議をする。
「病人が、起き上がってなんとする。しっかり休むがよい!」
「わかった、ちょっと新鮮な空気を吸いたくなっただけだ。すぐに寝台に戻るよ」
「そうしろ。熱は下がったのか」
「だいぶ薬が利いた。寒気もないし、あと一晩眠れば、回復しよう。そういうわけで、おやすみ、子龍」
「待て。俺を追い返すつもりか」
「なぜか怒っているからだよ。わたしは何かしたか?」
寝台の上で上半身だけ起きあがらせ、かたわらに置いてある座に腰かけた趙雲の言葉を待っていると、趙雲は、しばらく逡巡して、それから口を開いた。
「偉度たちが、俺たちに妙な渾名をつけて遊んでいるようだが」
「知っているよ、子龍は説教将軍だったな。でも魏延のガミガミ助平よりはるかにマシだ。ちなみにわたしはおとぼけ軍師だそうだ」
「笑い事ではない、止めよ。お前があまりに彼らに親しげにするので、逆にこちらを侮っているのではなかろうな」
「それはない。魏延にはどうだか知らぬが、子龍への渾名には、どこか親しみがあると思うがね」
「そうか? あいつらが嫌がっているのならば、これから言動に気をつける」
「大人しくなってしまっては、彼らもがっかりするだろう。ある意味、期待して『説教将軍』という渾名がつけたのだ。ありがたく頂戴するがいい」
「おとぼけ軍師も?」
「実際に、わたしはとぼけるからな。よく観察していると思うよ」
と、孔明は風邪のせいですこしひりつく咽喉に注意しながら、声をたてて笑った。
そうして、なにやら肩透かしを食ったような顔をしている趙雲を見る。
「なんだ、それを言いにわざわざ来たのか? そうではあるまい。今日は、みなも病人に遠慮して、邪魔をすることもない。なにか普段いえないようなことがあれば、いまが吉日であるぞ」
「あらためてそういわれると、特にないな。いつも、言えるときに口にしているから…おまえのが移ったな」
「ついでに風邪も持って行ってくれ。ところで、良くんが心配していたのだが」
「しろま…いや、季常どのが? なにを?」
「位の件だよ。謖も騒いでいるらしいが、やはりあなたも与えられた官位に不満があるのか?」
趙雲は即答した。
「ない」
「だろうね。子龍は地位で騒ぐ男ではないと言っておいた」
「助かる。妙な気遣いをされては、こちらも困るからな。白まゆげも、よい男なのだが」
「なんだ、あなたも渾名を使っているのではないか。本人には言うなよ、落ち込むから。で?」
「で?」
「ほかになにか?」
孔明は、趙雲が言葉をつづけることを期待したのであるが、しかし思ったように返事がかえってこない。
趙雲は、しばらく考え込んだあと、やはり何も出てこなかった様子で、
「なにもないな。では、帰るか」
と、腰を浮かせる。
孔明はあわてて留めた。
「待て待て、もう帰るのか、つまらぬ」
「病人は、病人らしく大人しくしろ。あまり喋るな。おまえ、だんだん声がおかしくなってきているぞ」
たしかに、さきほどより咽喉の痛みが強くなっているようだ。
もとより腫れていた咽喉が、熱が下がってきて、気になるようになったらしい。
「つまらぬ」
咽喉を気にしつつ、孔明は横になった。
趙雲が帰ろうと座を外す気配がある。
いかん、本格的につまらない。
「子龍、よいことを思いついたのだが」
「なんだ。おとなしく寝ていろ」
「そのつもりなのだが、退屈なので、どうも大人しくしていられない。そこで頼みがあるのだが」
「頼み?」
「うん。なんでもいいから話をしていてくれないか。そうすれば気もまぎれるし…そうだな、説教でもいい」
「説教でもいいと言われて説教をするのも初めてだが」
「すべての事柄に初めはある。なんでもいいのだよ、なんでも。人払いをしてあるから、呼ばない限りだれも来ない。まあ、言いたいことがあれば言ってくれてかまわないし、昔の話でもいい。なんでもいいのだ」
「なんでも、といわれると、かえって困るが」
そうだな、と趙雲はしばし考えて、ふたたび寝台のそばの座に腰かけると、中庭のほうを眺める姿勢で、ぽつぽつと昔の話や、最近の出来事などを、ゆっくりと語りだした。
穏やかに語られる言葉を耳にしながら、孔明は瞑目する。
趙雲の言葉だけを聞いていればよいから、近頃ひっきりなしに耳に届いていた、訴えの声が聞こえない。
よかった。
そう思いつつ、孔明はいつしか深い眠りに誘われていた。

つづく……

お待たせしました。
このお話は、まだつづきます。

説教将軍 2

2018年06月25日 09時40分52秒 | 説教将軍
「待て。熱に悩む者に、此度の人事の不服を唱えるか。礼儀知らずもよいところであろう」
「う。なんだって知っているのさ」
と驚きのあまり素顔を見せて、馬謖は、趙雲の隣にいる偉度を睨みつける。
しかし偉度はけろりとした顔をしているのであった。
「けれど、おかしいでしょう、こたびの入蜀にあたり、わたしは影になり日向になり、主公の補佐をいたしましたのに、拝領した位が『綿竹と成都の令』だけだなんて!」
「十分であろう。なにをこれ以上望む」
馬謖は、あからさまに偉度に対抗意識を燃やしているらしく、いちいち偉度を睨みつけながら、答えた。
「もっと高位の、そう、兄上と同等の位でなければ納得できませぬ!」
趙雲は、この若者のうぬぼれぶりにすっかり呆れて、言った。
「たわけめが、話にならぬ。帰って頭を冷せ!」
「なぜ。第一、あなただって、そんなふうに威張っているけれど、今回の人事に不服があるクチではありませぬか? 聞きましたぞ、翊軍将軍ですと? 将軍職のなかでも低いほうでございますな? ほんとうは、腹に据えかねているのではありませぬか?」
「俺はこれで満足している。むしろ、位なんぞないほうがいいくらいだ」
「無位無官で満足と? へえ? そんなにあなたが高潔の士だとは知りませんでした」
「あいにくと、俺の実像と、おまえの印象とでずれがあるようだな。さっさと帰って、あたらしい仕事の準備をしたらよい。さきほど、しろまゆ…いや、おまえの兄君は、左将軍府に挨拶に参られておったぞ。すこしは見習え」
「兄は兄、わたしは、わたし!」

威張る馬謖をよそに、偉度はそっと趙雲に耳打ちをした。
「将軍、このままだらだらと話をしても無駄です。ずばっと、おっしゃってください」
「俺なりに、ずばっと言ったつもりなのだが」
「駄目です、伝わっておりませぬ」
「さっきから、なに二人でひそひそやっておられるのか! 本人を前にして感じ悪い。それこそ礼儀知らずでございますぞ」
「たしかに、いまのはそうであったかも知れぬ」
「謝ってどうするのですか、趙将軍、いまこそ、説教将軍の本領発揮でございますよ!」
「やはり渾名はあったのだな…」
「ガミガミ助平よりマシでしょう。ちなみにこれは魏将軍の渾名です」
気の毒だなと思いつつ、たしかにそれよりはマシかと少しだけ安堵しながら、趙雲は馬謖に向き直った。

「馬幼常、なにかと不服があるやもしれぬが、それを訴えることに力を注ぐより、おのれの実力をみなに示すことに専念しようとは思わぬのか? いまのそなたは、うぬぼれた愚か者が、身の丈にあわぬ要求をして騒いでいるようにしか見えぬ。もっと厳しいことをいえば、おまえの姿は、じつに滑稽だ」
「このわたくしが、滑稽と?」
「そうだ。人間は位ではない。全身からにじみ出る風格だ。たとえ無位無官の人間でも、その内側に錦の心があれば、人は自然とその者に目を向けて、知らず、自分たちの上に押し上げてくれるものだ」
馬謖は、なにか思い当たったらしく、うんうん、と肯きながら、趙雲に言った。
「そうそう、思い出した。わたしはあなたに高みを目指せとかなんとか言われて、すっかり騙されたのだった。高いところへ登って見たけれど、高山病になっただけだった! もうあなたの言葉は聞かない!」
「…そういえば、そんな説教をしたことがある気がする」
背後で、偉度が、説教将軍が押されている! と呻いているので、趙雲は片手を伸ばして、その頭にゲンコツを落とした。
「よいか、人間は、とかく質なのだ。内側にある質を向上させねば、よき仕事を果たすことはできぬ。たといそなたが兄に並ぶ高位を与えられたとして、俺には、おまえのように世間を知らぬ者に、なにも為すことはできぬと思う」
「わたしは世間知らずなんかじゃない」
「どうだかな。場所が違って人が違えば世間を広く知った、ということにはならぬぞ。おまえは、見るに、いつも似たような世界、似たような士人としか付き合ってこなかった口であろう。そのように狭い社会のなかで生きる者を世間知らずというのだ」
「………」
馬謖は沈黙した。

趙雲はこの馬家の五男坊にほとほと呆れていたが、それでも憎みきれないのは、どこか孔明のように、良家の子息にありがちな世間知らずな面が、気の毒に本人にツケとなって返ってきているところが似ているからであった。
素直なところも似ている。
馬謖はなんだかんだと、ちゃんと人の言葉は吟味するのだ。

「まずは、位を上げてくれと騒ぐ前に、おのれの世間を広げるがいい。そうすれば、斯様に地位に拘ることもなくなるはずだ」
趙雲の世間とは、市井の貧民や義侠の者たち、そのほかさまざまな身分、出自の者たちが雑多にいる、ふつうの町を想定していた。
学問を修めたからとか、有名な私塾に通っていたから学がある、というものではない。
世の中には、たとえ文字や数字がわからなくても、一を聞いて十を知る類いの才能のある者たちが山ほどいるのだ。
そういったものたちに揉まれ、切磋琢磨することこそが世間を知ることであると思ったのであるが、馬謖は、ぱっと目を輝かせて顔を上げると、言った。
「わたしは目覚めましたぞ!」
「うん?」
「たしかにわたくしは世間知らずでございました。趙将軍、おことばありがとうございまする! 真に向かうべき道が見え申した!」
大げさだな、とうろたえつつ、趙雲は、感激のあまり目をキラキラとさせて手を握ってくる馬謖の好きなように任せておいた。
ともかく、説教が利いて、病床の孔明のもとへ押しかけなければそれでよい。
馬謖は感謝の言葉を山のように述べ、それから来たときと同様に、やはり意気揚々と帰って言った。
だが、なぜか釈然としない趙雲であったが…





数日後、趙雲は劉備に招聘され、宮城へ参内した。
行ってみると、劉備はしきりに首をひねっている。
「なあ、子龍よ、おまえ、馬家ンとこの白まゆげの弟に、なんか言ったかい?」
白まゆげの渾名はここにまで浸透していたのか、と思いつつ、趙雲は答えた。
「たいしたことは言っておりませぬ。なにか、抗議でもございましたか?」
「いんや。白まゆげの弟が、みんながいやがっていた、蛮族だらけの越嶲郡の太守を買って出てくれてな。大助かりなのだが、なーんか釈然としないのだ。
おまえ、なんだってあんなド田舎にわざわざ引っ込みたがるのだ、と聞いたのだが、すべては趙将軍のおことばのままに、とこうだよ。おまえがあいつに言ったことを、なるべく忠実に儂に聞かせてみてくれねぇか」
そこで趙雲は、言われるまま、馬謖にした説教を、そのまま繰り返したのだが、やがて劉備は、うーんと考え込んでしまった。
「それがしは、なにか間違いをしましたでしょうか」
「まちがい…というか、子龍よ。馬幼常のやつ、『まったくちがう世間』とやらを求めて、わざわざ蛮地に向かったんじゃねぇのかな」
「それは」
「だがよ、あそこで馬幼常が磨かれるかっていったら、儂は疑問だと思うぜ。学問の上じゃあ、あっちじゃあいつは一番になっちまう。賢者がやってきた、って具合にちやほやさせて、鼻っ柱がもっと強くなって帰ってこなけりゃいいのだがなぁ。そんなやつが、いつか中央に帰ってきて、なにか揉め事を起こさないといいのだが」

呼び戻そうかな、どうしようかな、と劉備は迷っていたようだ。
が、ちょうどよい人材がいなかったこともあり、結局、馬謖はしばらく彼の地の太守として過ごすこととなる。
そしてその期間、馬謖は劉備の想像どおり、あちこちからちやほやされて過ごした。


劉備のいやな予感が的中するのは、それから十四年後のことになるが、十四年もの期間を置いての失敗を、この一点に遡るのは、酷というものであろう。
ただ、街亭の戦いにおいての馬謖の失策を、老将となった趙雲が、まるでおのれのことのように悔しがった事情は、このことによって説明ができるであろう。
あくまで風聞であり、歴史にはあらわれていないのであるが。

つづく……

説教将軍 1

2018年06月24日 16時31分20秒 | 説教将軍
馬謖、字を幼常。
馬家の五男坊であり、弁舌さわやかな好青年(自称)。
しかし彼が渋い顔をして辞令を見つめているのは、なにも山椒の実を食べたからではない。
卓の上には劉備直筆の辞令書。
そして卓の向いがわでは、荊州から連れてきた老いた母が、しくしくと泣いている。
部屋には、ほかに馬良もいた。
これは旅装も解いていない状態で、その場に立ち尽くしている。

「なにかの間違いでございます。ええ、そうですとも」
と、馬謖は鼻をつんと逸らせて気丈に言う。
だが、強気な言をうけて、辞令の上の言葉が魔法のように変わるというわけではなく、そこには変わらず、武骨な文字で
「綿竹・成都の令を命ずる。ガンバレ」
とあった。
馬謖はがたん、と乱暴に席を立ち、辞令を床に叩きつけた。
「やっぱり納得なんてできないっ! 母上、兄上、わたくし、明日にでも宮城の主公のもとへ参り、この辞令は別の者に渡すものではなかったかと糺してまいります!」
「よさぬか、無礼者! そのようなことをしたら、馬家全体に累が及ぼうぞ!」
「なにを言うのです、良や! 謖がこのような低位なわけがない! これは馬家に対する陰謀かもしれませぬ!」
嗚呼、この世の終わりです、などと大げさになげく母親の姿にあきれつつ、馬良は、そっと戸口から、どうしたらよいものかと顔を覗かせている従者に、とりあえず荷をほどいておくように、と伝えた。

このたび、馬良は劉備に成都に呼び寄せられ、孔明と並んで補佐につくよう命じられた。
だが、それとほぼ同時に、弟の馬謖と母親より、至急、成都にこられたしという手紙を受け取っていたのである。
詳細はあきらかではなかったが、内容がともかく切羽詰っていたので、何事かと単身、駆けつけた馬良の前に突きつけられたのが、馬謖に与えられた『辞令』であった。

馬良は、ああ、またかとウンザリして、怒りに燃える母親とわがままな弟を諭すように言う。
「謖、この辞令になんの不満がある? そなたはいくつだ。年齢にはとても見合わぬほどの高位と思うのだがな」
それを聞いた母親が、んまー! と抗議の声を挙げた。
「齢二十六で片田舎の令! それが高位と言えるのですか!」
「十分でございますよ。謖がなにか大きな手柄を立てたというわけでもなし。だいたい、母上はだれを基準に、低いだの高いだのおっしゃっておられるのですか」
「決まっております、諸葛孔明どのです!」
やはりな、と思いつつ、長旅の疲れも有り、痛んできたこめかみを押さえつつ、馬良は言った。
「くらべる相手が悪すぎます。孔明と謖では月とすっぽん、格がちがう」
「もちろん、すっぽんは孔明どののほうでしょうね?」
「ウチがすっぽんです。しかし謖よ、不満があるという、おまえのその根拠のない自信はどこからくるのだ?」
馬謖は、分からず屋の兄にいらいらしながら、叫ぶように言った。
「わたくしの全身から理由があふれているでしょう! この誰より優れたわたくしが、なぜに『令』などという低位! 主公の目は」
「おっと、待て。それ以上口にしたら、わたしはそなたを密告せねばならなくなる」
「密告!」
「なんという子でしょう! そんなことをしたら、十歳までおねしょをしていたことをみなにばらしますよ!」
「母上は口をお出しにならないでください。謖に甘すぎます! それに、なんだって亮くんばかり目の仇になさるのですか」
「なにを言うのです、そなたは悔しくないのですか? 徐州からの難民が、あれよあれよというまに劉左将軍に取り入って、いつの間にやら軍師将軍ですって? しかも親戚だというのに、わたくしたちになんの恩恵も与えてくださらない。しかも、そなたのほうが優秀だというのに、彼の御方のほうが高位というこの理不尽! 母は黙っておられませぬ。これはもしかしたら、孔明どのの、馬家による嫌がらせなのかも!」

孔明が馬家に悪感情をもっている、ということはない。
むしろ、馬良の母が、諸葛家に悪感情を持っている。
馬良の母は、孔明の弟、均の結婚をめぐるいざこざで、中心となって、その幸福に水を差しまくった女性なのである。
ああ、父上がしっかりしておられたら(馬家の隠居は最近、ぼけかけていた)、兄上がご健勝であられたら、と馬良は嘆息する。
年々、母親は頑なになって、老いが迫っているのも自覚しているせいか、五男坊への偏愛が増しているように思える。

「お待ちくだされ、なにを根拠にそのような。わたくしは、亮くんはもっと高位であってもおかしくないと思っておりますよ。てっきり蜀郡太守になるのではと思っていたのですからね。軍師将軍と左将軍府事の兼任ということは、主公になにかのお考えがあるのでしょう。わたくしが思うに、亮くんがまだ若すぎるので、しばし経験を積ませ、それからもっと高位につけようという、主公のお気遣いかと思われます」
「では、うちにはどのような配慮が?」
そうだ、このひとたちは、常に自分が世の中の中心でいなければ気が済まない性質であるのだった、と心底ウンザリしつつ、馬良は苛立ちを抑えて言った。
「配慮はございます。それが、馬謖のこのたびの『厚遇』でございましょう」
「納得できませぬ!」
「納得するのだ! まったく、手に入らぬおもちゃを欲しがってぐずる子供のようではないか。いつであったか、人間は位じゃない、黙っていてもにじみ出る風格だ、と言っていたではないか。それがどうしてコロリと変わったのだ」
「兄上、兄上は、孔明どのの主簿をご存知か」
孔明の主簿、と聞いて、馬良はすこしびくりとする。

馬良は性格の好さから、たいがいの人物に好かれるし、それだけが唯一の自分のとりえだと思っていたのだが、どうもほかと勝手が違うのが、孔明の主簿の胡偉度であった。
地味にしているものの、よくよく見れば端麗な容姿を持つ青年で、孔明と実の弟の均が似ていないものだから、偉度のほうが、孔明の弟のようにさえ見える。
しかし、見た目は桜花のように華やかで儚げでも、その実際はへびいちご。
仕事のうえで偉度と対決することが何度もあったのだが、そのたびに馬良は心の臓が止まるような思いをしてきた。
なぜだか、馬謖よりも年下のこの青年、怖いのである。

「偉度どのがどうした」
「おかしいのです。このあいだ、成都の宮城で会ったのですが、やはり位は変わらず、孔明どのの主簿ということでした」
「それのどこがおかしい。官位についておらぬというところがか?」
「そうではありませぬ。兄上、胡偉度は、ただの主簿でございましょう? それなのに、禄がわたくしの数倍も高いのです。ほかの将軍方と肩を並べられるほどなのですぞ?」
「まことか! というか、よく人さまの給付を聞けたものだな」
「そこはそれ、謖の弁舌の巧みさゆえでございます」
と自慢げに胸を張る弟を、くらくらして馬良は見た。
この図々しさ、大物の兆しだといって父や母はもてはやしていたが、単に気遣いが大量不足しているだけである。
「孔明殿は、偉度殿を贔屓されているとしか思えませぬ。兄上、ですからわたくしは腹を立てておるのです!」

孔明は、人事にあたり、贔屓を反映させることはない。
それに、今回の人事は、孔明よりも、劉備の意向が強く出ている。
益州方に遠慮といっていいほどに配慮した人事となっているのだ。
そのなかで、胡偉度だけが主簿という地位にもかかわらず、禄が高い、という。
それを聞き、馬良はようやく疑問が解けたような思いがした。
馬謖よりもずっと若いというのに、孔明の主簿を立派に勤め上げている能力の高さ、そして時折見せる、背筋が寒くなるほどのつめたい眼差し。
孫子の用間篇の一節が思い浮かび、馬良は納得する。
曰く、
「三軍のこと、間(間者)より親しきはなく、賞(賞与)は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし。」
そういうことであったか…

「なにを納得しておられるのです、兄上? あの主簿め、わたくしより年下だというのに、此度の人事に不満があると打ち明けたら、そんなことは、わたしのしったことじゃない、文句があるなら、だれもがそれはおかしいと言ってくれるように、実力をつけなさい、と言うのですよ!」
「正論だ」
「正論でも何でも、年上に対して、この口の利き方は許せませぬ!」
「許せなかろうと、なんであろうと、兄としては、おまえがウカツにも、主公の決定に不服があると口外したことが許せぬぞ」
「う。それはそれ、ともかく、わたくしは、明日、ひとまず孔明どのに抗議をしに参ります!」
「亮くんに? なぜ?」
「あの主簿が、主公に言う前に、孔明どのに言えば、なんとかなるかもしれないと」
ならぬだろう、と馬良は思ったが、もしかしたら孔明が偉度に、そのように指示をしたのかもしれない。しばらく黙っていることにしようと判断し、息巻く弟を宥めるのに終始した。






「なんともならぬであろう」
「わかっておりますよ。そこはそれ、趙将軍の口から、ずばっとお願いいたします」
趙雲が、俺は忙しい、といって踵を返そうとすると、偉度はあわてて引き止めた。
宮城の廊下である。
ほかに人はまばらで、だれか通りすぎたとしても、いそがしいのか目礼だけして足早に去っていく。
それはそうであろう。
人事が刷新されたことで、仕事は山のように増えた。
趙雲としてもひまではなかったら、偉度の話をさっさと切り上げようとしていた。
「まあまあ、お待ちなさい。あの馬幼常とかいう、白まゆげの弟にはみな困っているのですよ。ともかくわがままでうぬぼれや。協調性のカケラもない。悪気がないから余計に注意がしづらいし」
「白まゆげ…それは馬季常どののことか」
「そうですよ、白まゆげ。ほかに呼び様がないでしょう。白まゆげ。ちなみに黄漢升さまは山羊髯じいさま、張益徳さまは虎髯の親父さん」
「おまえたち、俺のことも妙な渾名で呼んでいるのだろうな」
「ご安心を、『カッコイイ趙将軍』」
「嘘をつけ! くだらぬ、俺は帰るぞ」
「わかりましたよ、たしかに嘘です。趙将軍は、隙がないのでよい渾名が付けられません。そんな貴方様にぜひお願いしたい。そろそろ左将軍府にやってくる馬幼常に、『身の丈に過ぎる高位を頂戴していて、文句を言うな』。そのひとことでかまいませぬ」
「おまえが言えばよかろう。いや、これは軍師の仕事だ。軍師はなにをしている」
「熱を出して寝込んでおります」
風邪、と聞いて趙雲の顔色が変わるのを、胡偉度はいつものことだが、と思いつつ、呆れて見た。
「相変わらず、軍師に関する諸事項にはするどい関心を示される。お気の毒な趙将軍、熱にうなされる軍師のかわりに、ぜひこの面倒な仕事をまかされていただきたい」
「俺のなにが気の毒だというのだ。軍師はなぜ熱を?」
「昨日、宮城に主公のお召しで参内されまして、その際に、阿斗さまと対面されたのです。阿斗さまは、軍師に一緒に遊んでほしいとおっしゃられまして、軍師もそれに乗ったのです。子供が苦手なくせに、よくやるなと、わたくしなんぞは思ったのですが」
「ひと言多い。軍師にとって、阿斗さまは特別なお子なのだ。主公の軍師になられたちょうど同じころに生を受けられた御子だからな。で?」
「軍師と阿斗さまたちは、目隠し鬼を始められたのですが、軍師が鬼になったとき、見事にとろいところを披露なさいまして、中庭の池にどぶん、と」
「それで風邪を引いたわけか」
「すぐに着替えれば問題がなかったのですよ。池に落ちた軍師におどろいた阿斗様が泣いてしまわれて、軍師がぬれねずみのくせして宥めておられたものですから、そのあいだに体が冷えて、風邪を引いたのです。莫迦ですよ、あのひと」
偉度は、自分以外に孔明が優しくしているところを見ると臍を曲げる、幼子のようなところがある。
今回もそれなのだ。
その性質をよく知っている趙雲は、ぶちぶちいう偉度の言葉を流した。
「あとで見舞いに行かねばならぬな。それはそうと、馬謖はどうするのだ」
「どうするもこうするも、あの意味不明なほどに高すぎる鼻を、趙将軍がいちど、ぺしゃんこにするべきでございます」
「おまえがやればよかろう」
「わたくしではだめです。位も低いし、年も下。説得力がございませぬ。その点、趙将軍は完璧」
「どこがどう、完璧だ?」
「ほら、噂をすればなんとやら」
と、偉度が示した先には、意気揚々と馬謖が左将軍府の廊下を歩いてくるところであった。
だが、廊下の途中にいる趙雲の姿をみて、ぎくりとした様子で、足を止める。
それでも、引き返すのは誇りが許さないとでもおもっているのか、引きつった笑みを浮かべつつ、近づいてきた。
「お久しぶりでございますな、趙将軍。軍師はいずれに?」
「風邪を引いて自邸で寝込んでいるそうだ」
「それはいけませぬ。わたくしの話を聞いてもらいがてら、お見舞いとすることにいたしましょう」

それを聞いて、趙雲は不本意ながら、ここでこやつを止めねばならぬ、と決めた。

つづく……

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