「末っ子、もうひとつ、言っておかねばならぬことがある」
雲が怪訝そうな顔をすると、敬は親しげに、雲の頭を軽く叩いた。
「おまえだけには話しておこう。
じつは、わたしは今日、戻ってきたのではないのだ。
もっと以前に常山真定に戻ってきていたのだよ。
決まりがわるくて姿を出せなくてね。
でも姿を見せることができて、すっきりした。
顔を出そうと思ったのは、おまえが昔の自分に見えて仕方がなかったからさ。
ついでに、おもしろいことをしてやろう。
わたしは洛陽で、すこしばかり占術をかじってきたのだ。おまえの未来を占ってやろう」
占いなんて、ぞっとしない。
断ろうと思ったが、敬は雲の意思をまったく無視して、その顎をぐい、と掴むと、じっくりと、その顔をながめはじめた。
雲は思った。
自分が次兄に、未来のおのれの風貌を見ているように、次兄も自分に、かつての自分の姿を重ねているのだろうか。
だとしたら、いまの次兄の目に映る自分は、どんなふうなのだろう。
「おまえはいま、岐路に立っている。
一歩、どちらかに進んでしまえば、二度と戻ることはできないから、よく聞け。
おまえの目の前には、いま二つの道がある。
片方の行き先は、あそこだ」
敬は、土塁の前にひろがる、常山真定の街を指した。
「袁家の婿となって、幸福で平坦な道を行くこと。
この道を進めば、おまえはこの土地から離れることなく、一生を家族に囲まれて、退屈だが穏やかに過ごすことができる。
なに、不安がることはない。おまえが兄上のようになるとはかぎらぬ。
これはこれで、よい運勢だ」
雲はがっかりした。
やはり、一生ここなのか。
「まあ、待て。結論を出すのは早い。
道は二つあるのだと言っただろう。
ただ、もう一方は、恐怖と、危険に満ちた道だ。
報われることも少なく、涙を噛み殺して、前に進むような苦難の連続となるだろう。
冒険と戦いの毎日だ。わくわくするであろうが、死と直面する毎日でもある。
だが、この道の行く手は、まばゆい光に包まれている。
おまえのすべての労苦は、この光によって救われるだろう」
光、などと言われても、ぴんとこない。
なにを意味するものなのだろうか。
「どちらへ向かおうとも、寿命は同じ。
ただ、到達する幸福の種類がちがう。
日々のささやかな生活に幸福を見出すか、光によってもたらされる、魂の充足を願うか、どちらを選ぶかだ。
まあ、熟慮するのだな」
似たような面差しをしている人間から、ふたつの運命があると占われるのも奇妙だと、雲は思った。
とはいえ、敬がからかっている、というふうでもない。
どちらも寿命が同じというのならば、ささやかな幸福に支えられる道と、冒険と戦いの果てに、光が待つ道では、辛い思いをしなくてすむぶん、前者のほうがいいに決まっている。
だが…
「雲よ、おまえの出した答えを、わたしは聞かないでおく。
だが、これだけは覚えておくがいい。
お前がどちらかを選べば、選ばれなかったほうとは、決別することになるだろう。
そういう宿命なのだ。
おまえの持てる勇気、すべてを使って選べ。
そして、選ばれなかった者、捨てられた者の怨嗟に耳を傾けてはならぬ。
おまえの選んだ道の途中に、わたしがいるかどうかはわからぬから、二度と会えないかもしれないな」
それはさびしいな、と雲は思った。
はじめて、なんでも相談できそうな大人に出会えたのに、それが兄だというのに、もう別れの時がきたというのか。
敬は急に手を伸ばし、包み込むように、雲をぎゅっと抱きしめた。
旅慣れた兄の体からは、大地の土煙と、陽射しの匂いがした。
立ち去りぎわ、敬は言った。
「お前がもし、苦難の道を進む決心をしたのならば、僭越ではあるが、わたしがおまえにあざなを授けよう。
戦場に出たならば、『子龍』と名乗るといい。
なぜか、だと? 格好いいではないか。
わたしの字は叔斉などというつまらない字だが、『子龍』はよい。
雲と龍とでうまく意味もつながるし、おまえが鳥よりも高く飛ぶことのできる龍となって、はやく光にたどり着けるように、という願いもこめてある。
これはいま、思いついたのだが」
そう言って、敬は、わたしは、こじつけの天才なのだ、と声をたてて笑った。
自分によく似た面差しに浮かぶ笑みはひどく温かく、そしてどこか懐かしさを思わせるものであった。
「わたしの贈り物は、以上だ。さらばだ、末っ子、達者でな」
そう言って、次兄は来たときと同じように、飄々と去っていった。
雲は動くことができず、しばらく、闇に溶けていく、敬のうしろ姿を見送っていた。
おそらく、これが、次兄の姿を見ることができる、最後の機会だろう、という予感がした。
ふと、頬に冷たいものが触れて、見あげると、黒い雲のうねる空から、ちらほらと雪が舞い降りてきた。
本格的な冬がやってきたのだ。
つづく
雲が怪訝そうな顔をすると、敬は親しげに、雲の頭を軽く叩いた。
「おまえだけには話しておこう。
じつは、わたしは今日、戻ってきたのではないのだ。
もっと以前に常山真定に戻ってきていたのだよ。
決まりがわるくて姿を出せなくてね。
でも姿を見せることができて、すっきりした。
顔を出そうと思ったのは、おまえが昔の自分に見えて仕方がなかったからさ。
ついでに、おもしろいことをしてやろう。
わたしは洛陽で、すこしばかり占術をかじってきたのだ。おまえの未来を占ってやろう」
占いなんて、ぞっとしない。
断ろうと思ったが、敬は雲の意思をまったく無視して、その顎をぐい、と掴むと、じっくりと、その顔をながめはじめた。
雲は思った。
自分が次兄に、未来のおのれの風貌を見ているように、次兄も自分に、かつての自分の姿を重ねているのだろうか。
だとしたら、いまの次兄の目に映る自分は、どんなふうなのだろう。
「おまえはいま、岐路に立っている。
一歩、どちらかに進んでしまえば、二度と戻ることはできないから、よく聞け。
おまえの目の前には、いま二つの道がある。
片方の行き先は、あそこだ」
敬は、土塁の前にひろがる、常山真定の街を指した。
「袁家の婿となって、幸福で平坦な道を行くこと。
この道を進めば、おまえはこの土地から離れることなく、一生を家族に囲まれて、退屈だが穏やかに過ごすことができる。
なに、不安がることはない。おまえが兄上のようになるとはかぎらぬ。
これはこれで、よい運勢だ」
雲はがっかりした。
やはり、一生ここなのか。
「まあ、待て。結論を出すのは早い。
道は二つあるのだと言っただろう。
ただ、もう一方は、恐怖と、危険に満ちた道だ。
報われることも少なく、涙を噛み殺して、前に進むような苦難の連続となるだろう。
冒険と戦いの毎日だ。わくわくするであろうが、死と直面する毎日でもある。
だが、この道の行く手は、まばゆい光に包まれている。
おまえのすべての労苦は、この光によって救われるだろう」
光、などと言われても、ぴんとこない。
なにを意味するものなのだろうか。
「どちらへ向かおうとも、寿命は同じ。
ただ、到達する幸福の種類がちがう。
日々のささやかな生活に幸福を見出すか、光によってもたらされる、魂の充足を願うか、どちらを選ぶかだ。
まあ、熟慮するのだな」
似たような面差しをしている人間から、ふたつの運命があると占われるのも奇妙だと、雲は思った。
とはいえ、敬がからかっている、というふうでもない。
どちらも寿命が同じというのならば、ささやかな幸福に支えられる道と、冒険と戦いの果てに、光が待つ道では、辛い思いをしなくてすむぶん、前者のほうがいいに決まっている。
だが…
「雲よ、おまえの出した答えを、わたしは聞かないでおく。
だが、これだけは覚えておくがいい。
お前がどちらかを選べば、選ばれなかったほうとは、決別することになるだろう。
そういう宿命なのだ。
おまえの持てる勇気、すべてを使って選べ。
そして、選ばれなかった者、捨てられた者の怨嗟に耳を傾けてはならぬ。
おまえの選んだ道の途中に、わたしがいるかどうかはわからぬから、二度と会えないかもしれないな」
それはさびしいな、と雲は思った。
はじめて、なんでも相談できそうな大人に出会えたのに、それが兄だというのに、もう別れの時がきたというのか。
敬は急に手を伸ばし、包み込むように、雲をぎゅっと抱きしめた。
旅慣れた兄の体からは、大地の土煙と、陽射しの匂いがした。
立ち去りぎわ、敬は言った。
「お前がもし、苦難の道を進む決心をしたのならば、僭越ではあるが、わたしがおまえにあざなを授けよう。
戦場に出たならば、『子龍』と名乗るといい。
なぜか、だと? 格好いいではないか。
わたしの字は叔斉などというつまらない字だが、『子龍』はよい。
雲と龍とでうまく意味もつながるし、おまえが鳥よりも高く飛ぶことのできる龍となって、はやく光にたどり着けるように、という願いもこめてある。
これはいま、思いついたのだが」
そう言って、敬は、わたしは、こじつけの天才なのだ、と声をたてて笑った。
自分によく似た面差しに浮かぶ笑みはひどく温かく、そしてどこか懐かしさを思わせるものであった。
「わたしの贈り物は、以上だ。さらばだ、末っ子、達者でな」
そう言って、次兄は来たときと同じように、飄々と去っていった。
雲は動くことができず、しばらく、闇に溶けていく、敬のうしろ姿を見送っていた。
おそらく、これが、次兄の姿を見ることができる、最後の機会だろう、という予感がした。
ふと、頬に冷たいものが触れて、見あげると、黒い雲のうねる空から、ちらほらと雪が舞い降りてきた。
本格的な冬がやってきたのだ。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です♪
今日も今日とてGWの我が家的一大イベントの準備に大忙しです;
GWが終わったら、すこしは落ち着くかなあ…
そんなわけで、今日も一日張り切ってまいります。
みなさまも、よい一日をお過ごしくださいませ('ω')ノ