すこし小説の新人賞について話をしてみたいと思います。
なにしろ、ワナビとタイトルについているのに、語っているのはくだらない日常ネタに、自作の宣伝だけじゃねえか、この野郎。
と、いいたい人もいるでしょうから。
だいたいどの新人賞でも、予選というものがあります。
賞の規模にもよりますが、だいたい一次予選で全体の9割程度を落とし、さらに二次予選、三次予選と経て、最終候補作を5、6作品まで絞り込み、本選考と言うことになります。
募集要項に載っている、審査員の先生っていうのは、このうち、最終候補作を読むだけで、それまでの選考は、編集者、あるいは下読みと呼ばれる人たちが読んでいきます。
賞にもよりますが、一次予選っていうのはたいてい編集者は参加せず、下読みの人たちでおこなわれるようです。
まあ、編集のひとも忙しくって、とても大量の作品には目を通せないってことでしょう。
で、この下読みのひとたちはどんなひとかっていうと、フリーの編集者とか、新人作家とか、書評家とか、いろいろいわれてますが、正確なところは南野にもわかりません。賞によってもちがうでしょう。
このひとたちが、応募作をばっさばっさと切っていくわけです。
一説によると、応募作の9割は小説とは呼べない代物で、そういうものをかたっぱしから切っていくのが下読みの仕事。と言われてます。
つまり一次落ちした人の作品は、小説とは言えない代物ってことになります。
だけど、これはほんとうでしょうか?
南野は自分の体験から、どうしてもこの説には賛同できません。
なぜなら、南野は一次落ち、二次落ち、三次落ちといろいろ経験しています。
それも段階を経て、一次落ちだったのが、二次落ちに上がり、それから三次落ちになったというわけじゃありません。
ランダムです。
むしろ、最近になって一次落ちが増えています。
では、南野の小説を書く力が衰えてきたのでしょうか?
そんなことはないと、固く信じています。
つまり、南野に小説になっていないものしか書けないのなら、三次選考まで進むことはありえません。
さらにもっといえば、Aの新人賞でいいところまでいったものを書き直して(もっと完成度を上げて)Bの賞に送ったとき、一次落ちなんていうことはざらにあります。
どうしてそんなことが起こるんでしょうか? 南野はこう考えます。
選考は運に大きく左右される。
それはいつまでたってもデビューできないやつの負け惜しみだ。
そう言われる方もいらっしゃるでしょう。
じっさい、そう言われても仕方がないかもしれません。
でも考えてみてください。フィギュアスケートのように、明確な採点基準があり、競技者も決まった技を組み合わせて演技しているスポーツでさえ、審判によって点が変わるのです。
小説の場合、まったくジャンルがちがう作品の中から選ばなくてはならないなんて普通のことです。特定のジャンルに限った賞もありますが、ライトノベルやエンターテインメント全般を募集している賞などの場合、ミステリーあり、ファンタジーあり、青春小説ありといった具合です。明確な採点基準なんてあるとは思えません。
けっきょく、採点者がおもしろい、あるいは出来がよいと思ったものが通るのです。
これはスポーツでたとえるなら、フィギュアスケートと新体操と飛び込みが同じメダルを争っているようなものです。審査員に「美しい。感動した」と思わせた人がメダルを獲得するのです。
これは予選の場合でもまったく同様です。
どうしたって、運の要素が入るとしか思えません。
こんなことは、新人賞を目指すものとして書いちゃいけないことなのかもしれません。ただの負け惜しみなのかもしれません。
でもそう考えれば、たとえ一次落ちしても、運が悪かったとか、送るところを間違えたとか、すぐに頭を切り換えて次の賞にチャレンジできます。落ち込んでもしょうがないのです。
そんな考え、甘すぎますかね?
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なにしろ、ワナビとタイトルについているのに、語っているのはくだらない日常ネタに、自作の宣伝だけじゃねえか、この野郎。
と、いいたい人もいるでしょうから。
だいたいどの新人賞でも、予選というものがあります。
賞の規模にもよりますが、だいたい一次予選で全体の9割程度を落とし、さらに二次予選、三次予選と経て、最終候補作を5、6作品まで絞り込み、本選考と言うことになります。
募集要項に載っている、審査員の先生っていうのは、このうち、最終候補作を読むだけで、それまでの選考は、編集者、あるいは下読みと呼ばれる人たちが読んでいきます。
賞にもよりますが、一次予選っていうのはたいてい編集者は参加せず、下読みの人たちでおこなわれるようです。
まあ、編集のひとも忙しくって、とても大量の作品には目を通せないってことでしょう。
で、この下読みのひとたちはどんなひとかっていうと、フリーの編集者とか、新人作家とか、書評家とか、いろいろいわれてますが、正確なところは南野にもわかりません。賞によってもちがうでしょう。
このひとたちが、応募作をばっさばっさと切っていくわけです。
一説によると、応募作の9割は小説とは呼べない代物で、そういうものをかたっぱしから切っていくのが下読みの仕事。と言われてます。
つまり一次落ちした人の作品は、小説とは言えない代物ってことになります。
だけど、これはほんとうでしょうか?
南野は自分の体験から、どうしてもこの説には賛同できません。
なぜなら、南野は一次落ち、二次落ち、三次落ちといろいろ経験しています。
それも段階を経て、一次落ちだったのが、二次落ちに上がり、それから三次落ちになったというわけじゃありません。
ランダムです。
むしろ、最近になって一次落ちが増えています。
では、南野の小説を書く力が衰えてきたのでしょうか?
そんなことはないと、固く信じています。
つまり、南野に小説になっていないものしか書けないのなら、三次選考まで進むことはありえません。
さらにもっといえば、Aの新人賞でいいところまでいったものを書き直して(もっと完成度を上げて)Bの賞に送ったとき、一次落ちなんていうことはざらにあります。
どうしてそんなことが起こるんでしょうか? 南野はこう考えます。
選考は運に大きく左右される。
それはいつまでたってもデビューできないやつの負け惜しみだ。
そう言われる方もいらっしゃるでしょう。
じっさい、そう言われても仕方がないかもしれません。
でも考えてみてください。フィギュアスケートのように、明確な採点基準があり、競技者も決まった技を組み合わせて演技しているスポーツでさえ、審判によって点が変わるのです。
小説の場合、まったくジャンルがちがう作品の中から選ばなくてはならないなんて普通のことです。特定のジャンルに限った賞もありますが、ライトノベルやエンターテインメント全般を募集している賞などの場合、ミステリーあり、ファンタジーあり、青春小説ありといった具合です。明確な採点基準なんてあるとは思えません。
けっきょく、採点者がおもしろい、あるいは出来がよいと思ったものが通るのです。
これはスポーツでたとえるなら、フィギュアスケートと新体操と飛び込みが同じメダルを争っているようなものです。審査員に「美しい。感動した」と思わせた人がメダルを獲得するのです。
これは予選の場合でもまったく同様です。
どうしたって、運の要素が入るとしか思えません。
こんなことは、新人賞を目指すものとして書いちゃいけないことなのかもしれません。ただの負け惜しみなのかもしれません。
でもそう考えれば、たとえ一次落ちしても、運が悪かったとか、送るところを間違えたとか、すぐに頭を切り換えて次の賞にチャレンジできます。落ち込んでもしょうがないのです。
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