堂蓮記<北海道富良野成田山布部不動堂>

毎月の『御心言』と不定期の『祈願講釈』と徒然なるままの箴言・戯言・読書感想等・北の大地の坊主富良野生活記。

奇巌文(キガンモン)☆空想夢想奇想の一文。

2010-11-06 22:52:09 | 日記
床に箱、壁に箱、天井に箱が在る。

箱は同じ大きさと色である。

箱に物を入れたり、 箱から物を出したりする。
何も入って無い事も有り、
何が入って居るか分から無い事も有る。
箱は閉じた儘で入れる事も出す事も出来ない事も有る。

開いた箱に何も入れない儘に時が過ぎる。

我卵洞の箱に空虚無が響く重なり合う。

〈祈願講釈〉☆祈願の講釈と希望目標課題達成に役立つ名言箴言。

2010-11-06 21:00:17 | 日記
『仰せられ候。「勇むところがなければ、槍は突かれぬものなり。
律義正直にばかり覚えて心が逼塞(ひっそく)して居ては、男業(おとこわざ)成るべからず。
間(ま)にはそら言をも云ひちらし、張り懸りたる気持ちが武士の役に立つなり」と仰せられ候。これより安芸(あき)殿虚言多く候由。

(葉隠・山本常朝より抜粋) 』


☆意訳

こう言われた!

「はやりたつ気持ちがなければ、戦うことはできぬ。

律義に、正直にとばかり考え、心が縮こまってしまっては、男の仕事は出来ない。
時には大ぼらを吹き、気張った根性を持つ事が、武士にとって必要な事で有る。」
是以来、安芸(あき)殿は、ほらを吹く事が多くなった。

戯れに語る!〈釣りのイメージ〉

2010-11-06 19:31:34 | 日記
〈戯言・釣りのイメージ〉

「釣り」と言っても地域により、釣る魚、釣り方、釣る場所、釣竿、釣り針、餌の種類と違うものである。

富良野界隈では、「釣り」とは投げ竿による餌かルアーを使ったマス釣りであり、冬はワカサギ釣りだそうだ。

俺は、小学生~中学生の頃、ゲーセンにもほとんど行かず、よく朝早くから友人と釣りに行っていた。

その「釣り」は鮒釣りであった。
大麻の中央公園や吉井の沢によく行っていた。
餌はドバミミズと練り餌だった。練り餌は主に寄せ餌だった。

のんびりゆるりとろりとした時間が流れ、BGMには風に摩られ騒ぐ枝葉の声、虫の声、鳥の声を聞く中、蚯蚓臭い手でオムスビを頬張りながら浮きの動きを観ながら半日過ごして居た……。

水面近くをオニヤンマ、ギンヤンマ、シオカラトンボが滑空していた。

あんまり釣れない時、木の枝にブラブラブラ下がり遊んでいたが、枝が折れて落ちてズブ濡れになった事が有る。靴の中、パンツまでもビショビショだ。

「釣り」のイメージも住む場所により違うものだ。

戯れに語る!〈他人様之墓参〉

2010-11-06 17:29:24 | 日記
〈戯言・他人様之墓参〉

俺は二十代半ばの頃、他人様の墓参りをした事が有る。

北海道では、恩師仲間内でもない限りは他人の墓参りに行く事はあまり考えられないが、東京では割と有るのだ。(本州の其他の地域や沖縄の状況は分からないが……。)

文豪や歴史の有名人の墓参りである。

受験生は鼠小僧次郎吉の墓参りに行くそうだ。

本州各地には歴史の有名人が神様に成り奉られて地元の人に大切にされている神社もある。

ところで、俺が御参りしたのは、ダダイストの辻 潤の墓だった。
当時、俺と同じくダダ・シュールレアリスムの作家詩人芸術家やハードコアやノイズ・アバンギャルド系の音楽やSF作品が好きな友人と二人で御参りしたのであった。

霊園の管理人が、

「前は辻さんの友人知人が、御参りしてましたけど、その方達も高齢化で、最近はあまり御参りされる方は見かけませんね……。』

と言われた。

辻 潤の墓は、さっぱりしたものであった。

今はもう思い出せないが、おそらく俺は墓地を出た帰り道で、当時吸っていたジョーカーをくわえながら歩いただろう。気分の良い時に煙草を吸うタイプであった。

辻 潤のエッセイは今でも好きな文章の一つである。

暢辺舵羅理とした語り口が心地好い……。

〈辻 潤の文〉

2010-11-06 16:25:09 | 日記
「ものろぎや・そりてえる」より抜粋。

自分はかえると、早速自分の好きな掛軸を床の間にかけた。

「世間苦楽無別好事不好事己」

~筆者は

「不滅、成満」

というのだが、この軸は僕の生前から僕の家にあるので、僕が生まれてから最初に見たのがこの掛軸だということは、僕の幼年じだいからよくきかせられたものである。