2010年8月15日-7
展示空間、白方体 white cube、額縁、抽象の発想
美術体験が、「この世界の生活の自然な延長」(ハリー・コブ;下記の村田により引用)として行なわれるか、それとも、美術館という大仰な場所で緊張状態で行なわれるか、どちらもありでいいだろう。人々の多様な感性からすれば、どちらもあり。
新しいものを作ろうとするならば、これまでに無いものを作ろうということになる。生活を豊かにするものとしての美術作品は、どのようなもので、それらはどのような状況で楽しまれればよいのか。
村田 真「美術の基礎問題 連載第13回」から引用する。
「ジョセフ・ジオヴァニーニがいうようにホワイトキューブが「ニュートン的宇宙」に似ているとすれば、もう一歩進んで「アインシュタイン的宇宙」をめざす展示空間が出てきてもおかしくはない。つまり、美術に普遍的な見方や絶対的価値といったものはなく、見る者の立場によって相対的に変化するという視点である。この視点はモダンアートの行きづまりに端を発しており、それは結果的にMoMAの推進したホワイトキューブの「罪」を告発することになった。」
「美術家にとって最良の展示空間とはなにかといえば、自分の作品がよりよく見える空間にほかならず、その最大公約数はやはりホワイトキューブに落ち着く。しかしそうはいっても、美術家の意向ばかりを尊重していては美術館の運営が成り立たなくなる……。こうして美術館、建築家、美術家の三つ巴は続くのである。」
(村田 真「美術の基礎問題 連載第13回」:
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0105/murata.html)
しかしそもそも、或る作品が最良に見える空間は、一意には決まらない。不釣り合いもまた一興とすると、……。そこは、作者や展示者の決断であろう。もとより、作者または展示者にとって、展示しやすい空間とかはあるだろう。多くの人の資金を使うのなら、そこは最大公約数的なものになる。
日常的空間ではない、異空間を楽しむというのも、あってよい。
さらに引用したい。
「MoMAの絵画コレクションには最小限の枠がつけられているだけか、さもなければ額縁は取り払われてしまっている。
もっともこれは、ホワイトキューブが額縁の役割を代行したというより、20世紀初頭に誕生した抽象芸術が額縁をなくす契機となった、というべきだろう。なぜなら抽象は絵画から3次元的イリュージョニズムを消し去り、絵画そのものが非再現的な平面性を主張するようになったため、あえて額縁をつける必要がなくなったからである。これは抽象彫刻における台座にもいえることだ。そして、額縁や台座を失った抽象芸術にもっともふさわしい空間がホワイトキューブだったのである。」 (村田 真「美術の基礎問題 連載第13回」:
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0105/murata.html)
もとより、人物、静物、あるいは風景にしろ、三次元的存在物である(と想定される)。二次元的平面上にそれらを存在するように見えさせることは、われわれの見え、あるいは見なし方、あるいは錯覚にもとづいている。画面に再現することになんの意味があるのか? そう疑問をもつ者は、外界に存在する具体物を描くことを止めようと考える(かもしれない)。その場合、何を描くのか? 個々の要素は具体物だが、配置や組み合わせが現実にはあり得ないように描くか(幻想的)、心象といった内面的なものか(内面表出的)、がある。
しかし、具体的対象を描くこと自体が錯覚を利用するわけであり、そこで一足飛びに、そのような類いのことは止めると決意しよう。二次元ならば二次元自体で、絵具ならば絵具自体の性質で勝負!、である。
具体と抽象とは、一つの軸の両極である。1/4具象やら半抽象とかを考えることが可能である。しかし、発想あるいは考え方という観点からは、飛躍的あるいは切断的なものが、(一部の)抽象にはある。
しかしまた、感性の問題という側面がある。一つの作品とは、総合的なものであり、人によって解釈は多様である。そして、すでに出現したものと同様の物には感心しないとすれば、なんらかの意味で新しい作品を探すしかない。あるいは作者は、作るしかない。
ではどのように考えるのか? 美術史を参照するというのも一つの手段である。ただし、美術史的総括もまた、批判的に摂取しなければならず、また創作に結びつくとは限らない。美的判断をすること(さらにはそれらの歴史と作品の歴史の記述)と絵画の創造の間には、隙間がある。逆に、美術史的総括することもなく、独創的な作品が産み出されることもある。
展示空間、白方体 white cube、額縁、抽象の発想
美術体験が、「この世界の生活の自然な延長」(ハリー・コブ;下記の村田により引用)として行なわれるか、それとも、美術館という大仰な場所で緊張状態で行なわれるか、どちらもありでいいだろう。人々の多様な感性からすれば、どちらもあり。
新しいものを作ろうとするならば、これまでに無いものを作ろうということになる。生活を豊かにするものとしての美術作品は、どのようなもので、それらはどのような状況で楽しまれればよいのか。
村田 真「美術の基礎問題 連載第13回」から引用する。
「ジョセフ・ジオヴァニーニがいうようにホワイトキューブが「ニュートン的宇宙」に似ているとすれば、もう一歩進んで「アインシュタイン的宇宙」をめざす展示空間が出てきてもおかしくはない。つまり、美術に普遍的な見方や絶対的価値といったものはなく、見る者の立場によって相対的に変化するという視点である。この視点はモダンアートの行きづまりに端を発しており、それは結果的にMoMAの推進したホワイトキューブの「罪」を告発することになった。」
「美術家にとって最良の展示空間とはなにかといえば、自分の作品がよりよく見える空間にほかならず、その最大公約数はやはりホワイトキューブに落ち着く。しかしそうはいっても、美術家の意向ばかりを尊重していては美術館の運営が成り立たなくなる……。こうして美術館、建築家、美術家の三つ巴は続くのである。」
(村田 真「美術の基礎問題 連載第13回」:
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0105/murata.html)
しかしそもそも、或る作品が最良に見える空間は、一意には決まらない。不釣り合いもまた一興とすると、……。そこは、作者や展示者の決断であろう。もとより、作者または展示者にとって、展示しやすい空間とかはあるだろう。多くの人の資金を使うのなら、そこは最大公約数的なものになる。
日常的空間ではない、異空間を楽しむというのも、あってよい。
さらに引用したい。
「MoMAの絵画コレクションには最小限の枠がつけられているだけか、さもなければ額縁は取り払われてしまっている。
もっともこれは、ホワイトキューブが額縁の役割を代行したというより、20世紀初頭に誕生した抽象芸術が額縁をなくす契機となった、というべきだろう。なぜなら抽象は絵画から3次元的イリュージョニズムを消し去り、絵画そのものが非再現的な平面性を主張するようになったため、あえて額縁をつける必要がなくなったからである。これは抽象彫刻における台座にもいえることだ。そして、額縁や台座を失った抽象芸術にもっともふさわしい空間がホワイトキューブだったのである。」 (村田 真「美術の基礎問題 連載第13回」:
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0105/murata.html)
もとより、人物、静物、あるいは風景にしろ、三次元的存在物である(と想定される)。二次元的平面上にそれらを存在するように見えさせることは、われわれの見え、あるいは見なし方、あるいは錯覚にもとづいている。画面に再現することになんの意味があるのか? そう疑問をもつ者は、外界に存在する具体物を描くことを止めようと考える(かもしれない)。その場合、何を描くのか? 個々の要素は具体物だが、配置や組み合わせが現実にはあり得ないように描くか(幻想的)、心象といった内面的なものか(内面表出的)、がある。
しかし、具体的対象を描くこと自体が錯覚を利用するわけであり、そこで一足飛びに、そのような類いのことは止めると決意しよう。二次元ならば二次元自体で、絵具ならば絵具自体の性質で勝負!、である。
具体と抽象とは、一つの軸の両極である。1/4具象やら半抽象とかを考えることが可能である。しかし、発想あるいは考え方という観点からは、飛躍的あるいは切断的なものが、(一部の)抽象にはある。
しかしまた、感性の問題という側面がある。一つの作品とは、総合的なものであり、人によって解釈は多様である。そして、すでに出現したものと同様の物には感心しないとすれば、なんらかの意味で新しい作品を探すしかない。あるいは作者は、作るしかない。
ではどのように考えるのか? 美術史を参照するというのも一つの手段である。ただし、美術史的総括もまた、批判的に摂取しなければならず、また創作に結びつくとは限らない。美的判断をすること(さらにはそれらの歴史と作品の歴史の記述)と絵画の創造の間には、隙間がある。逆に、美術史的総括することもなく、独創的な作品が産み出されることもある。