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一項述語と物象化

2010年02月09日 11時12分24秒 | 生命生物生活哲学
一項述語と物象化

 Mahner & Bunge(1997, 2000; 小野山敬一訳 2008)『生物哲学の基礎』は、物象化について批判している。さて、この書の立論の出発点は、一項述語で個物が記述できることを前提としている。しかし、一項述語という表現自体が物象化である。「xはPである」を記号的に、
  Px
と表記する。具体例として、
  バラは赤い     (a)
といった言明を挙げよう。
 熊野(2002: 839)が物象化という項で述べているように、「通常の色覚の持ち主とされる人間が、ふつうの状態で。白色光線のもとで見れば」などの一定の諸条件のもとで、「赤いバラが見えている」と認識される、と他人は想定する、といった事態が、「バラは赤い」として表現されている。
 つまり、認識主体と環境との関係も含めて、様々な関係のもとで生じた観測であり、あたかもバラそのものに備わった性質のように受け取れる「バラは赤い」という表現は、したがってわれわれの物象化(という見なし方)である。したがって、「バラは赤い」という表現を用いたいのならば、そのような言い方が成立する諸条件を仮定し、かつそのような諸条件は現実に多くの場合に成立するということを了解しておくべきである。むろん、われわれはそのような言い方は実践的に便利であるので、多くの場合に採用される。それらの諸条件は対象によっても環境条件によっても認識主体の状態によっても異なるだろうが、にもかかわらず、少なくとも(たとえば「正常」色覚の)多くの人どうしで、「バラは赤い」という表現が何を指しているかが通じる(と想定される)からである。
 システム的に捉えれば、認識は認識主体なしにはあり得ず、なんらかの環境条件のもとでしか認識はあり得ず、そして認識主体と対象と環境の諸条件によって認識内容は異なる。ただし、なぜだか世界は恒常的に見える(こともけっこうある)、あるいは恒常的なようにわれわれは見なすことができる。そうでなければそもそも、われわれは変転する世界と自分を区別できず、認識作用もあり得なかったであろう。このことは、言語は恒常性を前提としているし、変化はわれわれの構築体という不変のものによって変化する対象を捉え、表現するということとなっている。同定と分類に用いるカテゴリーは不変者と前提されている。それゆえに、われわれの観測とその表現が可能になる。
 たとえば、われわれの根本的な認識活動である同定(と分類)は、このような措定にもとづいている。指示されることがらに行き違いなどが生じれば、逆に前提条件が照合され検討される。科学的営為はそのようにしてきたのだと思う。すなわち、一つは体系的な整合性である。認識体系は、様々な分類活動にもとづいた結果(および関係づけ)である。

□ 文献
熊野純彦.2002.3.物象化.永井均ほか編,『事典 哲学の木』: 839-840.講談社.[ISBN 4062110806]

Mahner, M. & Bunge, M.[マルティーン・マーナ/マリオ・ブーンゲ]1997, 2000.(小野山敬一訳,2008)生物哲学の基礎.xxi+556pp.シュプリンガー・ジャパン.[ISBN9784431100256]