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教育勅語は、権力者たちを除けば、日本国民にいいことは一つも書いていない

2018年10月05日 23時39分15秒 | モリカケ問題
学問修行2018年10月5日(金)-1
教育勅語は、権力者たちを除けば、日本国民にいいことは書いていない

教育勅語は「徳目」こそが問題なのだ(再掲)
「それなりにいいこと」なんか書いていない
三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

  「 第三に、勅語にも「兄弟」とあって「姉妹」とないことも(「姉妹も含んでいるのだ、そんなことわからないのか」、とも言われそうだが)象徴的で、明治の社会は、絶対的な男尊女卑社会だった。政治的には女性には投票権がなかった。投票権がない以上、被選挙権もない。

 そして、どれほどの女性が、親のいいなりに気の進まない結婚を強いられてきたことか。その上、結婚しても離婚は夫の側から勝手にいつでも言い出すことができたが、女性の側には「離婚権」はなかった。「女は家にいろ、結婚して子供、それも男の子を産んで一人前」という暗黙のコンセンサスの長く重い影は現在までも続いている。

 それでいくと、国会で雑誌で教育勅語を尊重する稲田朋美も、もう一人の女性大臣の高市早苗も、「放射能でワーワーと騒ぐ人たち」を云々した丸川珠代も、この際ついでにあげさせてもらうが、櫻井よしこも、世の中にしゃしゃり出て「ワーワー」と騒がないで、家で亭主にかしずきながら明治憲法と教育勅語を、あえて当時の言葉で言わせてもらうが、拳々服膺(けんけんふくよう)しているべきなのだ。「教育勅語を取り戻すべき」などと活躍女性たちが言うなら矛盾でしかない。

 それ以外に構成上の問題もある。よく指摘されるように親への忠誠と天皇への忠誠というそれぞれ系統の違う原理が勅語内部で矛盾している。矛盾は、巧みに覆い隠されているだけだ。「一旦緩急アレハ」親孝行や兄弟愛など放り出して、「出征」させられ、多くの場合、帰ってこない親不孝をするわけだから、へんてこなものだ。」
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018100400003.html?iref=wrp_rnavi_new