中野系

この銀河系の中心、中野で考えること

キーボードが立つ

2005年07月09日 | 日常
誰もが同様の覚えあると思うが、文章をつづることの大半がパソコンのキーボード入力になってから、最近ではめっきり漢字が書けなくなってきた。

日常ではよくてもメモ、もしくは何かの申込書の名前や住所。書く文字すら大体決まっている。だからますます字を忘れる。文字種類の問題だけではなく、物理的にペンをもって長文を書くこと、これ自体もかなり能力が低下してしまっていること、肌で感じている。
二年ほど前にある資格試験で小論文を書く必要が生じたのだけれど、2000文字程度の論文を鉛筆で書いていたら、途中で手が引きつってしまった。漢字どうこういう以前の問題だ。

かつてあたりまえだったものを失うと「まずいな」という気持ちが強くなるけれど、それに代わるものがあるのだから、まぁよいか、という気がしないでもない。良い、悪いの問題ではないのだ。社会は少しずつなにかを失い、同時に少しずつ何かを生み出していくのだ。

自分のような一個人については、創作する文章のすべてをパソコンベースにしたとしても、社会的な影響は何もないだろう。ただ、例えば作家のような職業の場合、創作活動すべてがデジタル化されたとしたら、それは少し寂しい話だ。少なくとも、博物館で好きな作家の「生原稿」を見るという楽しみが失われてしまうわけだし。

言葉、についても徐々に変わっていくのだろう。「筆が立つ」「筆が進む」「達筆」等々、いつかは消えていくのかもしれない。もっとも、筆を日常に使わなくなってからは半世紀以上経過している事実を考えると、まだまだしばらくは大丈夫か。

以前誰かのブログで「今日は書くことが一杯あって、筆の進みも速い」という文章を見た時に、以上のことをふと思ったわけだけれど、これからの主力筆記用具となるキーボードについて、こういう表現って、そういえばまだない気がする。

「キーボードが立つ」でgoogleを調べると、今現在ヒットは1件、物理的にキーボードを立てかけた話で使われているのみ。

作為的な言葉ってだいたい失敗するけれど、ダメもとでこの言葉を「作文能力がある」の意味で広めてみる努力をしてみようかな、と思う今日このごろ。

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