そうなのかねぇ
書道作品は建築物とと似ていると言われるけれど、そうなのかねぇ
音楽作品とはより似ていると言われるけれど、そうなのかねぇ
西洋絵画も東洋書画も建築だって音楽も、模写やコピーは修練段階においては必須。
そこは同じ。
対象物を目の前にして何かを創り出そうとするのか、そうでないかの違いだけで似ている似ていないと判断するのはどうかと思う。
何となく浅はかさが漂ってしまうのは、文章の限界を超えているからなのかもしれない。
それは曼荼羅の世界を文章で表そうとする行為に似ていて、元々無理なのかもしれない。
優れた作品から受ける力は感じる側の感性の違いによって様々だし、それを自慢し合ったり罵ったりするのは馬鹿な行為だろう。
それは自分だけのものなのだ。
創造主たる作者以上に誰がその作品について理解し得ようか。
第三者に見せようと考えた時点で、方向性が変わり分かりやすくなろうとする。
だからと言って未発表曲や未発表作品が良いとは限らない。
洗練されてはいないケースが多いし、それが良いとも悪いとも言えない。
レコード盤で言えばB面の三曲目あたりの自由さがいい。
適度な規制と適度な洗練さと自由な空気感がいい。
配信の時代になった今、発表される新曲はA面一曲目狙いのつまりヒット狙いばかりだ。
カラオケで素人が歌いやすいよう1オクターブの中でメロディも作られるケースも多いようだ。
しかもイントロもソロも無い曲も目立つ。
確かに『石炭をば早や積み果てつ』よりは『吾輩は猫である』と始まってくれた方がまどろっこしくは無い、、、。
そう思うと、イントロ無しもありかも知らん。
私も充分に現代人なのだな、、、。
でもソロは欲しい。
それも私が楽器演奏する者としての要求なのだろう。
日本人は楽器を演奏しない者が西洋諸国に比べて多い。日本の音楽教育の低水準をJASRACは憂い改善すべきなのに、その矛先を音楽教室に向けたかのような詐称は最高裁で敗訴した。
文科省も罪深い状態を放置してきた。
ハーモニカからリコーダー、リコーダーから鍵盤ハーモニカに変遷してはいるが、そこから世界的なアーティストが生まれると考えているのだろうか?
そんな訳ないな、、、。
書写の時間だけで書家がうまれる訳はないしね。
義務教育は個体差が持つ特性を探すきっかけのほんの一部にしか過ぎない。
そこでの優劣を競い合う事より、世の中にある多くの素晴らしい事を経験する機会を設けた方が良い。
かと言って旅行に行けば良いと言う者でも無い。
大人が子どもを子ども扱いしない事が良いと思っている。
話がどんどんそれてしまった、、、
じゃ、まぁ、どうでも良いかってなるのが、芸術についての結論(^○^)
芸術に導き出せる結論などないのだ。
それでも明確になった事はひとつある。
全てを疑ってかかれよ、と言う事。
この疑問はその無限の円運動からは逃れられないのだ。