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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

神の火  第10回

2015年09月20日 | 日記

病気から学んだこと

たとえば、昨年私が心臓の大手術を受けて初めて目覚めた時、私の生涯はこれまでと全く異なったものとなっていました。なぜ自分は生き残ったのか、医者には、もうあなたは望みがない、死ぬでしょうと言われたのです。それでもなぜ生き残ったのか、この治療の過程を通っていた時は、非常に困難な状況でした。その回復段階にあって、指をこうやって上げる力もない時がありました。回復段階にあって、ものすごい痛みも経験しました。実際には望ましくない経験を通ったのですね。何もかも説明できませんけど、非常に困難な経験を通らせてもらいました。今皆さんの前に、こうして座っていて元気そうに見えるかもしれませんが、今では、何をするにも私は妻の助けが必要な状態です。まあ、火傷をしなければ、歩くことは出来たんですけど、通常はこういう状態ではありません。しかし、いずれにしても心臓手術の後、本当に体がガクンと弱りました。

以来、本当に家内にいろんな面で頼ってきました。家内はわたしを愛してくれますから。もう結婚して38年一緒に生きてまいりました。時々こういうことを言ってからかうことがあるんです。「今になって僕を捨てたいとは思わないだろう?」。こういう状態にある私を介護し続けることによって、彼女の真の愛が試されてきたわけです。彼女は真心から私の介護をしてくれました。時には、本当に悪いなあと思うことがあります。二人の子どもを育ててきたのですけれど、今ではもう二人とも大人になっています。二人の子どもを育てた経験はあっても、この体の大きな子どもの世話をするのは、初めての経験だったと思います。

心臓手術を受けて目覚めた後、あることについて考える時間がありました。心臓手術後、私は4日間眠り続けていたんですね、徐々に眠りから覚めた時、ああ、自分は生きているんだ、と思いました。この肉体の問題を抱えたまま、こういうことも考えました。あの時死んでいたほうが楽だっただろうなと。でも、歩き始めて、また食べることを始めて、そういったリハビリを頑張ってやりました。また再び二本の足で立ち上がるようになるまで、本当に大変な努力をいたしました。一日でパッと歩けるように、神様はして下さいませんでした。だとしたら、本当に楽でいいですよね。もうパッと全部癒されて、そして歩きも走りもする、何も痛まない。もしそうなっていたとしたら、「デビット・カンの命を、神様が本当に素晴らしく救って、癒してくださった。数日のうちに歩いて走っている、彼は神のしもべに違いない」、と人々は言うでしょう。「神様が共におられる、素晴らしい、彼の説教に耳を傾けよう」、こういう筋書きだったらどんなに良いでしょうね。そうはいきませんでした。他の心臓疾患を抱えた患者と同じですね。普通の回復の過程を私が通るのを、神様はお許しになったのです。

私たち誰もが、肉体的欠陥を抱えていますね。また、私たちの思いのうちに、汚れた部分があります。私たちはイエス・キリストの福音の力によって、心の大手術を受けなくてはならないのです。そして手術を受けた後も、神様の力によって、日に日に、徐々に成長を遂げなくてはならないのです。そうやって罪から脱する方法を学んでいかなければ、習得しなければいけないのです。適切な言葉を語るその方法を、習得していかなくてはなりません。いかに正しい考えを持つか、学ばなければいけません。そうする時に、私たちの生涯は、神様のために大きな力を発揮できるようになるのです。

 


神の火 第9回

2015年09月19日 | 日記

神様は焼き尽くす火

へブル人への手紙12章27から29節をお読みします。「この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」。

神様は焼き尽くす火であると書かれています。まだ皆さんのうちに、震われるべきものが残っていませんか。それどういう意味でしょうか。天の教会にふさわしくない何ものかのことです。へブル人の手紙12章では天の教会、聖徒たちの集いについて述べられています。そこにあずかるのにふさわしい者となるべきです。神様は、地上の教会と天の教会を一つに結び付けようとしておられます。

それはどのようにして可能なのでしょうか。私たちは、今この邪悪な状態にありながら、それが可能なのでしょうか。しかし、神様はまさにそのことをしようとしておられるのです。イエス様は私たちの模範として、ご自身の生涯を残されました。本当に素晴らしい模範を、私たちが見ることが出来るようにされました。他にも色んな模範があるわけですね。ダニエル、エノク、エリヤ、バプテスマのヨハネ・・・。

ある人たちは、そのような人物は、生まれがよかったとか、生まれながら善良だったのだと考えます。しかし彼らもまた、自分の罪と格闘して戦い、そして勝利者となったのです。神様の恵みのうちに、彼らは成長していったのです。

私が今から言うことを、注意深く聞いてください。神様は、皆さんの過去には関心がありません。皆さんが過去にしたことについて、神様は関心を持っておられないのです。皆さんが、今日、また明日何をするかということに、神様は関心を持っておられるのです。私たちは一日、一日と生きていくのです。私たちの真の心の意図は何でしょう。私たちは自分の人生で何を成し遂げようとしているのでしょうか。本当に神様に、全的な信頼を置きたいと思っていますか?今、心からそのような思いを持っているかどうか、イエス様は一人ひとりに関心を持っておられます。

神様は焼き尽くす火であられます。神様を受け入れる時、そして神様に心に入っていただく時、神様が、聖霊が、焼き尽くす火となられます。私自身も過去において、何度も何度も、聖霊の働きかけに抵抗して来たことがありました。しかしその結果刈り取った、色んな苦い経験から学ばされました。色んな失敗から、試練から学びました。


神の火  第8回

2015年09月17日 | 日記

それらのことは、単なる外側の洗い清めではなされないのです。ただ真理を理解し、知識として持っているだけでは、心のうちの清めには至らないのですね。聖霊に心に入っていただいて、そういった汚れを、すべて焼き尽くしてもらわなければいけないんです。そういった形で、心を変えていただく必要があるのです。イエス様がおいでになる時、私たちのこの朽ちるべき肉体は、朽ちない、永遠にわたって朽ちない肉体へと変えられます。そのことが起こる前に、私たちは心を備えて、まず、魂を清めていただかなければならないのです。そのように心を準備して初めて、永遠に生きることが出来るようになるのです。

この重要な点を、ぜひ皆さんに、今日ここで考えていただきたいのです。現在、皆さんの罪深い習慣には、どういうものがあるでしょうか。何か鋭い辛辣な言葉で人を傷つけたり、色んな巧妙な噂を流して人の評判を傷つけたり、そういうことが好きな人いませんか。利己的な行動、そのような思考パターンはありませんか。そこにあるのは、自分だけですね。まず自分、自分のことしか考えられないという思いです。そういった利己心が、皆さんのうちにずっと巣喰っていませんか。他の人には分からないかも知れませんが、皆さんには良く分かっていますね。ですから私たちは、神様に日々祈らなくてはいけないのです。

「主よ、どうぞ私の心を探り、私の心を知ってください。あなたの創造に似合うものとなりたいのです。あなたの創造の業を受けて、あなたの創造された他の聖なる存在、天使たちと調和できるものとなりたいのです。私の利己心によって、周りのだれも、傷つけたり、滅びに至らせたくはありません。あなたの聖霊を頂いて、変えて下さいますようにお願いします。私はあなたの新しい創造に属する者となりたいです。どうか私の心、思いを読んでください。私のうちに新しい心を創造して下さい。私のうちに正しい霊を回復させて下さい。私には出来ませんが、あなただけはその業をお出来になります」。

このような祈りを、私たちは心から捧げるべきなのです。それが聖霊のバプテスマであり、それを真に経験することが出来るならば、神様の力が、皆さんのうちに臨むことでしょう。その時、私たちが携わる伝道の働きは、あまりにも強力なものとなって、誰もそれを阻むことが出来なくなります。その時、神様の「永遠の福音」のみ業は、全世界に述べ伝えられて、短い期間で終わりがやってくることでしょう。これが後の雨の力です。それは、間もなくやってきます。

多くの人たちが、それを見て驚くことでしょう。多くの教団、教派が驚くことでしょう。多くの教会の指導者たちが驚くことでしょう。神様があまりにも単純な方法を用いられるのを見て、多くの人たちはショックを受けることでしょう。その間私たちは、魂のために働き続けなければならないのです。私たちのうちから、いろんな誇り、利己心ですね、それを取り除いていただいた時、最善の働きが出来るようにされるのです。


神の火  第7回

2015年09月16日 | 日記

自己に死んでいない!

ある人は、私はとても繊細な心を持っている、という人がいるかもしれません。色んな人の言動によって、とても傷つきやすい性格だというわけです。なぜそういう人はそのように傷つきやすいのでしょうか。その人の心の状態というのは、常に自己が元気に生き続けているからなのです。そうです。その人の自己は死んでいなのです。もしかしたら、皆さんは、他の人から見たら、本当に素晴らしい、人格のできたクリスチャンに見えるかもしれません。しかし、誰かが、何か憤慨するようなことを言ったり、やったりしたとすると、善良に見える人でも、プライドを傷つけられて、顔色が変わって、すぐにそれに反応してしまう、怒りをあらわにしてしまう、そういう人のうちには、まだ自己が生きているわけです。心の王座を、まだイエス・キリストに明け渡していないんですね。自分が自分の神として君臨しているわけです。自分のプライドを傷つける者には、いっさい我慢がならないわけです。そして、自分の人生において、利己的な目的を抱いているのです。

もし皆さんが、心の中に、色んな不平不満を多く抱いているタイプの人だとするならば、皆さんの何かが間違っています。もし神様に対して、不平不満を漏らしたり、あるいは不平不満の精神をだれか個人や団体、教会にぶつけやすいタイプの人であるならば、これは特定の問題について言っているわけではありませんが、もし皆さんが、何らかの間違ったことをしている、言っている、個人、教会、団体に対して、何らかの悪意や、あるいは恨みを抱き続けているなら、皆さんの霊的生活、生き方がどこか間違っているわけです。何らかの憎しみ、恨みをまだ心に抱いたままにしている人、ここにいらっしゃいますか。不平不満を、今でも何かに対して抱いていらっしゃいますか。何かに、あるいは誰かに、そういった精神を抱いていますか。

あるいは神様に対して、「神様、どうして私なのですか。ほかの人たちはうまいことやっているのに、何で私だけこんな目にあっているのですか」という思いを持ってはいませんか?

今日、皆さんはどのような精神を抱いておられますか。このような病んだ精神を抱き続けることが、やがては死に至る罪へと発展してしまうのです。こういった恨み、憎しみを抱き続けること、そして、本当に自分は繊細で傷つきやすい、すぐに人の言葉で傷ついてしまう、それは、皆さんのうちに問題があるのです。そういった品性の傾向を持っているとするならば、決して生ける神の印を受けることはないでしょう。そして、ついには死に至るのです。非常に危険な状態なのです。聖霊に心のうちに入っていただいて、そのような傾向、罪を、焼き尽くしていただきましょう。


 神の火  第6回

2015年09月15日 | 日記

私が言わんとしていること、分かりますか?これ、非常に深刻な問題ですよ。私たちは日に日にその問題と取り組まなくてはいけないのです。ヨハネによる福音書1章を見たいと思います。ヨハネによる福音書1章26、27節です。この福音書を書いた使徒ヨハネが、このようなことを言っています。

「ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」(ヨハネ1:26、27)。

次に33節に飛びますが、ここでも興味深いことが言われています。お読みいたします。

「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』」。

ここで、バプテスマのヨハネは、2種類のバプテスマについて語っています。水によるバプテスマと、御霊の火によるバプテスマです。水は私たちの体をきれいにしますね。私たちの外側の色んな汚れを洗い流してくれます。水は、そういうきれいにするという作用があります。ただしその問題の根本原因を取り除いてはくれません。

聖霊によるバプテスマ、聖霊の火によるバプテスマと、水のバプテスマは違う種類のものです。火というのは、焼き尽くしてしまう作用がありますね。火は、私たち、皆さんのうちにある汚れを焼き尽くしてしまうのです。そのような形で心を清め、形作って下さいます。これが聖霊の働きです。イエス様は、私たちの内に、そのようなことをして下さるのですね。私たちはこの聖霊によって新しく創造され、聖霊によって印される時に住んでいます。そのことを真剣に皆さんお一人おひとり、受け止めていただきたいのです。

過去にそういった教えを、何度も何度も聞いてきたかも知れませんが、そうであっても、それが単なる情報となってしまっているのです。それは真理の知識にすぎません。その知識を得たら、単にもっとよく知ったということに過ぎないのですね。しかしその真理が、個人的な経験において現実のものとならない限り、単に真理を知っているだけでは、それはやがては、呪いとなってしまうでしょう。