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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第8回

2015年04月22日 | 日記

8、愛がなければ結婚も宗教生活も悲惨になる

 

お互いの愛が冷えてしまった夫婦にとって、結婚生活とは束縛であり足かせのように思えるかもしれません。愛し合っている時には、少しも苦痛でなかった、相手のために自分を犠牲にすることや、忍耐すること、赦すことなどが、辛く苦しいことになってしまいます。そして相手に対する不平や不満ばかりが目につくようになるのです。この場合、間違っているのは結婚生活ではなく、愛が壊れてしまったことにあります。

同じように、クリスチャンがキリストの愛から離れ、親しい関係がなくなる時、戒めや宗教的義務に対して不平を言うようになります。この場合も、問題は戒めにあるのではなく、神様に対する愛が冷えてしまったことにあるのです。

 

主を愛するクリスチャンは、喜んで自分自身を否定しながらこの世を歩むでしょう。キリストは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)。キリストのこの言葉は、「キリストに従う道は厳しくつらいけれども、自分を殺して不平を言わずについてきなさい」、という意味でしょうか?いいえ違います。そのお方はただ、クリスチャンの歩みには、心を混乱させる色んな誘惑がつきまとうので、それからどうやって逃れるかを教えておられるのです。この世には、常に私たちを魅惑してキリストから離れさせるような、肉体的、世俗的な誘惑があります。私たちは、現在自分たちが持っているような愛よりも、もっと高く、強力な愛に支配されていなければ、それらの感覚的な誘惑が私たちを圧倒し、敗北してしまうことでしょう。自分を捨てるとは、頼りにならない自分の知恵や能力によって生きるのではなく、100%神様の力によって生きるということです。自分の心の中のゴミを全部捨てる時に、神様の愛が心を満たし、主の奉仕のために与えられる十字架が喜びと感謝になるのです。

 

人が自分自身の全てを祭壇に捧げた時、キリストの強い愛がその人を支配するようになり、肉欲的な、世俗的なさまざまなサタンの誘惑に対して、はっきりと「NO」と言えるようになります。サタンは何度も何度も、私たちの弱い部分に攻撃を仕かけてくるでしょう。そして、私たちとキリストとの愛の関係を破壊しようとするのです。しかし私たちは、この世の何ものよりもキリストを愛することによって、また、キリストは私のためにいつも最善、最高のことをして下さるという信頼によって、サタンの誘惑を退けるのです。

 

サタンは特に、クリスチャンの感情を動揺させることを通して、強力に働いてくるでしょう。しかし、真のクリスチャンは、自分の感情や感覚は全く信頼出来ないことをよくわきまえています。私たちは義と真理のみ言葉に基づいて信じるべきであって、心や思いの中に浮かぶ、感じや感情を根拠にして信じるのではありません。今日、教会の中で、興奮してわけの分からないことをしゃべったり、絶叫したり、踊り狂ったりする人がありますが、そのような人の大部分は悪魔にだまされているとしか言いようがありません。

また、人が一時的な満足を得るために、罪深い快楽を求めたり、自分の欲望を満足させようとするなら、どんどんそれから離れることが出来ないようになり、ついにはロボットのように自分の欲望が命じるままに行動するようになり、悪魔の奴隷になってしまうことでしょう。

 

今日の教会の大きな問題は、多くのクリスチャンが、自分たちが従うべき聖書の教え、愛の原則に従う力がないことです。肉体的な欲望に抵抗できる力がなく、肉欲の命じるままに思いと体を任せる肉欲の奴隷になっています。また、自我も同じように、外部からやって来る刺激にすぐ反応して感情が動揺し、理性でコントロールすることが出来ません。堕落して弱められた意志は、力を失ってふらつきながら、感情と感覚が要求するまま引きずり回されています。このような人にとっては、正しいことをするより、悪を行うことのほうがもっと簡単になってしまいます。

しかし、キリストの中にいる真実なクリスチャンにとっては、義の原則に対する確信が強力であるため、誰も彼に罪を犯させるように強要することができません。そのような人の心の中には、神様の力ある真理のみ言葉が深く刻まれているからです。

そしてこのことの中に、イエス・キリストの完全な福音の喜びの知らせがあります。私は読者の皆さんに、そのことをお伝えしたいと思います。イエス様は私たちに、義を重んじる心を与えて下さり、聖なることができるように、ダイナマイトのような力を与えるために来られました。私たちは罪責感と罪の勢力に対して、勝ち得て余りある勝利を得ることが可能なのです。