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二人の皇后の挽歌の訓み誤り

2022-06-18 22:48:32 | 古典の解読

  前回ブログ『「令」は「今」の誤りではないのか』では万葉集中の誤字について書きましたが、万葉集では誤字も含めて訓みの誤りや解釈の誤りがまだ多数(4500首の中の数%)あると私は考えています。

 万葉集の解読、解釈に間違いが含まれているのは、優秀な学生が教科の試験で完全に勉強したと思っても100点満点を取ることがなかなかできないのと同じです。しかも、万葉集には数学の難問以上の難問(難訓歌)が存在します。

 数学の最先端の領域は“新しい枠組み=言葉による新しい枠組みの提唱”が必要なようです。つまり、説明の“言葉”が重要で“数字・数式”以前の問題であり、その意味では言葉の問題である万葉集の難訓歌を解くことと似かよってきます。ポアンカレ予想は百年にもわたる難問でしたが、ペレルマン氏によって解かれました。そして、今、脚光を浴びているいるのが“ABC予想”で、問題を解いたとする日本の望月新一氏の解法の“言葉”、つまり、「新しい枠組みを説明する」言葉が、論争を呼んでいるようです。

 数学の未解決問題を解くことは数学者にとって大きな楽しみだと思われますが、それと同等かそれ以上の“難問”である万葉の難訓歌や解釈に“数学者”が参加すれば面白いことになるかもしれません。

 

 

二人の皇后の挽歌の訓み誤り

持統天皇と倭大后の夫の天皇への挽歌(153番と160番の歌)

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

【持統天皇の挽歌】 

  まず、持統天皇(鸕野讃良うののさらら皇女)の挽歌(160番)を先に取り上げたい。160番の歌の原文は次のようになっている。

    燃火物取而裏而福路庭入澄不言八 面 智男雲  

そして、この歌の第四句まで、つまり、「燃火物取而裏而福路庭入澄不言八(面)」はほぼ完全に読まれていて、

燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずや(も)  (燃えている火も取って包んで袋に入れてしまうと言うではないか)

となっている。ただ、第四句の最後の文字「面」を第四句に入れるのか、入れずに第五句の最初の文字にするかで諸家の見解が分かれている。それで、最後の二句を示し主要な説を紹介すると、  

① 入澄いると不言いはす 八面やも 知しると曰いは男雲な くも(賀茂真淵『万葉考』)

② 入澄いると不言八いはすや 面知おもしる男雲なくも (契沖『万葉代匠記・初稿本』)

③ 入澄いると不言八いはすや 面知あふよし男雲なくも(井上通泰『万葉集新考』)

④ 入澄いると不言八いはすや 面知あはむ男雲をくも(澤瀉久孝『万葉集注釈』)

⑤ 入澄いると不言八いはすや 面智おもしるを くも  (中西進『講談社文庫本万葉集』)

というような訓みがある。もちろん、これ以外にもいくつかの訓みが存在するのだが、それらの訓みは、①~⑤も含めて、第五句と前四句とのつながりに、かなり大きな無理や飛躍があるように思われる。

 「男雲」を「なくも」と訓むことは、mとpの唇内韻尾を有する漢字の後には必ずm・b・pの子音を持つ文字が続くことによって前の唇内韻尾のmやpの音を読むことを省略するとする木下正俊氏の説に反することになる。木下説に従う限り、「男」は「な」とは訓めないことになる。

 ナクモと訓む場合、「ナク」を「等伎乃之良奈久ときのしらなく」(巻十五・3749)などの打消しの助動詞「ず(ぬ)」の未然形「な」に名詞化して“~こと”の意味を加える準体助詞ともよばれる「く」のついた形と考えるのであるが、その「ナク」に詠嘆の終助詞「も」の付く例はない。澤瀉久孝氏は『万葉集注釈 巻第二』の中で「男雲」について、発音的常道からも語義の点でも「ナクモ」とする説をつよく否定されており、今ここではその詳細は省略するが、私は澤瀉氏の考えに同意する。氏は“男雲”はをくも(招くも) ※をく=招き寄せる;“も”は詠嘆の終助詞であることをほぼ断定的に主張されていて私もこの見解に大賛成である。ただし、「招き寄せる」という意味に意欲、願望の意味合いが付加されていると考えた方がよい。つまり、「をく=招き寄せたい(want to invite)」の意味と考えるのが適当である(*注1)

 ただし、澤瀉説はその前の語句の捉え方に誤りがあると私は考えている。澤瀉氏は「面」を第五句の最初の文字とし「面知あはむ男雲をくも」とする。「智」を「知日」に分解するのは前回のブログ「卑弥呼と大日孁について」の注3での「合字」で述べているように万葉集中では稀でなく存在する現象なのでかまわないのであるが、氏も「逢はむ日」に関して説明の中で述べられているように“をくも”ほどの不動性がなく言葉としても直接端的な言葉であってほしいような気もせられるのであるが、今はこれ以上の案を得がたいので檜嬬手の説に従って後考を俟つとされ、「面知日=逢はむ日」にはそれほど自信がないことを吐露されている。後生である私は澤瀉先生の言葉をうけて「面」は第四句の最後の文字とし、「智」を「知日」(*注2)で「日を知る→ひじり=聖」と訓む。前回のブログで“構成要素を読む漢字”について説明したが、一般的に知られている漢字は「娶=取女=めとる」である。つまり、結句の第五句に「智」はヒジリと訓めて、全体は、

    ひじり招くも

となる。歌全体は、

  燃ゆる火も  取りて包みて  袋には 入ると言わずやも  ひじり招くも

燃えている火も取って包んで袋にいれてしまうと言うではないか。(そのような法力を持った奇跡を行なえる)仙人ひじりに来て欲しい! (そして夫を生き返らせてほしい!)

Don’t they say that there is someone who can hold a burning flame and put it into a bag?  I do want such a superman to come (and revive my beloved husband)!     ※私は難解な万葉歌などの古文の意味をしっかり把握しようとする際に英語に訳すことがある。そうすると、解釈の不備や弱点が見えてくることがある。この英語の“superman”は“miracle worker”の方が良いかもしれない。※「ひじりをくも」と結句をよめば、六音の“字足らず”となる。格助詞の「を」を読み添えて「ひじりをくも(聖招くも)」として七音にして字足らずを解消することも可能であるが、対格(目的格)を示す格助詞「を」を加えないほうがより力強さ、切実さが表現されるように感じたので「を」の読み添えは避けた。

 亡くなった夫の天武天皇が法力(超能力)を持った仙人(ひじり)の力で生き返って欲しいという切なる気持ちから、「法力のある聖を招き寄せたい」、「ひじりが欲しい」、「聖よ、あらわれてくれ!」との悲痛な叫びがこの160番の歌、天武天皇の皇后 鸕野讃良うのさらさの皇女、のちの持統天皇の歌である。これで澤瀉氏が不安視していた“面知日=逢はむ日”の意味の弱さ、曖昧さが消滅する。

 「面」を第四句に入れると、「入澄不言八面=入ると言はずやも」と八音の字余り句となるが、第四句に字余り句になる歌は多数あり異様なことではない。「やも」というように助詞が連接する場合、一番よく使われる用字は「八方やも」であるが、「八面やもも他に4例がある。八方も八面もこの用字自体が意味を持つ熟語であり(“四方八方”、“八面六臂”など)、私はこのような用字を“隠れ熟語”と呼んでいる。万葉集にはこの“隠れ熟語”が非常に多い。万葉歌人はわざと隠しているのではないが(その意味では“隠れ”は適切な命名ではないが‥)、現代人の私たちには気づきにくい場合もある。ここで私が言いたいのは「八面」という連接からも八と面を切り離さない方がよい。

  天武天皇の没年は686年で、このころには仏教と山岳信仰が集合する形で山で修行(山岳修行)する僧侶または、仏教の在家信者がすでにいた。山伏の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角をづのとも言われるが、彼は634年の生まれとされ701年に没した。文武天皇3年に、妖術をもって人々を惑わせたとして、伊豆島に流された。そして、『続日本紀』には「小角よく鬼神を使役し、命令に従わなければ呪で鬼神を縛る」という記述がある。668年には、後に民衆救済の社会事業や墾田開発指導等をして人々から圧倒的な支持を集めた行基も生まれている。

 つまり、天武天皇が没した時には山で修行し大きな力(法力、超能力)を身につけた役行者のような“特別な能力”を持つ人物が何人かいて、人々の間でもてはやされたり、うわさになっていたと思われる。持統天皇はこのような背景の中で「ヒジリをくも」と叫んでいるのである。彼女の悲痛な叫び、夫に対する深い愛情、哀惜の念がこの歌を通じて私の心にひびいてくる。

 

 

【倭大后(天智天皇の皇后)の挽歌】

  153番の倭やまと大后の挽歌もその解釈が大きく間違っている、それゆえ、皇后の天智天皇に対する哀惜の念おもいが私たちにそれほど伝わってこない。

 どこが間違っているのか。それはこの歌の最後の句「若草乃之念鳥立」の解釈である。「嬬つま=妻」を「夫つま」と解し、私の知る限る一人を除いて諸家、「鳥」を「念おもふ=愛する」のは亡くなった夫・天智天皇と解しているのである。が、これは失考と断じてよいのではないか。“若草乃嬬”は文字通り“若草の妻”のことであり、天智天皇の“妻”の倭大后である。そのように解して、この歌の挽歌としての痛切な妻の叫びがよくわかるのである。「嬬」はツマ(妻)を意味する漢字であるが、旁の「需」は“柔らかい”を意味し、柔らかい“若草”とよく呼応する意味を持つ漢字である。

 とりあえず、原文とその通常の訳を示そう。 

大后御歌一首      鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船  邊附而 榜来船  奥津加伊 痛勿波祢曽   邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 念鳥立

大后おほきさきの御歌みうた一首  鯨魚いさな取り 近江あふみの海を 沖放けて 漕ぎ来る舟 辺きて 漕ぎ来る舟 沖つ櫂かい いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つま 思ふ鳥立つ

鯨(くじら)をとる海ともいうべき淡海の海、その沖遠く漕ぎ来る船よ、岸近く漕ぎ来る船よ。沖船の櫂、ひどく波を立てるな。岸船の櫂、ひどく波を立てるな。若草のようだったがいとしんだ、あの鳥が飛び去ってしまうものを。       [講談社文庫本本万葉集(中西進著)より]

となっている。最後の三句「若草乃 嬬乃念 鳥立」の「嬬」をほとんどの注釈書が「夫」の意味とし、「(若草の)夫の君がいつくしんでいた鳥が飛び立つから」(日本古典文学全集本万葉集)とか、「(若草の)夫の愛している鳥が飛び立ってしまうから」(万葉集全注)、「わが夫つまの思いの籠もる鳥、夫の御霊の鳥が驚いて飛び立ってしまうから」(新潮日本古典集成本万葉集)と解している。

 ただ、万葉集全講(武田祐吉著)だけが「妻である私の思っている鳥がおどろいて立つから」と解している。ただ、全講は「嬬」を「夫」とする説も紹介し、強く“嬬は妻で倭大后である”と主張されているようには見えない。

 しかし、「若草乃」という用字が常識的に考えて「夫」を表し得るだろうか。万葉歌人達がいくら多彩な用字をしたからと言っても、よほど特殊な意図がある場合を除いて「若草乃嬬」という用字で「夫」を表すことはなかったと見るべきであろう。

 仁賢天皇六年のところに「弱草吾夫=弱草わかくさの吾が夫つまとあり、その割り注に「弱草と言ふは、古いにしへに弱草を以て夫婦に喩たとふるを謂ふ。故、弱草わかくさを以て夫つまとす」とあり、「古くは弱草という言葉で夫婦を喩えたので“弱草わかくさの夫つま”」と言ったのだという説明がある。つまり、日本書紀編纂時にはそのようには(ワカクサを夫に対する枕詞のように)ほとんど使わないので書紀編者は割り注をつけたとも考えられる。ただ、巻の九の1742番の歌に「(赤裳裾引き~ただ独り い渡らす児は) 若草乃わかくさのつま香有良武かあるらむ~」とあり、「若草乃夫」という用字、表現はあると認めることができる。 「若草乃という用字、表現は認めるが、「若草乃という用字で「若草乃夫」という意味を表すことは決してない、というのが私の立場である。

 万葉集には多数の種類の用字法があり、まだ、一般には普及せず(理解されず)常識にはなっていない用字法がいくつかあり、“義訓”のような難しい用字もあるが、わざと正反対の意味を持つ漢字を使う用字法は他にない。

 =天智天皇の妻=倭大后=この153番の歌の作者、と確定し、歌の意味を考えていきたい。

「若草乃 嬬乃 念鳥立」の意味は、

(沖を行く船も岸辺を行く船も櫂でひどく水を撥ねないでおくれ) 若草の妻の私が愛している(夫の魂の乗り移った) 鳥が飛び立ってしまう!

ということである。当時は“死者の魂は鳥に乗り移って運ばれる”という思想が広く普及していたようである。記紀とも“日本武尊やまとたけるのみこと”が白鳥となり飛び立ったことを記している。

 飛行機に乗って簡単に空を飛ぶことができるようになった現代人の私たちは“空を飛ぶ”ということに対する畏怖の念を失っているが、日本だけではなく世界の多くの地域で人が死ぬと魂が鳥となって昇天するという思想がある。古代エジプトでは死者の魂は、鳥や、人間の頭部をもつ鳥「バー」の姿で描かれ、死後、鳥となって昇天するという考えがあった。アイルランドの民話にも同様な話がある。

 つまり、日本においても鳥が死者の魂を乗せて飛び立つのであり、天智天皇の皇后・倭大后は、「夫の御霊が宿る鳥」は夫そのものであるから、いつまでも留まっていて欲しいのである。つまり、「若草乃 嬬乃 念鳥立」は「(若草の)妻の私が愛する夫の(魂が乗り移った)鳥が飛び立ってしまう(から)」であり、このように解してこの哀切の挽歌の意味、私たちの胸に迫る挽歌の意味が分かるのである(*注3)

 付言すれば、他にも「嬬」を「夫」と解する歌があるが、素直に「嬬=妻」と解釈できないか再検討すべきものがあるように思う。

 160番と153番の歌に対する私の“正解だとする”確信度は95%を超えている。前回のブログ「令は今の誤りではないのか」では「今」に対する確信度は50%をやや超えた程度であるが、今回の確信度は九割を超えている。万葉集の難訓歌などにおいて研究者は自分の訓みの確信度を率直に示すことは少ないが、160番の歌に関しては澤瀉氏の「をくも」の前の語に対する訓みの不安表明を受けて正解にこぎつけることができたのではないか、と考えている。

 万葉集巻二は141番から最後の254番の歌まですべて挽歌が並べられているが、この中には難訓歌もあり、正しく解釈されていない歌もいくつかあると私は考えており、そのいくつかは自著『万葉難訓歌の解読』で示している。興味のある方はお読みいただければと思う。また、ブログ「令和と万葉集」(2019年4月)のなかで簡単に取り上げている。

 

 

(*注1) 澤瀉氏も言及しているが、日本書紀の神代上に「奉招禱」とあり「招禱たてまつら」と訓んでおり、古事記伝ではこれを「遠岐をきとは招き寄せむとする事」とあり、「をく(招く)」は単に「招き寄せる」ということではなく、意志を示す助動詞「む」が加わった意味と解した方がよい。もう少し分かりやすい言葉を使えば「招き寄せたい」という願望、欲求の加わった意味を有する。単に「招き寄せる」というような平坦な意味ではないと考えるべきだ。ただし、日本語の“終止形”は単に“無色透明”のその言葉が示す意味を持つのではなく、たとえば、「招待する」なら、

  彼を明後日わが社に招待する。 I will invite him to our company the day after tomorrow.  I intend to invite him ~.  I want to invite him ~.

と社長が言えば、この「招待する」は、社長の強い決意や意欲を表していることになる(英文が示すのような意味に近い表現になるだろう)。したがって、「をく」を「招き寄せる」と訳すのは間違いとまでは言えないのだけれども不正確な面を有し、読む人に誤解を与えることになる。

(*注2) この「智」を誤字ではないと私は考えている。つまり、「智」のままで構成要素の「知」と「日」に分解して訓む。これは前回のブログ「卑弥呼と大日孁」の(*注2)で示しているように、

娶:め(女)+とる(取)[取女]

袷:あはせ(合)+の+ころも(衣) [つるはみの袷衣~(万葉、巻十二・2965)]

艤:ふな(舟)+よそひ(義) [義舟(義=儀よそふ)][(万葉、巻十・2089)]

のような漢字と同様である。「炎」の語源は“ほ(火)のほ(穂)”とされているが、そうではなく「炎」の中の二つの「火」をそのまま訓んだのではないかと私は考えている。つまり、「火の火」である。「合あわせの衣ころも」と同じように構成要素の漢字で訓んだ言葉になる。

 藤堂明保氏の『漢字語源辞典』によると「智」は語源的には「知」と同じで、「ズバリと当てる」という基本義を持つ{TEG}・{TENG}という単語家族に属する語である。この単語家族には「聖」も含まれている。

 「ひじり」という和語は、万葉の昔から主として「聖」という漢字に対応する訓として用いられているのであるが、聖={TENG}=智であるとすると、和語「ひじり」は「智」を構成要素に分解して「知日(ヒシル→ヒジリ)」から造られた「翻訳語」であったが、語源的にも意味的にも関連のある「聖」に対して主として使われるようになった可能性がある。

 漢字に対する訓は、時代が下るにつれて簡略になっていく傾向があり、逆にいうと、時代をさかのぼるほど複雑であることが多い。現在、英語の liberty の意味を英和辞典で見ると、「自由、解放、勝手、特権」などの訳語が載っているだけであるが、幕末から明治にかけての辞書類には「自由」のほかに「自主、自専、自得、自若、自主宰、任意、慣用、従容」などの訳語もあり、現在よりも複雑である。私自身は逆に古い時代ほど訳語は単純で時代が下がるほど複雑になるのではないかと漠然と考えていたのであるが、多数の語において、実際は古くなるほど訳語が多くて複雑なのである。この理由は最初のうち訳語がいろいろと試みられ、安定せず、その結果、多くの訳語が生じるのであろう。これと同様に、漢字の読み(訳語)の場合も、万葉時代よりも推古期、それ以前とさかのぼるほど、多くの場合、複雑であったと思われる。

(*注3) 倭大后の父親は、舒明天皇と蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女ほほてのいらつめの間に生まれた第一子・古人大兄ふるひとのおほえ皇子である。古人大兄皇子は皇位継承の最有力候補であったが、大化の改新で権力の座を失った蘇我氏が没落する中で、身の危険を悟り、僧侶となり吉野に隠棲したが、権力の座にあった中大兄皇子(後の天智天皇)に謀反の疑いをかけられて死に追いやられた。ふつうに考えると、倭大后にとって、天智天皇は父の仇であるはずだが、153番の挽歌にはそのような雰囲気は微塵もないように思われる。彼女が天智天皇に捧げた愛情のみが私に伝わってくる。 (2022年6月18日記)

 



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