雄略天皇のクーデターおよび稲荷山の辛亥銘鉄刀銘文の読みの再検討
有名な辛亥銘の鉄刀の銘文の読み誤りを明らかにしたいと思います。次の文章は私が『季刊邪馬台国』などで発表した論文をまとめたものです。
471年(=辛亥年)に雄略天皇は、有力な皇位継承者である二人の兄と三人の従兄弟を皆殺しにして(つまり、“辛亥の変”によって)、皇位を獲とったのだ、というのが私説の核心です。471年を雄略天皇の即位年とすることで、倭の五王の最後の王、武の宋への上表文との矛盾が氷解します。また、472年に百済の蓋鹵王は高句麗と激闘を繰りかえす中で、宋に朝貢しているにもかかわらず、宋の敵国の北魏に援軍を要請するという二股外交を展開している謎も解けます。
471年を雄略の即位年とすることに賛意を示してくれる専門家も一部にはありますが、大多数の専門家は無視を決め込んでいるようです。このままでは真実が数十年うもれてしまうのではないかと恐れています。このブログを通じて私説が検討されることを願っています。
永井津記夫
***銘文中の「吾」はヲワケの臣ではなくワカタケル大王である。なぜなら、臣下は大王の前で「吾」を使うことはできない***
私は『東アジアの古代文化76号』(大和書房 1993年)所収の拙論「辛亥の変とワカタケル」および、季刊『邪馬台国67号』(梓書院刊 1999年)に再掲載された同名の論文の中で「辛亥の変」と雄略天皇の関係を論じました。
『日本書紀』の継体天皇二十五年のことろに、『百済本記』から引用した記事が載せられています。
「太歳辛亥三月……又聞、『日本天皇及太子皇子倶崩薨』」
(辛亥年三月に…また次のように聞いた。『日本の天皇と太子と皇子がともに崩じた』)
この記事にもとづいて、継体天皇は六世紀前半の天皇であり、前半の辛亥年は531年ですので、この531年に、継体天皇が没したと書紀(『日本書紀』を書紀と表記することがある)の編者は考えたのです。そうすると、太子と皇子もともに死んでいなければならないが、書紀によると、継体天皇の時の太子も皇子も順に平和裏に皇位を継承して、安閑天皇、宣化天皇となっています。
ここに大きな謎があります。つまり、
継体天皇が没したとき、太子と皇子がともに死亡する事件―「辛亥の変」が起こった、とする説と、「辛亥の変」は起こらなかった、とする説が対立しているのです。
しかし、書紀が引用する百済系の史書、『百済本記』や『百済記』や『百済新撰』の中の日本関係の記事は干支によって年月が記されており、事件がいつ起こったか追求できるのですが、干支は60年ごとに同じ干支がめぐってくるため、事件ははじめに考えられていたよりも、60年後、120年後に起こったとすると整合性が得られることがあり、逆に、60年前、120年前に起こったとすると、うまく説明できることがあります。
そうすると、継体天皇の没年とされる辛亥年の531年に起こったとされる“天皇と太子と皇子がともに死亡する大事件”は実はその60年前(=471年)に起こった大事件を指しているのではないか、という考えに至るのです。
雄略天皇には、その即位前に「天皇と太子と皇子(たち)」が短期間で殺害されるという凄惨な事件が連続するかたちで起こっています。五人兄弟のなかの末弟の雄略は次兄の安康天皇が暗殺された直後、暗殺の犯人の眉輪王と二人の兄(坂合黒彦皇子と八釣白彦皇子)を殺し、そのあと、二人の従兄弟(市邊押磐皇子と御馬皇子)も殺害しました。その事件を、
天皇=安康天皇
太子=坂合黒彦皇子
皇子=八釣白彦皇子・(眉輪王)
というようにとらえると、「日本天皇及太子皇子倶崩薨=日本の天皇及び太子、皇子がとも倶にほうこう崩薨した」という内容にぴたりと符合します。
この考えが正しければ、五三一年に辛亥の変が起こったのではなく、その六十年前の辛亥年の四七一年に「辛亥の変」があったことになります。
これは、古代史上において謎の世紀といわれる五世紀に一つの光明を灯し、雄略朝から武烈朝を経て継体朝にいたる古代史の謎を解明するのに、少なくとも二つの重要な手がかりを提供します。つまり、471年を雄略天皇の即位年として、謎の五世紀に一つの基点を与え、六世紀前半の継体朝から「辛亥の変」を消去し、そこから生ずる錯綜を除去することになります。
雄略が470年後半から471年初頭にかけて政権奪取クーデターによって皇位につき、471年が雄略の治世元年であるとすると、辛亥銘の鉄刀銘文の「吾左治天下」の意味と、倭王武が四七八年に宋に出した上表文の「短期間に父兄を亡くし、服喪していたために軍を動かすことができませんでした」という内容とを矛盾なく整合的に説明できることになります。
拙論「辛亥の変とワカタケル」(『東アジアの古代文化76号』[1993年 大和書房刊]所収の論文、この論文は『季刊邪馬台国67号』[1999年梓書院刊]に再掲載された)は五世紀から六世紀にかけての年代問題を確定するのに少なからず貢献すると自負していますが、私は同論文の中で鉄刀銘文の読みの通説に対して、銘文中の「吾」はヲワケの臣ではなく「ワカタケル大王」であるとする新説を提唱しましたが、あまり理解もされず、注目もされなかったように思われます。
辛亥の変=雄略の政権奪取クーデター、辛亥年=四七一年=雄略の治世の元年と見ることによって、鉄刀銘文の作られた理由、ヲワケの臣の立場が非常によく理解できるのです。
私は「辛亥の変とワカタケル」の核心部分を抜粋し、多少、追加修正もして、鉄刀銘文に焦点をしぼり、とりわけ、「吾」と「臣」の意味内容を再吟味して、銘文の意味を再検討し、もう少しわかりやすい形で、通説の読みの誤っている可能性を追求したいと考えています。
【辛亥銘の鉄刀銘文の意味の再検討】
昭和53年の秋に、埼玉県の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄刀に金象嵌の銘文のあることが発見され、そのことが新聞によって大々的に報道されました。
岸俊男氏によると、鉄刀の銘文と、その読みは次のようになっています。
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、オホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(「寺」は「役所」の意)
〔「稲荷山古墳鉄刀銘の読みについて」(『歴史公論 5』 雄山閣 1979年)〕
岸氏は銘文中の「吾」を〝ヲワケの臣〟と解している。ために、銘文全体の解釈が私とは根本的に異なるのですが、今ここでは便宜上、岸氏の読みとその解釈に基づいて、分かりやすく口語訳してみましょう。
辛亥の年(四七一年)七月に{以下のことを}記す。
ヲワケの臣の先祖はオホヒコである。その子はタカリのスクネである。その子の名はテヨカリワケである。その子の名はタカヒ(ハ)シワケである。その子の名はタサキワケである。その子の名はハテヒである。その子の名はカサヒ(ハ)ヨである。その子の名がヲワケの臣なのだ。代々、親衛隊の隊長となって{大王に}お仕えしてきて今日に至っている。
ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の役所は{今}シキの宮に在り、私は{大王が}天下を治められるのをお助けしている。{それで}この百練の利刀を作らせて、私がお仕えする根原を記すのである。
この銘文中の「辛亥年」は「四七一年」、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は「雄略天皇」とするのが現在ほぼ定説化しており、私もこれに関しては異論がないのですが、この読みは、刀も銘文もヲワケの臣が作ったとする立場からなされています。そして、銘文中の「吾」をヲワケの臣と解しています。
一見、そのように読めそうですが、当時の君臣関係の常識はどのようになっていたのか。漢文の態(ボイスvoice)をどのようにとらえるのかによって、岸氏の読みは大きな誤りである可能性が見えてきます。
【通説は根本的に誤っているのではないか】
***「吾左治天下」と「吾奉事」の「吾」は雄略、「左治」は使役または受け身である***
「人笑」という漢文は、普通に読むと
人、笑フ。(人が笑う。)
という意味ですが、しかし、場合によっては、
人ニ笑ハル。(人に笑われる。)
というように読む必要が生じます。つまり、能動に読むか受け身に読むかは文章全体の文脈の中で決定しなければならないのです。
そうすると「吾左治天下」はそのまま普通に読むと「私は天下を治めるのをたす左けている(天下を左治さじしている)」となりますが、「吾」が最高支配者のワカタケル大王(=雄略天皇)なら、大王が天下を左治することは有り得ないから、
吾、天下を左治せらる。=吾、天下を(ヲワケに)左治せらる。
というように「左治」を受け身に読むことで文意が通じます。が、古代の君臣関係を重視し、君主は臣下に命令する立場を考慮すると、「左治」を使役に読むほうがよいかもしれません。つまり、
吾、天下を左治せしむ。=吾、天下を(ヲワケに)左治せしむ。
となります。受け身と使役は大きくちがうように見えますが、根元的な状況、つまり、“吾(=ワカタケル大王)がいてヲワケが天下を左治している状況”は同じになります。
それでは、私の銘文に対する読みと解釈を示しましょう。最初に、原文に段落をつけ、次にそれを読み下したものを示したいと思います。
辛亥年七月中記。
乎獲居臣。
上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余其児名乎獲居臣
世々為杖刀人首奉事来至今。
獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也。
辛亥(しんがい)の年七月中しる記す。
ヲワケの臣(おみ)。
上祖(かみつおや)、名(な)はオホヒコ。其のこ児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカハシワケ。其(そ)の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサハヤ。其の児、名はヲワケの臣。
世々(よよ)、杖刀人(じゃうたうじん)の首(をさ)とな為(な)り、奉事(ほうじ)し来(きた)り今に至(いた)る。
ワカタケルの大王(おほきみ)、シキの宮に寺在(いま)す時、吾(われ)、天下を左治(さぢ)せしめ[せられ]、こ此の百練(ひゃくれん)の利刀(りたう)を作(つく)らしめ、吾(わ)が奉事(ほうじ)せらるる[せしむる]根原(こんげん)を記(しる)すなり也
というように読めます。語の順序も変えて、やや大胆に現代語に意訳すると、次の囲みの文章のようになります。
**********************************************************
辛亥の年 七月
記
ヲワケの臣
上祖の名はオホヒコ。その子はタカリのスクネ。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。その子の名はカサハヤ。その子の名はヲワケの臣。
代々、大王の親衛隊の隊長となって、仕えてきてくれて今に至っている。
私は(汝に)天下を左治してもらっており、この百練の利刀を作らせて、私が(汝に)仕えられる[仕えさせる]根源を記しておく。
於シキの宮 ワカタケルの大王
******************************************************
この銘文は一つのテーマのもとに、まとめられた文章、つまり、一つの書式(フォーム)を持つ文章と考えられるので、細長い刀に刻むという制約から生じる〝直線的表記〟を四角い囲みの中の文章に変換することで見えてくるものがあるはずです。
この意訳のポイントは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の部分を、
鉄刀の授与者(=銘文を書いた主体)・・・・・ワカタケル大王
大王の所在する宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シキの宮
を表していると見て、主文の外に出して、最後に付加したということです。
さらに、「吾左治天下」と「吾奉事」の「吾」をワカタケルとし、左治」と「奉事」を使役または受け身の意味を表すと見て、
吾左治天下・・・吾われ、天下を(ヲワケの臣に)左治さぢせしめ・・使役
吾(われ)、天下を(ヲワケの臣に)左治さぢせられ・・受け身
吾奉事(根原)・・吾わが奉事ほう じ)せしむる(根原) ・・使役
吾わが奉事ほうじせらるる(根原) ・・受け身
というように理解します。また、最初の「辛亥年七月中記乎獲居臣」の「記」を意味の上から「乎獲居臣」を目的語にとると見ると、
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・辛亥年の七月にヲワケの臣のことを記す
というように解することができ、最初、そのように考えたのですが、銘文全体をヲワケの臣に対する感謝の言葉ととらえると、「辛亥年七月中記」と切り、次の「乎獲居臣」も独立した一文として扱う方がよいと思われます。つまり、銘文全体をヲワケの臣への感謝状と見て、「乎獲居臣」を「感謝状」の次に来る感謝される人物名と考えたのです。また、やや視点を変えていえば文章全体の中で、「乎獲居臣」はワカタケル大王からの「ヲワケの臣よ!」という呼びかけの言葉と見ることもできるでしょう。「記」を感謝状にかえると、
**********************************************
感 謝 状(記)
ヲワケの臣殿
(汝の)上祖の名はオホヒコ。その子はタカリのスクネ。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。その子の名はカサハヤ。その子の名はヲワケの臣。
代々、大王の親衛隊の隊長となって、仕えてきてくれて今に至っている。
私は(汝に)天下を左治してもらっており、この百練の利刀を作らせて私が(汝に)仕えられる[仕えさせる]根源を記しておく。
辛亥の年 七月 於シキの宮
ワカタケルの大王
**************************************************
となります。
これで、銘文は私見のように「吾=ワカタケル大王」であり、ワカタケル大王が鉄刀を下賜する状況のもとでこの銘文を書いたと解釈できます。
これで、ヲワケの臣およびその系譜と、ワカタケル大王、辛亥年七月およびシキの宮との関係が完全に理解できるのではないでしょうか。
この「感謝状」はヲワケの臣に対するものですから、ヲワケの功績を記しており、本文中の「吾」は、感謝の気持ちを書き記しているワカタケル大王となるのは明らかでしょう。
さらに、ワカタケル大王は、ヲワケの系譜が第八代孝元天皇の第一子の「大彦」にまでさかのぼり、天皇(大王)家につながることを示し、それゆえ、自分がヲワケの臣に仕えられるのだ、つまり、系譜からヲワケは天皇家と親戚となり、それが奉事の「根原=根源」であると述べているのです。
今、問題の「吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」を整理して示すと(熟語には歴史的仮名遣いを用いてあります)、
A 吾左治天下・・・吾は[ヲワケの臣に]天下を左治さぢさせており、
B 令作此百練利刀・・[吾は]此この百練の利刀りたうを[刀工(担当者)に]作つくら令せて
C 記吾奉事根原也・・・・吾わたしが[ヲワケの臣に]奉事ほうじされる根原こんげんを記しるす也のだ。
となります。
ここで、「左治」を使役とみることが可能としても、なぜ、Bのように使役の助動詞「令」がないのか、省略するのなら、Aで「令」を用い、Bで省略すればよいではないか、というような疑問をいだく人もいるかもしれません。
「令」などの使役の助動詞のない使役表現と「令」について検討したいと思います。
〈使役の助動詞を用いない使役表現および「令」の位置〉
『日本書紀』天武天皇朱鳥元年八月のところに、
庚午、度二僧尼并一百一。因以、坐二百菩薩於宮中一、讀二観世音經二百巻一。
庚午かのえうまのひに、僧尼并あはせて一百を度いへでせしむ。因よりて、百の菩薩を宮中に坐すゑて、観世音經二百巻を讀よましむ。
というように使役の助動詞がなく使役に読むところが出てきます。この原文は、天武天皇の病状が重くなり、天皇サイド(皇后、皇子、重臣)は、八十名の僧を得度させ、さらに百名の僧と尼を得度させて天武天皇の回復を祈願している状況を示しています。そうすると、「百の観世音菩薩の像を宮中に安置する」のは、天皇サイドが命じた臣下か僧侶であると考えられるので、原文の「坐」は「坐(す)ゑて」ではなく「坐(す)ゑしめて」と読んでもよいことになります。
鉄刀銘文の、
吾左治天下、令作此百練利刀~
において、和語の影響から「令」が上に響いているとすると、
吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作ら令しめ~
=吾、天下を左治せ令しめ、此の百練の利刀を作ら令しめ~
ということになり、「左治し=左治せしめ」というように考えられるのではないでしょうか。
また、和語の影響を考慮しなくても、純粋の漢語においても最初の文に使役の助動詞が用いられておらず、次文に使役の助動詞が出てくる場合に、最初の文の動詞を使役に読むことはあり得ることなので、鉄刀銘文の「吾左治天下」の「左治」を使役と見ることは奇異なことではないでしょう。
もう一つ、私見の正当性を示す例を挙げましょう。
使役の「令」が二つ目(下)の動詞についている例が『日本書紀』の神功皇后摂政前紀にあります。
皇后召二武内宿禰一、捧二劒鏡令V禱二祈神祇一、而求V通V溝。
皇后、武内宿禰たけしうちのすくねを召めして、劒鏡たちかがみを捧ささげ、神祇あまつかみくにつかみを禱祈いのりまさしめて、溝うなでを通とほさむことを求もとむ。
この文は、神功皇后が朝鮮出兵を前にして、神田に川の水を引き入れようとしたが、大きな岩のために溝(運河)を通すことができませんでした。そこで、武内宿禰を呼び寄せて剣と鏡を捧げて(=捧げさせて)神祇に祈らせて、溝を通すことを求められた、という状況を述べたものです。
この文では、皇后が武内宿禰に命じているので、常識的に考えると、「剣と鏡を捧げる」のは武内宿禰となり、「捧二劒鏡」の上に「令」があって「令V捧二劒鏡」となっていてもよいわけですが、そうはならず、次の動詞の「禱祈いのる」の上に使役の「令」がついています。「令棒(捧げしめ)」のように「令」が用いられていないのは、下の「禱祈いのりまさしめて」の中に使役の「しめ(令)」があって、対偶中止法になっているからです。
【「左治」のように助動詞なしで使役と解せる他の重要な例】
さて、「左治」のように「令」や「使」がなくても使役とする例は、すでに二つ挙げたのですが、ここでもう一つ追加しておきます。
その例は、私たちのよく知っている『魏志』「倭人伝」の中にあるのです。今、「倭人伝」の一部を次に引用しましょう。
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國乱相攻伐歴年乃共立一女子爲王 ①名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以来少見者
傍線部①の訳は武光誠氏の『魏志倭人伝と邪馬台国』(読売ぶっくれっと№10)によると、
①名づけて卑弥呼ひみこという。鬼道きどうに事つかえ、よく衆をまどわす。年已すでに長大なるも、夫壻ふせい無し。男弟だんていありて、佐たすけて国を治む。王となりてより以来、見る有る者少なし。
〈現代語訳〉
その名を卑弥呼といった。
(卑弥呼は)呪術の道に仕え、人々を上手に眩惑させる。既に高齢だったが、夫はなく、弟がいて、補佐して国を治めた。王になってから姿を見た者は少ない。
となっています。特に傍線部①ですが、他の研究者もだいたいこのような読み下しや現代語訳をしているようですが、私には異論があります。
傍線部①の中では「~は」という“主題 ”は、あくまで卑弥呼ですから、武光氏の訳を勘案し、原文も尊重した私の訳を示すと次のようになります。
名は卑弥呼といった。(卑弥呼は)鬼道につかえ、よく衆をまどわした。(卑弥呼は)年はすでに長大であるが、夫壻は無く、男弟が有って、国を佐治させていた。
原文の「無夫壻」と「有男弟」は対句になっているから、二つに分けるのではなく一緒にしたほうがよいと思われます。
この文の主題は前文で武光氏が「(卑弥呼は)」と示しているように「卑弥呼」ですから、その影響下にある「補佐して国を治めた」は、
(卑弥呼は)既に高齢だったが、夫はなく、弟がいて、国を治めるのを補佐させていた。
というように「~させていた」と使役に訳すべきでしょう。そうすると、読み下しのほうも、
(卑弥呼)年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有りて、国を佐治さぢせしむ。
というように「佐治」を使役として訓読したほうがよいことになります。訓読は原文に対する一種の訳ですから、全体の意味をとりそこねていなければ使役に読もうが非使役に読もうがかまわないのですが、辛亥銘の鉄刀の「吾左治天下」のように、動詞の「左治」を使役ととるか非使役ととるかで文章全体の意味内容がまったく変わってしまう場合には慎重に検討しなければなりません。
【「大王」と「臣」と「吾」】
私は以前から気になっていることがあります。それは、大王は自分を「吾(われ)」と言うのは当然ですが、臣下が大王と並んだときに、「吾(われ)」と言えるかどうかということです。
これは、養老律令(757年施行)の儀制令に「凡皇后皇太子以下、率土之内、於天皇太上天皇上表、同稱臣妾名。對揚稱稱名(皇后・皇太子以下すべてのものが、天皇・太上天皇に上表するときには、臣○○、妾○○と称せよ。御前にて申すときは、単に○○と名だけを言え)」とあり、この儀制令(後世のものですが)に沿った形式と言える。つまり、臣下は天皇(大王)に上表するときや、その前では、「臣○○」か「○○」としか言えなかったわけで「吾」は使えなかったのです。これは、8世紀の天皇への上表時と御前での礼法ですが、6世紀の欽明天皇の時代にもあり、百済の聖明王が自身を「臣明」と言って欽明天皇に上表しています。
雄略天皇の時代、つまり5世紀はどうなっていたのかですが、倭王武は宋の皇帝への上表文において、
臣雖下愚(臣、下愚なりと雖も) 臣亡考済(臣が亡考済)
というように、「臣」という用字で、「吾」や「我」などの一人称代名詞は用いていません(「臣」を和語で読めば「やつこ」となります)。つまり、倭王武(=雄略天皇)は中国皇帝に対して、「臣」を用いていたのですから、倭国内においては、自分の臣下に対して「臣」を使わせていたと考えてもよいでしょう。また、養老律令の儀制令にあるように、単に名前だけを言わせることもあったと思われます。
五〇三年に製作されたと考えられる隅田の鏡の施主だと思われる百済の武寧王は「斯麻」というように無称号の諱で書かれています。
倭王武の上表文中の「臣」、隅田の鏡の「斯麻」の無称号、百済の聖明王の「臣明」を勘案すると、雄略天皇(倭王武)の時代には、書紀編纂時の天皇に対する臣下の礼法とほぼ同様に、大王に対しては臣下は「吾(われ)」ではなく「臣(やつこ)」という謙称の一人称代名詞を用いるか、単に「○○」と名前だけを用いたと考えられます。
つまり、雄略朝においても、8世紀の養老律令の儀制令と同様の礼法があったと考えられます。この雄略朝の礼法が、辛亥銘の鉄刀銘文が発見されたときは理解されていませんでした。
もし、ヲワケの臣がこの鉄刀を作って、「自分はワカタケル大王を左治したのだ」と自慢しているのだとしたら、銘文は、
・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、吾左治天下・・・
ではなく、「吾」の代りに「臣」か「ヲワケ」か「臣ヲワケ」を用いて、
・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、臣左治天下・・・
・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、ヲワケ左治天下・・・
・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、臣ヲワケ左治天下・・・
となるはずです。雄略天皇の時代の礼法からすると、「獲加多支鹵大王」のあとで、「吾=ヲワケ」が出てきてはいけないのです。したがって、雄略朝の礼法からは、この「吾」は「ヲワケ」ではないと言えます。「吾」がヲワケではないなら、この銘文のもう一人の主役「獲加多支鹵大王=ワカタケル大王」とならざるをえません。
また、漢文の流れからみても、「吾」のすぐ前の人物を表す言葉は「獲加多支鹵大王」ですから、「吾」はまずこの人物を指していると考える必要があります。それでどうしても文意が通らなければ、次の人物に移る必要が出てきます。
しかし、ここは、「吾」を「獲加多支鹵大王」とし、「左治」を使役と考えれば文意が通るのですから、「吾=獲加多支鹵大王」とすればよいのです。
【雄略の即位と宋への遣使問題】
雄略が私見の如く四七○年の末から四七一年の初頭にかけて政敵、つまり、兄と従兄弟たちをことごとくほうむり(辛亥の変を起こして)、天皇(大王)位についたとすると、その後、数年間は父兄(允恭、安康等)の服喪に入っていたために兵を動かせなかったと考えられます。
服喪期間が三年か四年(敏達天皇や斉明天皇は没してから埋葬するまで五年七ヶ月ほどの期間があります)ほどとすると、四七五年ころには喪が明けて百済を救援する態勢をとることができるようになったと思われますが、時すでに遅しの状況であったと思われます。
雄略の援軍を得られなかった百済の蓋鹵(かふろ)王は四七五年、高句麗の長寿王が率いる大軍のため、殺害され、王都漢城は陥落しました。が、からくも敵の手をのがれた息子の文周(もんす)が南行して熊津に都をつくったので、百済は滅亡だけは免れたのです。四七五年よりも二、三年前に倭が援軍を送るなどの手をうつことができていたら、百済が滅亡寸前まで追いつめられることはなかったと思われます。
四七二年、百済の蓋鹵王は北魏の孝文帝のもとに遣使して、高句麗の南侵に対して援軍を要請した。これは、南朝から代々冊封されている百済王の巧みな二股外交のようにもみえる。が、蓋鹵王がこのような外交政策をとったのは、四七二年の時点で服喪中の雄略に援軍の派兵を要請できなかったため、せっぱつまって北魏にも支援を求めたものと考えられます。
『日本書紀』によれば、蓋鹵王は弟の昆支王を四六一年に倭に人質として送ってきました。王族を人質として送ってきている同盟国・百済に雄略はなぜ援軍を送りださなかったのか。
その答は簡単です。すでに説明してきたことで明らかなように、雄略は服喪中で軍を動かすことができなかったのです。書紀によると雄略は死去する年(四七九年)四月に、百済の三斤王が急死したことをうけて、昆支王の子どものうちの一人、末多王に護衛兵五〇〇名をつけて政治的に混乱状況にある百済に送り、王位につけた。雄略は百済を軍事的に援助する心を十分に持っている大王(天皇)でしたが、服喪中は雄略といえども朝鮮半島に軍を送り出すことはできなかったのです。それゆえ、せっぱつまった蓋鹵王は北魏にも支援を求めたのだと思われます。
百済・北魏・宋・高句麗・倭をめぐる当時の国際情勢、つまり、朝鮮半島周辺の国際情勢からも、四七一年ころに雄略が即位し、その後数年間、服喪中で兵を動かすことができなかったと考えると、より合理的に当時の状況(国際情勢)を把握し説明できます。
雄略が四七一年に即位したという私見は、第一義的には、いわゆる「辛亥の変」が継体朝の五三一年に起こった事件ではなく、その六十年前に雄略が起こした政権奪取クーデターであるという考えにもとづいているのですが、百済の北魏に対する外交も副次的な根拠となっているのです。
百済における四七二年の対北魏外交と、四七五年の対高句麗戦争の敗北を同盟国の倭の雄略天皇の服喪状況と結びつけて説明した研究者は私がはじめてですが、四七一年に雄略が即位し、しかも、父や兄たちの喪に服していたとすれば当然のごとく生じる考えです。
宋への雄略の上表文の内容と、即位後の服喪期間、宋への朝貢に対する高句麗の妨害期間、上表された年、四七八年(実際には四七七年末と思われます)を勘案すると、ある程度の確かさで雄略の即位年の四七一年を推定できることになります。
雄略天皇の即位年は四七一年である、というのが私の結論です。これによって“謎の五世紀”に基点となる年が決まり、倭の五王の解明も可能となってきます。五世紀と六世紀の古代史の解明に大きく貢献します。
倭の五王の解明や、継体朝の問題は次に発表したいと考えています。御期待ください。