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神武天皇はいつ即位したか

2022-05-19 16:42:24 | 歴史と政治

  

神武天皇はいつ即位したか

**神武天皇の即位は291年である**

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  今、日本の歴史、世界の歴史の見直しが大きく行なわれていると言えだろう。とくに、日本において歪んだ近現代史の見方、とくに、戦後、GHQのWGIP(War Guilt Information Program: 戦争犯罪意識埋込計略)によって歪められた自虐史観を正そうとする動きが顕著に見られる。先の戦争は米国GHQが日本人に埋め込もうとした“アジアへの侵略戦争”ではなく、アジアの解放戦争という見方の方が、無法非道の米国が日本人に埋め込もうとした“日本が起こした侵略戦争”という見方よりもはるかに正しく当時の状況を説明する。つまり、大東亜戦争(太平洋戦争)は、日本人特有の控え目な表現であり、「大東亜解放戦争」と名付ける方がより正確な表現であると私はいま考えている。

  戦後、GHQの教育介入によって歴史教育が大きく変わった。戦前の日本政府と日本軍を悪党にし、欧米がアジアやアフリカで行なってきた残虐非道な植民地支配は棚上げにしたのだ。 戦後の政治体制、政党体制は現行憲法と同様米国GHQの容認のもと、つくられた。本来なら米国で嵐のように起こったレッドパージによって、米共産党と同様に消滅させられる運命にあった日本共産党も、日本の政治を混乱させ日本が再軍備し米国への報復に向かわないために妨害する手駒として米国が残したと思われる。

  私は欧米のアジア・アフリカへの植民地主義とそれを知らないかのように日本を非難すする共産党の志位和夫委員長のツイートに対して次のように批判した。

 ①* 欧米列強の植民地主義、帝国主義の歴史に無知か無視かどちらかわからないが、戦争直後、日本に進駐してきた米国(中心の)軍隊を“”解放軍“”と呼んだだけあってよく世界の歴史を知っているのが日本共産党だ。爆弾と焼夷弾で何十万人という一般市民を虐殺し広島と長崎に原爆を落とし女性と子供を含む ② 一般市民を数十万人殺戮したのが戦争犯罪国・米国だ。その米国の悪辣非道の植民地主義(ハワイ王国とフィリピンで現地住民を数十万人無慈悲に殺害した)を覆い隠すのが、戦後、GHQの言論出版の統制とWGIP(戦争犯罪意識埋め込み計略)による洗脳教育だ。いま85歳以下の日本人は大多数この洗脳教育の呪縛下にいる。共産党から自民党の議員も例外ではない。米国の敷いた ③ レールに乗り 「植民地主義」で米国を非難するのではなく日本を非難するのは、非難の方向が間違っている。わざとやっているなら、日本の政党ではないし、歴史を知らずにやっているならバカと言うしかない。自国民を強制収容所に入れ迫害、弾圧、処刑を重ねる中国や北朝鮮の非道は見聞しないことにし ④ 嘘を重ねる韓国を擁護するのは日本に籍(席)をおく政党のすることではない。日本周辺のヤクザ国や野蛮国(中韓北米露)を擁護したいならこれらの国に行けばよい。これらの国の歴史(過酷な奴隷制の李氏朝鮮史を含めて)をもっと勉強したらどうか。 (2019年8月27日)

  共産党だけではなく、他の野党や、公明党や数多くの自民党議員も大多数の日本人と同様に戦前の悪逆非道の欧米列強の植民地での行動を理解していないうえに、日本を悪党化する米国の戦後政策(WGIP)などに洗脳されている、と言っても過言ではない。

  神武天皇の非実在説も戦後のGHQの教育介入によって生まれてきた。が、このような戦後の米国の政策に沿ったような誤説はその後、多数の研究者の手によって否定された。が、否定と同時に日本書紀(以後、「書記」と表記)の説く年代論をそのまま受入れ、紀元前660年に神武天皇が大和の地で即位した、とする人たちも何人も現れてきた。だが、紀元前660年即位は明らかに間違いである。

  書紀は編集する天武天皇側の正当性を主張する面を強くもっており、その意味では壬申の乱前後の歴史記述はかなり“曲がって”いると考えられる。また、神話の部分にも当時の天皇家とそれを支えていた豪族(貴族)たちの意向にそって(神話に登場する“神々”が自分の先祖に連なることを主張し、その活躍を記述させたいがために)書きかえ、書き加えが行われたところがかなりあるように見える。

  しかし、神武天皇以降、壬申の乱前後の記述を除いては意図的に歴史の記述を天武朝の編纂者はねじ曲げていないと私は考えている(第16代の仁徳天皇の長子の履中天皇から正式な文書を用いての国政が始まっているので、その時々の為政者によって、この辺りの記録が書紀編纂時に残っていたとしたら都合の悪いことは記述されていないか、曲げられている可能性はある)。もちろん、用いる史料の不十分さや判断ミスによって間違っているところはかなりあると考えてよい。そして、最大の誤りは“古代天皇一世60年説”と“辛酉革命説”とによって、古代天皇の治世を過剰に長くし、結果、神武天皇の即位年を紀元前660年の辛酉の年にしたことである。これは意図的な誤り、つまり、捏造というより、編集過程での判断の誤りであろう。

  いま、ここで私は当時の書紀編纂者の古代天皇の治世年代の誤りを正す手段として、次の三つの考え方をとりたい。

①安本美典氏の説く“古代天皇一代の治世は実際の平均は10年”(*注1)を正しい理論として採る。

②辛酉革命説ではなく“辛亥革命説”を用いる(これは私[永井津記夫]の創案)

③書紀は(平均すると)“古代天皇(神武帝から仁徳帝)1代の治世60年”という考えを導入し、結果として各天皇の治世の過剰な嵩上げをしている、という考え方を正しいものと見る。

  

【神武天皇の即位年を推定する】

  さて、ここから本題に移り、神武天皇の即位年を推定してみよう。

  古代天皇の実年代を出すために使う武器は、安本美典氏が提唱する“古代の天皇の平均在位年数は約10年”とする「安本年代論」である。また、私が発見し提唱する「辛亥革命説」は、ここでは確認のために補助的に使うことにしたい。

  書紀の編纂者は、『魏志』の東夷伝倭人条に記述されている邪馬台国女王の卑弥呼を神功皇后に比定し(*注*) 、3世紀のはじめに活躍した人物としている。

 神武帝から仁徳帝まで、16代で平均の在位年数が60年とすれば、仁徳帝の即位年から遡ればいいのであり、これは、安本年代論を用いて、その即位年の確実な天皇(敏達天皇など)から遡ればできるのであるが、今、ここでは書紀が確定している年代から遡ることにしたい。

  書紀は、神功皇后の39年のところに、

    魏志に云はく、明帝の景初三年六月~朝献す。(※景初三年=239年)

とあり、書紀の編纂者が神功皇后を「倭の女王(=卑弥呼)」に比定し、その活躍年代として、239年をもってきていることがわかる。

 日本書記の年代比定にしたがうと、239年が神功皇后の(治世)の39年であるから、その元年は、239-38=201年となる。神功皇后の夫の仲哀天皇の没年はその前年の200年になる。この西暦200年を起点に、その前に統治したの14天皇(神武~仲哀)の合計した統治期間は、

   60年X14代=840年 (※『書紀』が採用したと考えられる“古代天皇一代の治世60年”による)

となる。そうすると、神武天皇の即位年は、200年から840年さかのぼると、

    200―840+1=-641→ 紀元前641年 (※紀元0年がないので“1”を加える)

となる。書紀の採用したと考えてよい「古代天皇一代の治世60年」説に従い、さらに、書記が利用している『魏志』に出てくる客観的な239年を起点にさかのぼると、紀元前641年が出てくる。そして、この641年にもっとも近い“辛酉の年”は紀元前660年となる。

  書記の編纂者は、

1) 古代天皇(神武帝から仁徳帝)一代の治世60年”と考えた。

2) 『魏志』の239年を起点にさかのぼった。

3) 辛酉革命説によって、辛酉の年に初代神武天皇が即位したと考え、紀元前641年に最も近い660年の辛酉の年を神武天皇の即位年とした。

ということになる。しかし、この書記編纂者の判断は大きな誤りである。古代天皇の治世(在位期間)の大きな水増しがあると見える。具体的には神武天皇から仁徳天皇までの天皇に対して「天皇一世60年(天皇一代の治世60年)」で対処し(上記の③)、初代神武天皇の即位年を紀元前六百数十年と(推定)し、最後に「辛酉革命説」にもとづいて、その紀元前六百数十年に一番近い「辛酉年=紀元前660年」を神武の即位年と決定した。

 しかし、現在の私たちから見て、その“推定”は的はずれであると言わざるをえない。第21代雄略天皇の即位年は、有名な稲荷山古墳“辛亥銘の鉄刀”の辛亥年、つまり471年の辛亥年(八白土星の年)であると私は考えている(*注2)。 雄略と初代の神武天皇との代の差は20であるから、「平均在位年10年」で神武の即位年を計算すると、

   20(代)x10(年)=200(年)   471-200=271(年) ・・・①

となる。この計算によると、神武の即位年は271年(ころ)となる。

この271年をさらに検討しよう。

安本美典氏は『新版・卑弥呼の謎』(1988年 講談社刊)の90~92頁の中で、中国、朝鮮、西洋の王の平均在位年数を求め、1~4世紀の世界の王の平均在位年数の10年を導き出した。安本氏は、『東洋史辞典』(東京創元社刊、京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末の「中国歴代世系表」から、1~4世紀の中国の王の平均在位年数を、

 *10.04年 (65王のべ965年)

西洋の王の1~4世紀の平均在位年数を、『西洋史辞典』(東京創元社刊、京都大学文学部西洋史研究室編)の巻末の「各国元首表」から、

 *9.04年 (96王のべ615年)、

という数値をはじきだした。古代王の平均在位年数は約10年を裏づける数字である。さて、安本氏は、5~8世紀の日本の天皇の在位年数が10.88年であることから、1~4世紀の日本の天皇の平均在位年数を誤差の幅をつけて、8.84年11.26年とし、端数をとって、9年から11年とし、まずは10年とされる。

  さらに、安本氏は『新版・卑弥呼の謎』の178頁において、「私は、神武天皇が存在したばあい、その活躍の時代は、おそらく、280~300年ごろであろうと考えている。それは、次のような理由にもとづく。

⑴ 天皇の平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれ、短くなる傾向が認められる。3世紀末から4世紀ごろの天皇の平均在位年数は、9年ていどではないかと思われる。

⑵ 『古事記』の記事をみると、応神、仁徳、崇神など、比較的在位期間が長かったのではないかと思われる天皇については記事の量が多い。逆に、在位期間が短かったのではないかと思われる天皇については、記事の量が、すくないようである。各天皇のうち、もっとも記事の量が多いのは、応神天皇で、3470字が費やされている。

 これに対して、第2代綏靖天皇以下8帝の記事には、すべてを合計しても、1805字が費やされているにすぎない。応神天皇一代の記事の量におよばない。帝紀的記事のみしか記されていない綏靖天皇以下の八帝は、実在したとしても、その期間は、比較的短かったのではなかろうか。8帝で、50~70年ていどではなかろうかと思われる。」と述べている。

  安本美典氏の考えにそって、当時の(初代から第20代の)天皇の平均在位年を9年とすると、

  20(代)x9(年)=180(年) 471-180=291(年)・・・② (471年は雄略の即位年とする)

となる。つまり、神武天皇は291年(ころ)に即位した、ということになる。

  さて、ここで「辛亥革命説」を持ち出したい。「291年」は「辛亥年」であり、しかも「八白土星年」である。辛亥年に革命が起こりやすい、辛亥年と八白土星年が重なると“革命が激化”し、大革命となりやすい、という「辛亥革命説」(*注3)にしたがえば、この291年はまさに大革命の起こる年である。神武天皇が九州から東征し、大和を征服し服属させ、その覇権を確立した年、「大革命」にふさわしい年と言える。

ただ、大和の征服、支配権の確立は短期間でなされるものではなく、その前の(東征を含めた)征服戦争、勝利の確定(神武の即位年)、その後の支配権の確立、強化を含めて、前後数年間も革命の期間と考える必要がある。つまり、291年が革命の中心年(神武の即位年)としても、その前後数年間は革命の期間とするのが通常の考え方であろう。つまり、

  286年~296年

が広い意味での「辛亥革命」の期間ということになる。

  中国に起こった「文化大革命」を思い出してほしい。革命は1971年(辛亥年)の林彪によるクーデター未遂事件をピークに、1966年に始まり1976年にほぼ終息した。

   1966年~1976年

という期間である。“大革命(=大混乱)”は始まりから終息まで10年くらい要することもあるということである。

 記紀は初代の神武天皇から第十代の崇神天皇まですべて父子継承としているが、安本氏が指摘するように、兄弟継承を父子継承としているばあいもかなりあるように思われる。兄弟継承のばあいは在位年数が短くなる傾向があるし、兄弟継承・父子継承に関係なく、上代になるほど在位期間は短くなる傾向もあるので、3世紀末から4世紀にかけての「平均在位年数」は10年よりも9年のほうが実態に近いように私自身も考える。安本氏の「初期天皇の平均在年数は約九年」という考えにそって導きだした「291年」は、私の提唱する「辛亥革命説」にピタリと重なるということである。ピンポイントに291年といっているけれども、その前後数年の誤差(幅)があることを念頭においていないわけではない。

****************************

 

(*注1) 「古代天皇の一代の治世は平均10年」とする安本年代論は、安本氏の地道な日本と世界の古代王の治世(在位期間)の研究の成果と考えられる。これを認めると、日本の成立(神武天皇の即位)が3世紀の後半になり、もっと古い時代に日本の成立をもっていきたい人々にとっては断じて容認できない説になる。が、この安本年代論を支持する人も多数いる。

  私が安本年代論を重視して日本古代史の研究をすすめていた1980年代、1990年代には気づかなかったことであるが、印度哲学研究者であり曹洞宗僧侶であり東京大学教授の経歴を有する宇井伯寿氏(1882-1963)が仏滅年代を研究した時に、安本年代論と同様の考え方で釈尊の生没年をはじき出していることを知った。彼は、『印度哲学研究第二』の「仏滅年代論」中で、「アショーカ王当時のセイロン王デーヴィナムビヤテッサの即位年の前247年から、紀元544年にいたる72代の王の平均在位年数は約11年にすぎないのに、仏滅からアショーカ王までの期間にセイロンに在位した5人の王(ヴィジャ王~ムタシーヴ王)の合計の在位年数が218年(一代平均在年数43.6年)は異常で信用できない」として仏滅年代を“平均在位年数11年”をもとにして算出し、釈尊の生年を紀元前466年、没年を紀元前386年とした。仏滅年代に関しては私もこの宇井説がほぼ正しいと考えている。

 安本年代論は日本古代史を解明する大きな武器であるが、彼の考えに先行する宇井白寿年代説(仏滅年代に関して)が大正時代にすでに存在していたということである。

 安本年代論は古代史における天皇の年代の確定に最高の武器になるものであるが、これを無視しようとする勢力の力も大きいように見える。また、宇井白寿説(ほぼ、同様の中村元説)も、釈尊の生没年をほぼ正しくとらえたものであるのに、日本の仏教界も、世界の仏教界もその周りの研究者も認めようとはしていないように見える。残念なことである。

 

(*注2) 471年の辛亥年に“辛亥の変”を起こし、兄弟と従兄弟を皆殺しにして天皇位についたのが雄略天皇であると私は考えている。この考えは私のブログ「雄略天皇のクーデターと辛亥銘鉄刀の銘文の訓み誤り」(https://blog.goo.ne.jp/151144itnagai/e/80b44220dee6360643198bba77274688)に詳述。また、『東アジアの古代文化76号』(大和書房 1993年)所収の拙論「辛亥の変とワカタケル」および、季刊『邪馬台国67号』(梓書院刊 1999年)に再掲載された同名の論文の中で「辛亥の変」と雄略天皇の関係を論じている。これを高く評価してくれる人もいるが、なかなか一般の人々には浸透していかないのは残念なことである。この「471年」が日本古代史の定点となれば、闇につつまれた4世紀と5世紀前半年代の謎を解く一つの大きなカギになるだろう。

 

(*注3) 「辛亥革命説」は、私が日本の奈良・平安時代に存在し、大きな影響力を持っていた「辛酉革命説」に対して、この考え方の「辛酉年」を否定し、この考え方を異なる干支、つまり、「辛亥」に当てはめたものである。

  私の「辛亥革命説」の根幹を簡単にまとめると、

辛亥年に「大事件」、つまり、大きな革命(戦争)、政変、クーデターなどが起こりやすい。

②辛亥年を基点に1260年(一蔀)(*注*+)ごとに大事件が起こりやすい。つぎに、「1260±60」年および「1260±180」年も大事件の起こりやすい年として考慮する。

③辛亥年と八白土星年が重なると「大事件」の度合いが激化する。

ということになる。③の「八白土星年」と革命年の関係は辛酉革命説にはないもので私の新たな付加であり、その意味では新説である。「1260±180」年も私の新たな付加である。

 「辛亥革命説」は占星術の一種であり、“星の動き(十干十二支、九星、二十八宿、七曜など)”に基づいて、個人や国の運命を推測する。推測統計学の一種と考えてよい。かなり“大雑把な=占術者のインスピレーションも必要とする”推測統計学と言える。

 現在の推測統計学無作為抽出された部分集団(抽出集団、標本集団)から抽出元全体(母集団)の特徴、性質を推定する統計学の分野を言う。が、現実問題として“無作為抽出” することは不可能である。抽出した固定電話からの回答、携帯電話からの回答、ネットを利用した回答などはその時点で“無作為抽出された”という推測統計学の原則からはずれている。つまり、固定電話を有する層、携帯電話(スマホ)を有する層、ネットでアンケートに答える層など、その各層がすでに“無作為抽出された”という原則からズレており、推測統計学が正常に機能する条件を逸脱している。私などは政治に対して強い関心を持っているが、マスコミの電話などによる政党などの支持率調査に応じず、意識的に拒否している。嘘か、嘘に近い報道を平気でするマスコミに答える義務はない、と思っている。そして、マスコミの調査はこの回答拒否者の処理が適切にできていないため、昨年10月末の衆院選で出口調査を含めた各党の当選者数の予測数をNHKをはじめ各社が大きくはずしたのである(出口調査では回答者が嘘をつく可能性を考慮していないし、その調査に応じず拒否したものの数もおそらく調査の分母からはずしている)

 現在のマスコミやその周辺の調査機関やそれを支える統計学の専門家のレベルが、“時代の変化”に対応できていないと私は考えている。そうではなく、わざと実態とはズレた統計数字を出しているとしたら、マスコミはますます国民の支持を失い、購読者数をさらに減らしていくことになる。 

(*注*) 書紀は、神功皇后を『魏志』の倭の女王(卑弥呼)と比定したが、これを深く追求することは避けているのかもしれない。書紀は魏が倭を朝貢国と見ている事実にあまり詳しく立ち入りたくなかったのか、それとも「卑弥呼」に対して深く立ち入りたくなかったのか?当時の書記編纂者は「卑弥呼」という用字を簡単に「ヒミコ」と読めたはずである。そして、当時の書紀編纂所には天照大御神に対して「日孁(大日孁貴)」という用字が使われている史料あったと思われ、この「日孁」は「ヒルメ」と読んでいるのであるが、むしろ、「ヒミコ」と読むことができると私は考えている。次のブログは「卑弥呼と大日孁貴」という題で卑弥呼と天照大御神の関係を考えてみたい。 (2022年5月19日記)

(*注*+) “1260年(一蔀)”がなぜ辛酉革命説で重要視されているのかは、占星学的知識があれば容易に理解できることである。占星術には九星(9)を利用したもの、十干十二支(10と12)によるもの、二十八宿(28)によるもの、七曜(7)によるものなどがある。年月日をこれらによって関連付けて未来を予測するのであるが、逆に記録に残っていない過去の出来事も推定できることになる。1260という数字は、9と10と12と28と7の最小公倍数になる。つまり、ある年の占星術的“星”の配置は、その年の1260年前の星の配置と“同じ”になる、ということで“1260”という数字が用いられていると考えられる。1260±60の年の場合は十干十二支が一致し、±180の場合は十干十二支に加えて九星も一致するということである。±60は辛酉革命説では異説などの形で出てくる。±180は私(永井)の付加(創案)である。  (2022年5月30日追記)

 



2 コメント

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とてもおもしろいです (小平次)
2022-05-19 18:06:15
こんにちは!

とても面白く興味深く拝読させて頂きました

大平裕さんと言う方が提唱する、書記の応神天皇紀と百済本記にある複数の事件との年代一致から、安本さんの説、崩年干支などを合わせ、神武天皇のご即位は西暦で言う所の250年、という説も私には説得力があると思え、面白いです

前回の記事の古代人の寿命についても共感させて頂いております

ありがとうございました
平均在位年数の件 (ブログ作成者(永井))
2022-05-20 13:49:11
**小平次さん、コメントありがとうございます。
  大平裕氏の著書については知りませんでした。最近は悪逆非道の日本周辺国(中韓北露米)に対してツイッター等で反撃するのに時間をとられていて古代史関係はお留守になっていました。
 日本古代史の解明は私の(個人的な)ライフワークなので、今後これにも力を入れていきたいと思っています。
 神武天皇の即位が250年(ころ)というのは、私のブログで用いた“雄略天皇の即位年471年”と安本美典氏の古代天皇の在位年数9年~11年という考えの最大の「11年」の方を採用すれば、
 471年-11年X20代=251年
というように、251という数字が出てきます。
 卑弥呼(天照大御神)と神武天皇の年齢差も考えると、240年代に亡くなった卑弥呼と、250年に神武天皇が即位したというのは期間が短すぎるような気がします。
 とにかく、大平裕氏の本を読まないで批判するのはよくないので、その本を読んでみたいと思います。

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