なぜ日本にテロや宗教紛争が(ほぼ)ないのか 2
永井津記夫
前回のブログ「なぜ日本にテロや宗教紛争が(ほぼ)ないのか」で、私はその理由を三つ挙げた。そのことをここで再度取りあげて検討してみたい。日本がその国家体制をととのえていくなかで世界に先がけて三つの難事業を達成したと私は考えている。
① 日本は“神仏習合”の国である。
6世紀末の587年に用明天皇が没した後、仏教をめぐって争っていた物部守屋(廃[排]仏派=敬神派)と蘇我馬子(嵩仏派)の間で、皇位継承も絡んで戦いとなり、蘇我馬子側が勝利を収め、以後、仏教が神道勢力に排除されることがなくなり、仏教と神道の習合がすすんでいくこととなった。この戦争を私は日本における“第一次宗教戦争”と呼んでいる。この段階で、日本は根本的な宗教戦争を終えたと言えるのである。16世紀、17世紀のヨーロッパ諸国のような血みどろの宗教戦争にならなかったのは、日本が“多神教”の国であったからである。仏教の仏を“蕃神=異国から来た神”と捉えることができ、時の経過とともに容認できたからであろう(注1)。
②日本は完全な“政教分離”の国である。
英語では政教分離は“separation of church and state”や“separation of government and religion”という表現をするが、動詞のseparate(分離する)はfromという前置詞をとるので、“separation of state from church” や“separation of government from religion”としてもよい(密接に関連する二語を近接して用いるとき、冠詞やその相当語句を省略することがよくある。cf. from morning till night; town and country)。
米国の政教分離は基本的にいかなるキリスト教教会(=キリスト教宗派)からも分離しているということで、“separation of government from any church(政治のいかなる[キリスト教]宗派からも分離していること)”というように理解できる。が、これはキリスト教とは無関係ということではなく、特定のキリスト教の宗派に肩入れをしないと言う意味と考えられる。
米国では「忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)」が移民の国の国民の間の団結を強めるために1892年から公立学校で唱和されるようになり、1954年から“under God”の語句が追加された。これは米国が太平洋戦争後、朝鮮戦争を経て共産国ソ連との“冷戦”が激化し、“神を排除する”共産主義国家ソ連への対抗上、“神の座います”国を強調するために“under God”をことさら付け加えたと思われる。
"I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all."
私は忠誠を誓う。アメリカ合衆国の国旗とその国旗が表す共和国に。神の下もとなる一つの国、不可分であり全ての人に自由と正義がある国に。
これを見ると米国は“God([キリスト教の]神)”から分離していないことが分かる。米国は “separation of government from any church(政治がいかなる教会からの分離していること)”かもしれないが、神の下にある国なので “separation of government from any religion(政治がいかなる宗教からも分離していること)”とは言えないように思われる。もちろん、「信教の自由」は憲法で認められているので、キリスト教ではない宗教を信じることも、無宗教であることも法律上は排除されることはないのであるが、白人キリスト教徒たちの集団が先住民のネイティブアメリカンを殺害・駆逐して建国した歴史を勘案すると、キリスト教が大きな影響を及ぼしている国家であることは否定できない。というより、強い宗教心を持った人たち、または、その強い宗教心を核にして(利用して)国をまとめようとする人たちが政治の中心にいる国と言えそうである。
ヨーロッパでは16世紀前半の中頃から17世紀中頃までキリスト教においてルターの宗教改革を契機にプロテスタント(新教)とカトリック(旧教)の間で、またその二者が絡むかたちで激しい宗教戦争が起こった。ドイツ農民戦争(1524-1525)、シュマルカリデン戦争(1546-1547)、ユグノー戦争(1562-1598)、八十年戦争(1548-1648)、三十年戦争(1618-1648)、清教徒革命(1641-1649)などの激しい宗教戦争がヨーロッパ各地で起こった。当時、ヨーロッパでは宗教(教会)と政治(国王や領主)は不可分とも言えるほど深く結びついており、政教不可分の形態が戦争を引き起こし激化させており、このような戦争に対する反省からヨーロッパ諸国が政教分離する方向へ歩み出したと言えるだろう。
しかし、日本ではすでに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって、17世紀初頭までに完全な“政教分離”の政治体制、“信教の自由”が確立されていた(なぜ、秀吉が最初は認めていたキリスト教を禁止し、家康も禁止したのかはあとで説明する。手短に言えば、当時のキリスト教は“人種差別的”でキリスト教以外の宗教には排他的というより戦闘的であり、危険な“宗教”になっていたからである)。日本人は完全な“政教分離”政権が信長、秀吉、家康によって日本で世界に先がけて達成されたことを誇りとしてよい。が、それを指摘する人もいないし、主張する人はましていない。1730年に江戸幕府が、大阪堂島に世界初の米の先物取引所を開設したが、これも、世界初であることをなかなか認識できなかった。日本人はとかく自己卑下の傾向を持ち、身内のことをけなしがちであるが、この傾向が日本人の中の優れた日本人を認めようとせず、その人がノーベル賞を取ってはじめてその人の業績を認めるというようなことも起こりえる(注2 )。そして、この傾向が歴史認識に及ぶと世界から誤解をされることになりかねない。“誇大妄想史観”も御免こうむりたいが、“自虐史観”もやめてほしい。
秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止し、さらに、スペイン人宣教師4名、メキシコ人1名、ポルトガル人1名と20名の日本人キリシタンを処刑(注3)したのには相当の理由がある。まず第一に、日本にポルトガル商船に乗ってやってくる商人が日本人(主として女性)を奴隷として買い取り、欧州で売っていたこと、つまり、日本人の奴隷売買(注4)を行っていたからである。第二に、スペインやポルトガルが宣教師を送り込んだ国が植民地にされたことを知ったからである。また、宣教師たちの布教の結果、キリスト教に改宗した大名の中に、寺社を打ち壊すものも出てきたことである。キリシタン大名の大村純忠は領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害したとされている。日本の神仏習合の伝統や政権がどの宗派にも布教や信教の自由を認めるという日本の伝統を破壊する“キリシタン大名”が出てきたのである。純忠は長崎港と周辺の地区をイエスズ会に寄進をして、日本の領土が一時、ローマ教皇領になっていた。彼はキリスト教という一神教(を利用する国の宣教師)の影響をもろに受けて“排仏”、“排神”という過激な行動をとったのだ。このような動きを封じるために秀吉はバテレン追放令とキリスト教の布教を禁じたのである。キリスト教自体が奴隷売買を認めているということではなく、キリスト教を奉じる国から来る商人たち(宣教師も含めて)が奴隷売買を当然の商売として行なっていたのである。当時の“奴隷売買”やキリシタン大名の所業については日本史の教科書などには出てこない。「悪行」は悪行として教科書にも明記したほうがよい。なぜ、日本でキリスト教が広がらなかったのか、秀吉や家康という為政者から忌避され弾圧されたのか、日本は日本人にも欧米人にももっと明確に示すべきである (これは、キリスト教自体が悪いとか間違っているということではなく、当時のキリスト教を奉じる宣教師や商人が現在の基準に照らして(当時の日本の基準に照らしても)間違っているということである)。
③日本は“刀狩り”が完全に行なわれ、軍隊(自衛隊)と警察を除いて国民全員が武器(殺傷兵器)を持たない国であり、全国民がそれを当然のことと考えている。
そして、これを、16世紀末に世界で初めて成し遂げた国である。
米国は、民衆が原住民(アメリカンネイティブ)を殺戮、駆逐するため使用した銃器、英国からの独立戦争に使用した銃器、南北戦争で使用した銃器をいまだ放棄できず、国としても民衆の武装解除する法を整備することもできず、銃器が民衆の間に蔓延している国である。私から見れば、実に“野蛮な”国である。殺人事件や個人テロによる大量の市民虐殺が起こるのも当然である。日本より400年後れた“野蛮国”であると言わないわけにはいかない。
もちろん、米国には素晴らしい点もたくさんあることは言うまでもない。私が銃器に関して米国を非難するのは、米国人自身に銃器に関して米国が非常な後進国である、という認識がないからである。“恐ろしい”原住民をやっつけるには銃が必要だ、重税を課し迫害をする本国から独立するには民衆が銃を取って戦わねばならない、南北戦争を勝ち抜くには銃を持って戦うしかない、というような“銃器がぜったい必要だ”という意識が米国人の多数の人たちの深層意識に染みついているのである。これが米国人が銃器を手放さない(手放せない)理由である。
日本でも戦国時代、農民は“半”武装集団であった。というより、武士階級は武装農民から出てきたのである。小説家の司馬遼太郎は「鎌倉幕府の誕生は、武士という名の“開拓農民”の集団の政権が誕生したことを意味しており、それまでの天皇を中心とした貴族政治から武装農民(武士)に政権がわたった大革命であった」と述べている。つまり、日本の農民(=一般民衆)も六百年、七百年前には武装をしなければならない状況が存在したが、秀吉が刀狩りを敢行し、家康もその成果を受け継ぎ、日本では農民(一般民衆)が武器を所有しない状況が生まれたのである。
現在の米国人の銃器にこだわる意識は、七百年前の日本の農民の意識、「いつ野盗が襲ってくるかもしれないからいつでも戦えるように武器を用意しておかなければ」という意識と大して異ならない。私に言わせれば、米国は銃などの武器を一般人が持たないようにすることに関しては、日本より数百年後れているのだ。
日本は今から四百年前に国民に銃などを持つ必要がない状況をつくり出している国、安全を提供している国であるが、米国はそのような安全を現在も提供することができない国である。
国連などが、男女平等度の世界の国のランキングなどとして、数値を出しており、日本はかなり低い位置にいるが、上の①、②、③の三つで世界の国の政治的習熟度と国の安全度のランキングを出したらどうか。①については、仏教が国の中に浸透していない(仏教徒の比率が全国民の10%以下)国は、100点満点で50点減点などにする(これには非仏教国は異論があるだろう)。②に関しても、キリスト教◇◇党などの宗教名を冠した政党が与党または与党の一部を形成しているような国は20点減点にする。③では、米国のように銃を持つことが国民の権利になっているような国は100点の減点というように採点する。私がここに出した基準(適当に述べているので基準というようなものではない)は非常に恣意的だとして大きな非難を受けるかもしれないが、どこに基準を置くかによって、国の評価はちがってくる。欧米の基準はその歴史の所産であり、いちおう合理的に見えているが果たして世界の国々の人々が幸せにくらしていく最高の基準と言えるのか、よく考えてみる必要がある。①、②、③を基準にして三百点満点で世界の国々の政治的、宗教的習熟度を出してみるとよい。今、ここで私が出してみてもよいが、欧米諸国など日本に較べてかなり低い点数になりそうであるが、どうだろうか。
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(注1) 旧約聖書のモーゼの十戒において「主が唯一の神である」とあり、これをうけてキリスト教における神が「吾のみが神であり、吾以外に神はいない」と宣言していることになる。「吾が最高の神である」と宣言するなら、自分よりも低いけれども他の神の存在を認めていることになるのであるが、“唯一の神”なら他の神は存在することが許されない。これがキリスト教などの一神教の最大の特徴であり、私に言わせれば「最大の欠点」になってくるのである。ここから、他の神を信じる異教徒は排除してもよいし、殺してもいいし、奴隷にしてもよいという“不完全な人間がつくり出す”考えが出てくる。16世紀にスペインとポルトガルは南米で何をしたのか。北米に渡ったキリスト教徒は原住民に何をしたのか。キリスト教の歴史は異教徒に対する虐殺の歴史だと言ったら言い過ぎになるだろうか。
成道後、布教に乗り出した釈迦はウパカの問いかけに「われは一切にうち勝った者、一切を知る者である。…神々を含めた世界の中で(=人間界と天上界において)自分に勝るものは存在しない」というように答えている。“自分が最高の存在である”と宣言しているが、「神々」の存在を否定してはいない。これが仏教と一神教の大きな相違点であり、ここから両者の異教徒の神々に対する対応が出てくるのである。仏教は神々の存在を認める。一神教は他の神々の存在を認めない。一神教の神が地方の神としてとどまっているうちはそれほど問題はないが、“インターナショナルな神”に昇格すると大きな問題を起こす可能性があり、現に歴史的に大問題を起こしてきたのである。
(注2) 自然科学の分野で、白川英樹氏が2000年に電気を通すプラスチックの発明でノーベル化学賞を受賞した。そうすると、翌年、日本化学会が特別賞を授与しようとしたが白川氏は受賞を辞退(拒否)した。これは、それまで日本化学会が白川氏の業績を評価せず、賞を与えなかったのに、ノーベル賞を取ったとたんに賞を与えようとしたためであろう。私も白川英樹氏の業績については、ノーベル賞を受賞するまでまったく知らなかった。私は化学の世界にはいない素人であるから、白川氏の大業績(ノーベル賞に値するような)を知らないのは当然であるし、評価できなかったことはゆるされる。しかし、化学の世界に身をおいている人たち、すくなくとも、日本化学会の賞の選考委員などは白川氏の業績を知っていたはずであるが、賞を与えなかったということは、その業績を過小評価または無視していたということであろう。当時の委員はそのような事態をまねいたことを恥じるべきであろう。日本人で然るべき地位にいる人が評価すべき日本人を評価しないということが希ではなくある。そして、外国から賞が与えられるとはじめて評価するということがある。嫉妬心がからんでいると思われるが恥ずかしいことである。
(注3) 江戸から明治になる直前の1868年3月に「堺事件」が起こった。当時、江戸幕府の大坂町奉行所は治安機能を失っており、住民の苦情をうけた土佐藩兵がフランス人水兵が堺市内を歩き回るのを止めさせようとしたが従わず反抗したため11名のフランス人水兵を殺害した。これに対応した明治維新政府は賠償金と20名の関係土佐藩兵を処刑(切腹)することで和解し、最終的には11名が切腹したところで、残りの9名は助命された。
豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、スペイン人宣教師4名、ポルトガル宣教師1名、メキシコ人宣教師1名を含む20名の日本人キリスト教徒を処刑したが、スペインもポルトガルも秀吉の政権に抗議はしたがそれ以外に何もできず、秀吉の命令に従わざるを得なかった。当時、英国が台頭しスペインと海洋帝国の覇権をかけて争っていたが、秀吉の“蛮行(スペイン側から見た)”に対して大国のスペインが対応することができなかったのは、日本の軍事力に対抗する海軍力と兵力がなかったためである。徳川家康の後を継いだ秀忠の行なった宣教師を含むキリシタンの処刑(京都の大殉教、元和の大殉教)に対してもスペインもポルトガルも何もできなかった。この点についても日本人(歴史家)は日本の軍事力をきちんと理解していないように思われるし、当然のごとく歴史教科書にも説明がない。
幕末に江戸幕府が英米仏に対して弱腰だったのは、海軍力(蒸気船と高性能の大砲)と銃器の性能などにおいて、日本側と外国諸国との間に大きな差が生じていたためである。この部分でも歴史教科書も専門家もきちんとした理由を示していない。秀吉、家康の時代には日本と西洋諸国との間に軍事力の差はなかった、というよりも日本が上回っていたが幕末には逆転していたのだ。(ただし、欧米列強が幕末に日本を植民地にできなかったのは、偶然そのようになったのではない。もし、幕末の日本を軍事的に完全に制圧しようとしたら、百万人を超えるような兵力を日本まで輸送し、膨大な数の銃器も必要となる。日本は山国であり、武士に山岳地帯を中心にゲリラ闘争を展開されたら、日本にも鉄砲は多数あり、制圧は困難である。また、当時の欧米に百万の兵員を日本に送り込む軍事輸送力はない。軍事的視点から当時の欧米に日本を植民地にするのは不可能だったのである。歴史家も含め、現在の日本人に最も欠けているのは“軍事戦略論的思考”である。) ※※私がコメントを投稿したユーチューブの動画が削除されていた。“【衝撃】列強国が日本を植民地にできなかった理由がとんで..." この動画に関連付けられていた YouTube アカウントは、著作権侵害に関する第三者通報が複数寄せられたため削除されました”との表示があり動画が削除されており、当然、私のコメントも見ることはできなかった。「いいね」が十数個ついていただけに残念である。私のコメントの内容は「軍事武装鎖国」と軍事戦略的に当時の列強が日本を植民地にすることは不可能だった、とするものであった。他のユーチューブ動画に対する私のコメントもその後三件ほど削除され、まさか、私をねらい打ちにしたのではないだろうがいったいどうなっているのかと思う (この小字の部分、2019年3月21日追加)。
(注4) イエズス会の司祭のコエリュは豊臣秀吉の“なぜ日本人の奴隷売買をするのか”という詰問に対して日本人が娘や子供を売るからであり、領主たちもそれを認めているからであると答えて秀吉を激怒させ、これがバテレン追放令とその後の宣教師たちを含むキリシタンの処刑につながったと言ってもよい。日本の仏教も神道も奴隷売買をけっして容認などしないからである。
※「反日」という言葉が政治にからんでよく登場する。私は「反日」には基本的に二つの立場があると考えている。
*反日本政府(の政策)…日本政府の政策に反対すること。政府が大多数の日本国民の利益に反することをするなら徹底的に批判する必要がある。しかし、政府の政策が大多数の国民の利益に適うなら「反日本政府」は誤りの行動と言える。いずれにせよ、略して「反政」とする。例えば、「反政新聞」「反政文化人」などである。
*反日本国民(の大多数の利益)…諸外国の利益を大きく損ね、世界に害を与えないかぎり“大多数の日本国民の利益”は最大限尊重されねばならない。略して「反民」とする。例えば、「反民組織」「反民評論家」「反民◇◇省」「反民経済学者」などである。
「反日」に対して「親日」という言葉がよく使われる。外国が日本に対する場合には「親日」でよいが、日本人や日本の組織に対して日本人が使うばあい、私は「与日」という言葉を使いたい。“与=与くみする=味方をする”という意味である。
*与日本政府(の政策)→与政
*与日本国民(の大多数の利益)→与民
たとえば、「与政評論家」「与民ジャーナリスト」のように使う。
新聞やテレビや評論家を分類するとき、「反政」「反民」「与政」「与民」と分けると比較的うまく行くように思う。
「反米(国)」「反中(国)」に対して、「与米」「与中」という言葉も使える。「与米政治家」「与米官僚」「与米経済学者」、「与中政治家」「与中官僚」などである。いずれも、少なからぬ数が日本の中枢やマスコミに生息しているのではないかと私は心配している。「与米」「与中」は「与民」の範囲にとどまっていればよいが、適当な理由をつけて、または相手国に取り込まれて「反民」になる可能性がかなりある。米国、中国を日本のために“利用しようとする”のはいいのだが、相手もバカではない。与米、与中から「反民(反日本国民)」にならないようにしなければならない。
前回のブログで私の考える“保守”を定義したが、私の立場は、「与民」である。 (2017年11月18日追加修正)