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徳川幕府の「武装鎖国」

2020-12-25 23:42:59 | 歴史と政治

    

徳川幕府の「武装鎖国」

名付けること(命名)によって生まれる新認識

言葉を新たに付けないと理解、継承されない事実(事象)がある。

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

 この世の中の事象は無数に存在し、それに対して整理・整頓し、名称を与えて区別することが“分かる(=分ける)”ということであり、学問の始まりである。無数に近く存在する動植物も命名、分類することによって、その性質・傾向がよく分かるようになる。つまり、命名・分類はあらゆる学問を進める基本、出発点である

 が、適切な分類(分けること)と分類に対しての正しい考え(=哲理)を持たないと大きな誤りを犯しかねない。新型コロナウィルスが大きな問題となっているが、ウィルスは生物と無生物の境界にある存在で、従来の分類では細胞膜を有しないので生物に属さないが(他の生物の体内で)自己増殖するという点で生物としての特徴も持っている。つまり、AかBかに分類することはAとBの中間の存在をうまく説明できないか、その存在を認めることを放棄したり無視したりすることに通じ、学問上の妨げになることも稀ではない。

 たとえば、大人と子供をどのように分けるか。今は通常、年齢で分ける。江戸時代には(武家の)男子は15歳で元服(成人)していた。戦国時代には13歳から16歳で元服した。現在の日本では法律的には一応、20歳で成人とされる。生物学的に人間は男(オス)と女(メス)に分類されるのだが、男と女の両方の特徴を持っている人たちがおり、精神的にも自分が女であると意識する男がおり、自分が男であると意識する女もいる。

 このように、分類することは境界線上にいる存在をどのように考えるのかの理論(哲学)(注1)が必要になってくる。と同時に、人間に関することでは、この分け方、考え方に片寄りがあると、差別や怨念の巣になりかねない。

  善と悪という分類法がある。これに人間がからむと、善人と悪人という分類、二元的分類となる。どこからどこまでが善でどこからどこまでが悪か。善悪で分けきれない様々な事象がある。善人と悪人を分けるのも非常に難しい場合がある。時代劇でもどこから見ても悪人であるが、瀕死の子供の命を救う行為をする者が登場する。善人と悪人の二分法は分かりやすいが、正確に人間をとらえ切れていない場合もある。

  さて、“分類”して新しい概念、領域を創り出すことがいかに難しいかを理解して、ここに私が切り開いた(と考えている)新しい概念(命名)を出したい。

  それは、江戸時代の鎖国制度は「(圧倒的な軍事力による)武装鎖国ということである。江戸時代の鎖国制度に対して「武装鎖国」と命名したことである。ユーチューブなどの動画では「不思議の国・日本 世界で唯一欧米列強の植民地にならなかった国」というようなタイトルで戦国時代から江戸時代にかけて日本が欧米の植民地にならなかったのは“奇跡”であるかのように説明する。が、これは当時の状況に対する認識不足である。日本は当時、世界最強クラスの軍事大国であったのだ。

 スペインやポルトガルが日本の軍事力を前に、植民地にすることが不可能であることを理解していたのである。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出した後の1592年に宣教師6名(スペイン人4名、ポルトガル人1名、メキシコ人1名)を含む26名を処刑した。また、徳川家康もキリスト教に対する不信感から禁教に舵を切り、息子の秀忠は1622年に十数名のスペイン人やポルトガル人を含むキリスト教徒55名を処刑した(元和の大殉教)。これに対してスペインやポルトガルは日本に対して何の制裁もできなかった。当時、スペインは衰退しつつあったがまだ世界最強クラスの軍事力(海軍力)を誇る大国であった。が、日本の武力(軍事力)の前に何もできなかったのだ

 織田信長は全国の統一の完成を前にして本能寺の変で自害するが、その頃には日本の軍事力は恐らく世界最高水準に達していた。そして、秀吉を経て家康の時代には世界のどの国も日本を武力で脅すことはできなかったのだ。これが、日本が植民地にされなかった理由である。つまり、江戸幕府の“鎖国政策”は“(世界最強の軍事力による)武装鎖国なのである。

  幕末に米国から“黒船”に乗ったペリーが来て開国を迫ったが、この時、蒸気船と高性能の大砲によって武器を中心にした軍事力では米国(英、仏も)が日本より勝っていたが、当時の欧米の海軍の輸送力では100万人を超えるような兵力を日本に送り込むことは不可能で、たとえ上陸して海岸線付近を中心に一定の地域を占領できても、起伏に富んだ(山が多い)地形を活用し、銃も武器(刀剣、槍)も有する日本の武士団に駆逐されるだろう。これが、英米仏が幕末前後にも日本を植民地にできなかった理由である。

  「武装鎖国」という言葉とその意味するところは私が1999年に『季刊邪馬台国69号』(梓書院刊)の「隅田八幡神社人物画像鏡と継体天皇」という小論(注1)の中で発表したものである。誌上発表は1999年であるが、その数年前にこの考えに至っていた。が、この「武装鎖国」という言葉も私の小論「隅田八幡神社人物画像鏡と継体天皇」もそれほど反響を呼び起こさなかったように思われる。

 が、私は2017年の後半からツイッターを始め、2018年の半ば頃からユーチューブも見始めた。1年ほど前のことであったと思うが、私がよく視聴している武田邦彦氏のユーチューブ動画(私はいくつかの武田氏の動画の中にコメントを残し、私のブログも示していた)の中で「インドネシア等の東南アジア諸国が英仏蘭などに植民地にされたのはイヤだと言っても武力がなかったのでその侵略を防ぐことができなかったが、日本は武力があったので植民地にされなかった。鎖国ができたのも日本に(強力な)武力があったからだ」という趣旨の講演をしておられた。

  日本の江戸時代の鎖国が“超強力な軍事力による「武装鎖国」”であるという考えから、他の植民地にされた国々には“強力な軍事力”がなかったことは容易に推察できる。

  今年(2020年)、NHKが制作した「NHKスペシャル 戦国―激動の世界と日本」というテレビ番組は、戦国時代(1467~1615年 *江戸時代初期も含む)の日本の対外政策について説明し、当時の日本の軍事力が鉄砲の性能を含めて、世界最強クラス(世界屈指の軍事力)であったとし、(1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えてから)日本で進化した高性能の鉄砲が当時のヨーロッパに輸出されていた、また、戦国時代に戦闘力を高めた日本兵が傭兵として海外で雇われて活躍したという新知見を伝えた。

 この番組が伝えていなかったことは、秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止した理由を、スペインがキリスト教の布教を通じて世界征服(日本の“軍事力を利用して”中国を征服)を企んでいることは言及していたが、宣教師たちを運んできたスペイン船の商人たちがキリシタン大名の容認の下、日本人を奴隷売買していたことに秀吉が激怒したことにはふれていない。キリスト教に対する遠慮(忖度)であろうが、歴史において外国や特定の組織に遠慮していては歴史の真実に到達することはできない。また、日本が世界最強級の軍事力(高性能の鉄砲と兵員動員力)を有していて日本を武力的に征服することは不可能である、ということにも言及していない。

 この番組はどの研究者が主導(監修)しているのか定かではないが、バチカンのイエズス会ローマ文書館の記録を紐解くことによって、戦国日本と当時の海洋大国ポルトガルやスペインとの密接な関係を掘り起こし、戦国日本の歴史に新たな視点を提供する優れた番組であるが、そのきっかけとなっている“(戦国時代の)日本が世界屈指の軍事力を持っていた”という考えをどこから導き出した(仕入れてきたのか)を明らかにしていない。もちろん、テレビ番組やユーチューブは論文ではないので厳密な引用(引用元)の明示は必要ではないのかもしれないが、完全な“新概念(新発見)”を提示する時は自分の考えであるのか、他者の考えであるのかは示す必要がある。また、この番組はキリスト教に遠慮して言うべきことを言わないが、NHKのニュース番組と同じこと(中国や韓国、北朝鮮などの日本周辺国の非道や不法行為には言及せず、それらの国の流してほしい映像は垂れ流す)を行なっていて残念に思う。

 “(無償の)愛”を説くキリスト教は立派な世界宗教であるが、その布教を担う組織は玉石混交の人間の組織である。人間は(神仏ではなく)時には大きな過ちも犯す。“奴隷売買”の容認は“奴隷制度”の容認と同じであり、これが当時のキリスト教教団(カトリック、プロテスタント)の最大の誤りであり、近代に入っての米国の汚点とも言うべき (南北戦争の原因となった) 奴隷制度にもつながっている。

 徳川幕府の鎖国政策を“戦国時代を通じて培った強力な軍事力による「武装鎖国」である”という概念を言葉で初めて示したのは私だと思うが、その言葉の“発明者”にはもう少し敬意を表してくれたらと思うのであるが、傲慢な考えであろうか。

 このNHKの番組は戦国時代を“日本が初めて世界とかかわった時代”と述べているが、これは古代の歴史に無知な者の発言か朝鮮半島の国々など外国ではない(日本の領土、または属国)という傲慢な考えに陥っているためであろうか。確かに、朝鮮半島の国々や中国大陸は西洋ではないが、当時の航海術から見ると世界(天下)であり、日本はすでにこの世界に恐らく紀元前から深くかかわり、4世紀後半から5世紀前半にかけて朝鮮半島北部の強国・高句麗と激しく戦っていた。高句麗の広開土王の碑文に「391年に倭の軍隊が海を渡って攻め寄せ百済と新羅を屈服させ、高句麗軍と交戦した」ことが記されている。これは“古代戦国時代”の覇者となった仲哀天皇・神功皇后政権の倭軍(日本軍)が統一の余勢を駆って朝鮮半島に攻め込んだものと思われる。この時代、日本は大きく“世界(=天下)”とかかわっていたと考えてよい。“古代戦国時代“は、15世紀半ばから17世紀初頭の戦国時代と類似する部分があり、そのクライマックスは朝鮮出兵であり、歴史の繰り返し(歴史の反復)現象という言葉で説明すべきもののように思われる。(さらに古い“戦国時代”は邪馬台国の女王卑弥呼が共立される前に起こった“倭国大乱”(注2)である。日本には三度の戦国時代があったと私は考えている。※幕末から明治維新までの混乱を“戦国時代”と見ることも不可能ではないし、これも入れれば日本に四度の戦国時代があったことになる。そして、維新前後の混乱(鳥羽伏見の戦い、西南戦争など)を収拾したあと朝鮮半島に進出して朝鮮を併合した。戦乱を経て朝鮮半島に出て行くのは三度繰り返された。”歴史は繰り返す“のだ。[この小字の部分、2021年1月5日追記、1月24日再追記])

  徳川幕府の鎖国政策が(戦国時代から続く)強力な軍事力による「武装鎖国」であるという考えが行き渡ってきたのは、それが歴史の事実(真実)の基づく正しい理解・認識であるからだ。この認識はなんとなく解明されてきたのではなく、「(強力な軍事力による)武装鎖国」という言葉がこの認識を生み出したものと私は考えている。

  新たな「命名」は“新発見”と言ってよいものであり、新たな世界の認識につながる。すでに、日本または世界でよく知られている学説や理論にいちいち提唱者の名前は挙げなくてもよいが、そうではない者の考え方(命名)を利用しながらその提唱者を無視し、あらたな説の展開を図るのはまともな研究者の態度ではない。 (※私の「(強力な軍事力による)“武装鎖国”」という考えが(武田氏やNHKの番組を通じて)広まるのは嬉しいことであり、感謝すべきことであると考えているが、“世界初(日本初)”の考えに対してその出処を示すことは必要なことであると思う。)

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(注1) 私が物事を考え分類したりするときに常に念頭に置いていることは、

    千島喜久男博士の“哲科学”の第8原理の⑤「凡ては連続的であり、限界は人為的である

という考えである。良性腫瘍(おでき)と悪性腫瘍(ガン)も厳然と二分できるものではなく、連続的であり、魚などがメスからオスにに変異するのもこの“連続性”から異様なことではないということが理解できる。

(注2)「倭国大乱」はいわゆる“銅剣銅矛文化圏”と“銅鐸文化圏”とのあいだの宗教戦争と考えてもよいのではないかと私は考えている。北九州のいくつかの遺跡(吉野ケ里など)から銅鐸とその鋳型が出土し、昔は近畿地方を中心とする銅鐸文化圏と北九州地方を中心とする銅剣銅矛文化圏の対立という主張が日本史の教科書から消えてしまったが、出土数の片寄りを考慮すればこれは文化圏の衝突、宗教文化圏の衝突と(古代は祭政一致であるから宗教的対立は同時に政治的対立でもある)考えられる。倭国大乱は、卑弥呼を(後に)擁する勢力とそうではない勢力の宗教戦争と考えたほうがよいのではないか、と思う。これが正しいとすると、日本での宗教戦争は、三度の戦国時代と絡んで起こったことになる。

  • 第1次戦国時代(*一回目の宗教戦争)・・・「倭国大乱」:桓霊の間;桓帝(146~167年)、霊帝(168~189年)で最大で53年間(146~189)となるが、常識的には中をとって150~180年の30年間の大乱ということになろうか。 
  • 第2次戦国時代・・・4世紀中頃(崇神天皇、大彦)~5世紀初頭(仲哀天皇、神功皇后) 
  •    *二回目の宗教戦争(597年) 崇仏派(蘇我氏)と廃仏敬神派(物部氏)との仏教導入をめぐる戦い
  • 第3次戦国時代(1467~1590年) 応仁の乱から秀吉による全国統一まで(戦国時代の終わりを大坂夏の陣の1615年までとする人もいる)。 *三回目の宗教戦争 この期間に天文法華の乱、石山合戦(信長と浄土真宗本願寺勢力との戦い)のような戦国大名と宗教武装勢力との凄惨な戦争が起こった。
  • 第4次戦国時代・・・幕末から明治維新後の西南戦争まで (これは戦国時代に入れない方がよいかもしれない) ※(注2)は1月31日追記

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※※ 以下は私のブログ「テロをいかにして根絶するか」の“注”に書いた文章である。

  1543年にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられてから、戦国時代ということもあって、あっというまに、鉄砲は日本中に広まり、その技術改良もすすみ、豊臣秀吉が天下を統一した1590年の時点では鉄砲の数はヨーロッパの全ての国の鉄砲の数の合計したものより多かった、つまり、世界一だったとする研究者もいる(戦後三十数年で日本の自動車は自動車王国の米国の車を性能やその他の面で完全に追い抜いてしまったし、コンピューターの集積回路や液晶技術、工作機械の技術においても日本は現在、世界のトップの座にある。太平洋戦争初期の零戦の戦闘性能は世界最高水準であった)。1600年に関ヶ原の戦いが行なわれたが、その時の東西両軍の総兵力は約30万人とされており、当時のヨーロッパ各国の軍隊は最大でも数万であり、10万を越える常備軍を持っていた国は一つもなかった。鉄砲の数や実戦的な刀・槍・鎧・兜の数や動員兵力から見て、日本は世界有数の「軍事大国」であり、同時に「軍事技術大国」でもあったと考えてよい。徳川幕府が、他国との外交交渉なしで鎖国政策をとることができたのも、軍事戦略論的にいえば、改良のすすんだ鉄砲の数と動員兵力などによる圧倒的な軍事力を背景にしていたからである。つまり、これは「武装鎖国」というべきものである。この「武装鎖国」によって徳川幕府は270年近くの戦争のない平穏な世をつくり出したのである(が、蒸気船の出現と強力な大砲、銃器の開発によって欧米と日本の軍事力のバランスがくずれ、優勢な軍事力を持つ米国に江戸幕府は「武装鎖国」を解除されたのである)。 (2017年10月11日記)  ※※私がコメントを投稿したユーチューブの動画が削除されていた。“【衝撃】列強国が日本を植民地にできなかった理由がとんで~" この動画に関連付けられていた YouTube アカウントは、著作権侵害に関する第三者通報が複数寄せられたため削除されました”との表示があり動画が削除されており、当然、私のコメントも見ることはできなかった。「いいね」が十数個ついていただけに残念である。私のコメントの内容は「軍事武装鎖国」と軍事戦略的に当時の列強が日本を植民地にすることは不可能だった、とするものであった。他のユーチューブ動画に対する私のコメントもその後三件ほど削除され、まさか、私をねらい打ちにしたのではないだろうがいったいどうなっているのかと思う (この小字の部分、2019年3月21日追加)。

 

※※ 「テロと宗教戦争と日本なぜ日本にテロや宗教紛争がほぼないのか (2017年11月2日記)」というブログでは“武装鎖国”について次のように言及している。

(注1) 秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止した。キリシタン大名の大村純忠が長崎港とその周辺地区をイエズス会に寄進し、そこがローマ教皇領になっていたが、秀吉はそれを簡単に取り戻すことができたのであるが、それはなぜか。前のブログでも書いたように徳川幕府がいわゆる鎖国政策を行ない(朝鮮と中国とオランダとは貿易は許可していた) 、他国と通商を禁止することができたのは、秀吉から家康の時代にかけて日本の軍事力が世界最高水準にあったからである。鉄砲の総数はスペインやポルトガルの比ではなく、おそらく世界最高であり、動員兵力数もヨーロッパ諸国の数よりも圧倒的に多かったことがある(関ヶ原の戦いにおける東西両軍の総数30万、一方、スペインなどの国はせいぜい数万)。つまり、スペインもポルトガルも日本の世界最高水準の軍事力の前に引き下がらざるを得なかったのである。当時、スペインやポルトガルは南米やインドなどを武力征服し植民地としていたが、自国の国力を背景にした宣教師や貿易商人たちも、日本の軍事力を背景にした秀吉や家康や徳川幕府の命令に従わざるをえなかったのである。徳川幕府の “鎖国政策”は軍事力を背景にした“武装鎖国”であったと言える(これはどの歴史研究者も言及していない。拙論「隅田八幡鏡銘文の解読」(『季刊邪馬台国69号』1999年冬号)に「(軍事)武装鎖国」についての説明がある)。(この部分2017年11月12日追記)

 

※※拙論「隅田八幡鏡銘文の解読」(『季刊邪馬台国69号』1999年冬号)では武装鎖国について次のように述べている。

 (隅田八幡神社の鏡[503年製作説が有力]に言及して)

  現在の日本人は古代の日本の技術をどうしても低く見る傾向があるが、外国の技術を習得しそれを改良するのが得意であるという日本人の傾向は、昔も現在と変わらなかったのではなかろうかという思いが私にはある。

  戦後三十数年で日本の自動車は自動車王国の米国の車を性能やその他の面で完全に追い抜いてしまったし、コンピューターの集積回路や液晶技術、工作機械の技術においても日本は現在、世界のトップにある(※1990年代にはトップの座にあったが、米国民主党クリントン政権によってたたき潰された。2019年7月に日本が韓国に対しフッ化ポリイミド、フッ化レジスト、高純度フッ化水素の輸出を厳格化した。これらを他国から輸入できず日本からしか輸入できない韓国の状況は日本が当時、半導体技術でトップに立っていたことの証左である。―この部分2020年12月24日追記)。

  同様に、1543年にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられてから、戦国時代ということもあって、あっというまに、日本中に広まり、その技術改良もすすみ、豊臣秀吉が天下を統一した1590年の時点では鉄砲の数はヨーロッパの全ての国の鉄砲の数の合計したものより多かった、つまり、世界一だったとする研究者もいる。1600年に関ヶ原の戦いが行なわれたが、その時の東西両軍の総兵力は約三十万人とされており、当時のヨーロッパ各国の軍隊は最大でも数万であり、十万を越える常備軍を持っていた国は一つもなかった。鉄砲の数や実戦的な刀・槍・鎧・兜の数や動員兵力から見て、日本は世界有数の「軍事大国」であり、同時に「軍事技術大国」でもあったと考えてよい(江戸幕府が、他国との外交交渉なしで鎖国政策をとることができたのも、軍事戦略論的にいえば、改良のすすんだ鉄砲の数と動員兵力などによる圧倒的な軍事力を背景にしていたからである。つまり、これは「武装鎖国」というべきものである。が、蒸気船の出現と強力な大砲、銃器の開発によって軍事力のバランスがくずれ、優勢な軍事力を持つ米国に江戸幕府は「武装鎖国」を解除されたのである)。 

     

※※ 戦国時代の日本の軍事力が世界最強級であったのに対して幕末には戦艦(蒸気船) の性能や武器(大砲、鉄砲)の性能において欧米列強(英米仏)が上回っていたため、堺事件のような“情けない”事件が起こった。  以下は、私のブログ「テロと日本―なぜ日本にテロや宗教紛争がほぼないのか 2」 に書いたものである。上記の説明と重なる部分があるが、その 注3で「堺事件」に言及している。

  (注3) 江戸から明治になる直前の1868年3月に「堺事件」が起こった。当時、江戸幕府の大坂町奉行所は治安機能を失っており、住民の苦情をうけた土佐藩兵がフランス人水兵が堺市内を歩き回るのを止めさせようとしたが従わず反抗したため11名のフランス人水兵を殺害した。これに対応した明治維新政府は賠償金と20名の関係土佐藩兵を処刑(切腹)することで和解し、最終的には11名が切腹したところで、残りの9名は助命された。

 豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、スペイン人宣教師4名、ポルトガル宣教師1名、メキシコ人宣教師1名を含む20名の日本人キリスト教徒を処刑したが、スペインもポルトガルも秀吉の政権に何のクレームもつけることができず、秀吉の命令に従わざるを得なかった。当時、英国が台頭しスペインと海洋帝国の覇権をかけて争っていたが、秀吉の“蛮行(スペイン側から見た)”に対して大国のスペインが対応することができなかったのは、日本の軍事力に対抗する海軍力と兵力がなかったためである。徳川家康の後を継いだ秀忠の行なった宣教師を含むキリシタンの処刑(京都の大殉教、元和の大殉教)に対してもスペインもポルトガルも何もできなかった。この点についても日本人(歴史家)は日本の軍事力をきちんと理解していないように思われるし、当然のごとく歴史教科書にも説明がない。

 幕末に江戸幕府が英米仏に対して弱腰だったのは、海軍力(蒸気船と高性能の大砲)と銃器の性能などにおいて、日本側と外国諸国との間に大きな差が生じていたためである。この部分でも歴史教科書も専門家もきちんとした理由を示していない。秀吉、家康の時代には日本と西洋諸国との間に軍事力の差はなかった、というよりも日本が上回っていたのだが、幕末には逆転していたのだ。

   ただ、欧米列強が日本を植民地にできなかったのは、偶然にそのようになったのではなく、軍事的理由がある。 

   幕末当時の日本を完全に占領しようとすれば、地上軍は日本は山国であり、強力な火器や大砲を持っていたとしても、山岳地帯を拠点に日本の武士に反撃(ゲリラ闘争)されれば日本側にも銃は多数あり、制圧はかなり困難である。当時の西洋の海軍力(輸送力)では100万を超えるような兵員を日本に対して送り込んで日本を完全に制圧することは不可能である(一時的な拠点制圧なら可能であろうが、永久に制圧をつづけることは不可能)。つまり、軍事的視点から判断して、英米仏は日本を植民地にすることができなかったのである。(※この段落は本文に続いて原文にあるものであるが、2021年1月17日追記)

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                                                           (2020年12月25日記)