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古代人の寿命 (平均寿命の勘違い)

2022-03-27 21:58:28 | 時事問題

 

古代人の寿命は短くなかった、いや長かった

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  大多数の人々が“平均寿命”が生み出す“風景”に対して大きな誤解を持っているように見える。しかも、一流の科学者も政治家もマスコミ界の人々も正しい平均寿命の“風景”を見ていないように思われるのだ。

 古代人の平均寿命は非常に短かったように思われているが、平均寿命をさげる主な原因は乳幼児の死亡率が高いためであり、生き残った大人たちの“平均寿命”にしぼると私たちが漠然と考えているほど短くはないと言ってもまちがいではない。

 たとえば、いま、五人のゼロ歳児がいるとしよう。この中の一人は百歳まで生きた。が、残りの四人は伝染病にかかって、一歳になる前に死んだとしよう。この五人の平均寿命は、単純な相加平均で計算すると、

  (100+0+0+0+0)÷5=20

となり、この五人の平均寿命は20歳である(「平均寿命(余命)」の出し方は単純な相加平均でよいはずであるが、それは目当ての集団全員が死亡したあとでなければだせないので、実際はもうすこし複雑な推計をする)。百歳まで生きる者がいても乳幼児のときに死亡するものが多数いたら、その平均寿命はいちじるしく低下するということである。

  ここまでの平均寿命について事実をよくわかっている人たち(高名な学者も含めて)でも、私から見ると、字面だけ理解しているだけでその実際の風景、例えば人口500人規模の一つの村にどのくらいの老人がいて、中年の男女がいて青年、子供がいるのか、という風景が見えていないように思われるのである。

  江戸時代の平均寿命を寺の過去帳から割り出して、江戸時代のこの地域の平均寿命は「24.7歳」だとする人がいるが、一家族に3歳未満で死ぬ子どもが多数でる可能性が高いなかで、この24.7という数字は誤解をまねくことは確かである。平均寿命が24歳なら60歳、70歳の老人はいないと思う人が出てくるのは当然である。たとえ、現代、私たちが通常使う意味での“平均寿命”が「30歳」あるいは「20歳」であったとしても、一つの集団の中に百歳を超える人がいる可能性はかなりある。その実例は、記録の残っている日本の古代社会に存在する。江戸時代と奈良時代の例を後で示したい。

  平均寿命を専門に取り扱う研究者をのぞいて、失礼な言い方になるが、大多数の人たちは「平均寿命」の意味と人間が有する生命力が生みだす「最長寿者の年齢」と医療環境の関係がよくわかっていないのである。

  江戸時代の有名な儒学者で『養生訓』を書いた貝原益軒(1630年生、1714年没)は84歳で死んでいる。浮世絵師の葛飾北斎(1760~1849)は89歳まで長生きした。が、このとき、江戸時代の平均寿命は30歳くらいだというと、この84や89は1年を2歳とする「二倍年歴」だと考える(早とちりする)人が出てくるのはある意味で当然である。

 江戸時代のように記録が比較的のこっている場合は、「江戸時代に80歳、90歳はありえないし、まして百歳などとんでもない」と言いたくても言えないのであるが、このような考えが、邪馬台国時代や縄文時代になると通用してしまうのである。

 「平均寿命が30歳なら、80歳、90歳はありえないし、百歳老人などとんでもない」というような誤った考えをいだく人が多数いるなかでは、誤解をさけるために江戸時代以前の平均寿命は、20歳をすぎて生きのびた人たちの平均寿命、または、20歳をすぎて生きのびた人たちの「平均死亡年齢」で考える必要がある。

 20歳以下の乳幼児や少年の死亡数を切り捨てれば、(後で詳述するが)江戸時代や奈良時代の人たちの寿命はかなり長く、八十代や九十代の人もそれほどまれではなくいて、中には百歳を超える老人もいるという記録が残っていることも理解できるはずである。 

  柳谷慶子氏の『江戸時代の老いと看取り』(2011年 山川出版刊)によると、江戸時代の人たちの寿命というものがわかってくる。同書9頁に、

飛騨国の寺院過去帳の分析によれば、江戸時代後期の、21歳以上の平均死亡年齢は、男性61.4歳、女性は60.3歳で、51歳以上の人々の享年は70歳をこえている(須田1973)。成人後の平均余命は現代と比べても見劣りしない数値である。 現代の平均寿命である80歳を超えて生きのびる者も、稀少とはいえない人数が存在している。盛岡藩の1697(元禄10)年9月の調査によれば、領内に780人の該当者がおり、さらに、100歳以上の長寿者も122歳を最高に女性3人が書き上げられている(『盛岡藩雑書』第六巻)。

とある。当時、20歳まで生きのびた人たちの平均死亡年齢は男女とも60歳を超え、51歳を超えた人たちでは平均死亡年齢は70歳を超えるということである。

 当時の盛岡藩の総人口は約33万4千人である。1970年当時の日本の総人口1億466万人に対して百歳以上の老人は310人いたから、1697年当時の盛岡藩の人口を1970年の日本の総人口までもってくると、百歳以上の老人は、

   3x(104660000/334000)=940 …940名

となり、比率からすると盛岡藩に940人の百歳以上の老人がいたことになる。

  *940名…江戸時代の百歳以上の老人の数(1697、盛岡藩の百歳老人の数にもとづいて)

  *310名…昭和時代の百歳以上の老人の数(1970、日本)

 比率でいえば1697年当時の江戸時代の盛岡藩のほうが百歳老人は1970年当時の日本より三倍多いのである。平均寿命が40歳にも達しない江戸時代に、百歳老人などいるはずがないという私たちの思いこみがどれほど間違っているか思い知らされる。

  20歳以上の成人の平均死亡年齢で見ると、江戸時代も昭和40年代もそれほどちがわないということである。ただ、1996年ころから2022年現在にいたるまで百歳以上の高齢者数が異常に増加していることは疑いのないことである(百歳以上の老人数:8万6510人‥2021年9月15日現在)。これは、栄養の改善(タンパク質、微量栄養素の適正摂取)と医療技術(延命技術など)の進歩によるものであろう。この点では、江戸時代と現在は大きなちがいがある(*注1)

  柳谷慶子氏は、江戸時代の高齢化を18世紀以降に社会全体の生産力が上がり、医療の恩恵にあずかる層が広がったためとしている。が、この考えは人の寿命に対する大きな失考を生みだすもととなる。私もそのような面を否定はしないが、80歳をこえて90歳、100歳と生きのびる人たちは、医療のおかげではなく、持って生まれた長寿体質(遺伝子の傾向)と、長寿に適した性格と食生活によって高齢者となっていると考えられる。後述するが、記録に残っていて明らかなことであるが、奈良時代には百歳をこえる高齢者がいた。おそらく、邪馬台国にも百歳老人はいたと思われる。百歳をこえる長寿者は高度医療技術のおかげでそうなるのではないのだ。この点を理解しそこなうと、奈良時代のような古代に百歳老人などいるはずがない、という失考におちいるのである。

  明治25年生まれの祖母ムラ(昭和55年に88歳で死亡)がよく言っていたことがある。

わたしの生まれた当時は子どもが生まれてもすぐに役所に出生届をだすのではなく、その赤ん坊が育つかどうか二、三ヶ月様子を見てから届をだした。わたしの親もそうしたので、戸籍では9月19日生まれになっているが、本当はわたしは6月生まれや。

 つまり、当時は子どもが生まれても親はすぐに出生届をださず、育つがどうか様子を見てから出したということで、それくらい乳幼児のときに死亡するものが多かったということである。したがって、生後すぐに死亡した乳児の名前などは戸籍に載せられていない場合も多いはずであり、明治の初年から中頃までの戸籍にもとづいて当時の平均寿命を出しても不正確なものとなる可能性が高い。(付言すると、占星術の本などに明治時代の有名人の生年月日を取り出して占星術的説明しているものがあるが、その生年月日の中には親が届け出を遅らせて出したものもあると思われ、その場合の説明は無意味なものとなる。)

 乳幼児期のきびしい生死の選択をくぐりぬけてきた古代の人々は強健さという面では半健康の人々が多数存在する現代よりもすぐれているかもしれない。ただ、現代の老人の方が、乳幼児の死亡率を切り捨てた場合でも、生きのびた古代人より平均寿命で上まわると思われるが、その理由は、タンパク質などの重要な栄養素を十分にとれるようになったことと、肺炎などの病気にかかった時に、現代人は抗生物質や点滴などの高度の医療をうけることができるが、古代人はそれが受けられなかったということがあるだろう。

  それにしても古代人がみな早死にしたかのように考えるのは誤りであることが理解されたものと思う。平均寿命の落とし穴を熟知していれば、現代の平均寿命と江戸時代や奈良時代の平均寿命をそのまま比較することの危険性はよくわかるはずである。古代は乳幼児の死亡率が非常に高く、それが平均寿命をひじょうに短くしている原因であるから、そのことを考慮しつつ現代と比較する必要がある。

  奈良時代の人々の平均寿命についてはいくつかの推定はあるが、いま仮に32歳ほどとすると、現代の日本人のそれがおよそ80歳であり、倍以上もちがうといっても、その差は現代のすすんだ医療技術による乳幼児の死亡率の差であるから、それを取り除くと、奈良時代の人と現代人の平均寿命は(もちろん、現代人のほうが長いけれども)想像するほど大きくちがわないと考えてよい。 すくなくとも、平均寿命80と32という言葉がつくりだすイメージ的な差ほど大きくない(奈良時代の高齢者については後述する)。

  私が小学3年生だった昭和30年に、近所に88歳になる“おツネ”ばあさんがいた。私の祖母(当時63歳)は、「おツネさんはここら辺で一番の長生きや」とよく私に言っていたが、小学3年の私の目には近所に私の祖母くらいの年齢のおばあさんとおじいさん(たぶん60歳台の老人)が何名もいたように思うし、この中には70歳台の老人も混じっていたと思われる。私の見ていたこの老人のいる風景は江戸時代の(当時の私と同じような年齢の)子供の見ていたものとそんない変わらないと言ってよいだろう。

 

【古代人にも多くの長寿者がいた】

  乳幼児期を死なずに生き延びた古代人の寿命は私たちが考えているよりはるかに長いのである。江戸時代の高齢者については先に示したが、奈良時代にも言及しよう。

 『日本の歴史3 奈良の都』(1970年中央公論社刊)21~22頁に奈良時代の日本の総人口と奈良の都の人口、高齢者についての記述がある。

773年に朝廷は奈良の都の老人たち、やもめや孤児などの不遇な人々2万人ほどに、6千余石のモミを無料で配給している(奈良時代の政府の福祉政策はしっかりしているが、今の自公政権はどうか)。が、その配給命令書には(奈良の都の全人口に対して)100歳が2人、90歳以上が104人、80歳以上が990人とある。まじめできっちりしている日本人のことであるから、当時の政府が集約した数字はかなりの程度信用できると考えられる。現在のように不法滞在外国人などは皆無で、“狭い日本”の中の村々で当時の役人がその数を調べたと考えると、それほど実数とかけ離れたものとは考えにくいので、これらの数字をほぼ正しいものと見ることにする。全国的な戸籍は670年、天智天皇の時代に『庚午年籍』が作られ、租庸調の課税のためもあり人民の年齢もほぼ正確に捕捉されたと考えられる(配給の773年は大規模な戸籍調査の行なわれた670年から103年経過している。100歳 2人もほぼ間違いのない数字であろう)。また、これよりおよそ百年前の欽明天皇の時代にも戸籍についての記述が書紀にある。

  残された文献などから当時の奈良の都の人口は20万ほどということが分かっているが、80歳以上の老人が意想外に多いことに私たちはおどろかされる。 20万人中に2人の百歳老人がいるのであるから、現代(1970年代)の日本と比較するため、20万人を一億人に換算すると、2名×500で、当時の奈良の都には比率的に千人の百歳老人がいたということになる。

 奈良時代(の奈良の都)と江戸時代(の盛岡藩)の百歳以上の老人の数を比較すると両者はよく似ており、おおよそ10万人に対して1人の割合で百歳を越える老人がいるということである。これは1970年前後の日本のおよそ三倍である。1970年の日本には33万人に1名しか百歳以上老人がいなかった。

  厚生労働省の資料によると、1992年の時点で百歳以上の老人は1億2千万の総人口に対して4152人、2015年現在で6万1568人となっており、現在、猛烈な勢いで百歳を超える老齢者が増加している。しかし、1970年の時点で日本には百歳以上は310人しかおらず、人口10万人に対して百歳老人が1人を越えるのが1982年(昭和57年)である。奈良時代の奈良の都の百歳老人の数は比率的には、昭和五〇年代前半の日本より多かったのである。この事実は、百歳老人は医療技術や薬品のおかげで生まれるのではなく、持ち前の資質(長寿遺伝子、性格)や食生活によって生まれるということを示している。奈良時代や江戸時代のほうが1970年ころの日本より百歳老人の比率が高いのは当時は大気や水質汚染などの環境汚染の問題がなく、健康に悪影響のある食品添加物の問題もなかったためかもしれない。(2006年の財政破綻後、総合病院は消え、医療による過度の診療や投薬がなくなった北海道の夕張地区では住民の半数が高齢者であるのに、心疾患、肺炎等の死亡率が破綻後の方が低くなりかえって平均寿命が延びたと言われている。1973年,イスラエルでは外科医の1ヵ月間のストライキの期間中、国民の死亡率が50パーセントも下がったとされている。医療が人々を健康にし平均寿命を延ばすわけではないと指摘する識者もいる。確かに、交通事故による大怪我、内臓破裂や頭部損傷などに対して緊急救命治療が絶大な効果を発揮することが多いことは認めるが、多くの種類のガンは抗がん剤を使わずに放置したほうが長生きをするとする医師もいるし、腎臓病の透析治療はしないほうが長く生きられるという学者も少なからずいる。現在の医療は功罪の“罪”の方が強いように思われる。 *医学界は真に人々の幸福につながる療法を開発する必要がある。また、製薬会社は人々の健康を保ち、その幸福につながる適切な価格の薬を開発する必要がある。欧米流の儲ければよい、株主の利益に貢献できればよいというような発想は自身を滅ぼすことにつながる。)

1000名…773年の奈良の都の人口の20万人を1億人に換算した時の百歳以上の老人の数

  940名…1697年の江戸時代、盛岡藩の人口の33万人を1億人に換算した時の百歳以上の老人の数

  310名…1970年の日本の総人口(1億466万人)に対する百歳以上の老人の数

 古代の人はみな早死にだったと考えるのは誤りであることが明らかであろう。たしかに、奈良時代の日本人の「平均寿命」は40歳以下であったと思われるが、それは乳幼児期の子どもの死亡も考慮に入れて推定しているからである。感染症などの病気で死亡しやすい乳幼児期をのりこえた人たちは、古代といえどもある程度は長生きで、50歳、60歳以上の老人はかなりおり、中には、80歳、90歳まで長生きをする人があり、まれには、100歳を超える老人もいたと考えてよい。彼ら長寿者は医療のおかげで長生きをしたのではなく、持ち前の資質(長寿遺伝子の保有)、ストレスに強い性格、長寿を促す食生活などによって、感染症などの危機ものりこえて長生きしたのである。高度の医療技術がなければ長生きできないと思うのは現代人の大きな錯覚・誤解であり、ある意味で大いなる“思い上がり”である。先に言及した柳谷慶子氏の考え「江戸時代の高齢化は18世紀以降に社会全体の生産力が上がり、医療の恩恵にあずかる層が広がったため」は忌憚なく言えば“失考”である。

  ここで平均寿命と現在医療について言いたいことがある。現在の私たちの「平均寿命」と古代人の「平均寿命」の差を生みだす最大の要因は乳幼児の死亡率であるから、現代人と古代人の平均寿命を比較するときに、いま使われている「平均寿命」をもちだすと、現代人に大きな誤解をもたらすので、成人に達した人たちの平均寿命で比較する「時代別成人後平均寿命」とでもいうもので比較したらよいのではないだろうか。そうすれば、「江戸時代には80歳や90歳の老人はいないし、百歳老人などいるはずがない」というような失考は生じない。

  下の表は2001年3月2日の朝日新聞の夕刊に載った日本人の平均寿命を推定した表である。縄文時代の「平均寿命」は“14.5歳”となっているが、この数字を出した根拠も問題であるが、これでは、40代や50代の縄文人はいないような印象を人に与える(実際、この数字を出した研究者は縄文人は長寿者で31.1歳程度という考えらしい)。野生のチンパンジーでもうまく生きのびた個体は50歳くらいまで生きるものもあるとされている。いま、「平均寿命」という言葉がつくり出す“迷妄”の世界を脱却すると、縄文人でも子ども時代を生きのびた人たちの中には50代、60代の人たちがおり、ごくまれかもしれないが、70代、80代の人たちもいたのではないか、という考えに至る。そうでなければ人類としての文化や知恵の継承はない。

  朝日新聞デジタル2010年11月13日の記事によると、人類学の長岡朋人氏は、縄文人86体の出土人骨を再調査し、それまで縄文人の平均寿命は30歳以下で極端な説では14.5歳とするような考えがあったのであるが、65歳以上と見られる個体が全体の3割以上を占める、という結論を『月刊考古ジャーナル』(臨時増刊号)で発表した。これは正解からそれほどはずれていない、むしろ妥当な結論だと私は考える。

  アフリカやアマゾンなどで縄文時代人と同様の狩猟採取生活を送っている原住民の生活実態、平均死亡年齢および最高長寿者の年齢の調査をすれば、縄文時代の人々の年齢構成や平均死亡年齢を類推することができるであろうに、縄文時代人の平均寿命「14.5歳」を出した人たちの科学的手法や「類推力」「想像力」はいったいどうなっているのだろうか。平均寿命14.5(長寿者の寿命が31歳)では、ホモサピエンス(知恵ある人)であり、火を制御してきた人間が、現在の野生のゴリラやチンパンジーの集団の平均寿命にも負けてしまうことになりかねない。私たち日本人の先祖と考えられる縄文人は芸術性に富んでいるとされる縄文土器をつくりだした人たちである。知恵によって集団を維持し文化を次の世代へと伝えていった人たちである。

 

【『魏志』「倭人伝」の長寿者たち】

  『魏志』の「倭人伝」に

        其人壽考或百年或八九十年…ⓐ

と記されている。この記事から、当時の倭人の(平均)寿命が百歳から8、90歳であったと記述されているように(誤)解しているひとが多数いるが、「壽考」は「長生き」「長寿」という意味であり、もう少し意訳すれば「長寿者の寿命」のことであるから、当時の倭人の平均寿命が八十歳から百歳だったということにはならない。

  先に述べたように奈良時代にも百歳をこえる老人がおり、90歳以上、80歳以上の老人がかなりいたとの記録があるし、江戸時代の記録も同様であるから、邪馬台国にもかなり長生きをする人がいたと考えられる。当時の「平均寿命」は30歳、38歳というような情報を耳にすると、その平均が何をふくみ、何を意味しているのかを検討することなしに、あたまから「当時、百歳なんてありえない」となり、「二倍年歴説」や「一年二歳説」に走ってしまうのだ。

 ⓐの読み下しと意味であるが、武光誠氏の『魏志倭人伝と邪馬台国』(1998年 読売新聞社刊)によると、

  其の人寿考(じゅこう)にして、或は百年或は八九十年なり。

  大人は長寿者で、あるいは百歳、あるいは八、九十歳である。…ⓑ

となっている。武光氏は前の部分の訳で「大人」を「たいじん(=上層階級の人)」というように解していおり、「其人」を「大人」と解し、「寿考」に対する“主語”と理解しているようである。そうすると、武光氏の訳によると、

   (邪馬台国の)上層階級の人は(みな)長寿者で、あるいは百歳、あるいは八、九十歳である。

ということになる。誤訳である。「倭人伝」には「其」は、何度か出てくるが、主として「倭の」、「倭人の」という意味で使われている。ここも原文のすなおな流れからは「其=倭」の意味で使われていると、すべきであろう。邪馬台国に上層階級の人たちが何パーセントいたのかは不明であるが、このⓑの訳からは、邪馬台国の支配層はすべて8,90歳、または百歳の長寿者となってしまい、「一年二歳説」が出てくるのも無理はないことになる。

 張明澄氏の『誤読だらけの邪馬台国』(1992年 久保書店刊)では、

   其人壽考或百年或八九十年…ⓐ

   その人の寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年

というように訳し、「寿考」に対して、

   寿考とは最高寿命、長生き、長寿、高年齢のことであり、平均寿命というのは誤訳である。

と断言している。

 私も張氏の説に同感で、「其人寿考」を主題(主語)とするほうが素直なよみだと思われる。つまり、「~は」の「~」を「寿考」と見るのである。「其人」は「寿考」にかかっていく修飾語(所有格)と見る。わかりやすく訳すと、

   其の人の寿考([最高]長寿者の生存期間)は百年かまたは八、九十年である。

   倭人の(最高)長寿者の寿命は百年かまたは八、九十年である。

    (The long(est) lifespan of the people is 80, 90, or 100 years.)

というようなものである。「寿考」を「長生き」と訳すのはまちがいではなく正しいのであるが、その前の「其人」を「寿考」の主語にすると誤解を招く訳になるのではなかろうか。

 「其人寿考」は、文法的には、

  ① 其の人は寿考で=倭人は長生きで

  ② 其の人の寿考は=倭人の長寿者の寿命は

とどちらに解することも可能であると考えられるが、常識的には②の意味になる。たとえ、①の意味にとり、「倭人は長生きで百歳の人もいれば、8、90歳の人も(ざら)にいる」という意味に解したとしても(このように解せないことはない)、倭人の平均寿命が80歳や90歳だという意味には決してならない。80歳、90歳、百歳の人たちには乳幼児期や少年期に死亡した複数の兄弟姉妹がいるはずで、私たちが現在使っている「平均寿命」を持ち出せば、当時は35歳には達しない可能性が高いし、25歳前後ということもありえる。

 また、当時の中国、つまり、魏の国にもごく少数であろうけれども百歳を超える老人はいたであろうし、まして、80歳、90歳の老人ならそれほどまれではなくいたであろう。魏志倭人伝のこの記述は、倭人の中に自国よりも多くの長寿者がいる(ように見える)ことに驚いて魏の使者が書き記したものであろう。先に述べたように、さほど医療技術が進んでいたとは思われない八世紀の奈良の都にも百歳老人はいたのである。3世紀の魏の国にもごく希ではあろうけれど百歳を越える老人はいたはずである。当時の邪馬台国の倭人と魏の人々の長寿者の年齢に差があるとすると、倭人は海の近くに住み、海の幸、魚や海藻類から動物性タンパク質とビタミン・ミネラル類を得やすかったのに対して、魏人はそれが劣ったためであると私は考える。

  当時の魏や邪馬台国に、80歳、90歳の人がいるはずがないし、まして、百歳老人などいるはずがない、と思い込んでしまうのは、「平均寿命」という言葉に対する誤解と、医療技術が発達していなければ百歳老人が出ないという思いこみが生みだした現代人の大きな失考である。繰りかえすが、たとえ、「平均寿命25歳」であったとしても、90歳、百歳老人がいないということには決してならない。ところが、「平均寿命30才」ということばに引きずられて、科学的思考のできるはずの科学者でさえも、乳幼児期に多数のものが死亡することを忘れ(言葉の上では理解していたとしても)、そのような短い平均寿命では80歳や90歳の人はいないという間違った思考状態に落ち込んでしまうのだ。

  「倭人伝」にもどろう。「其人寿考」までを主語とすると、「其の人の寿考は」となり、「或百年或八九十年=百年かまたは八、九十年である」という述部に無理なくむすびつき、誤解の生じにくい和訳がえられる。「寿考」は、前にも述べたようにわかりやすく訳すと「長寿者の寿命」である。

 米を主食とする邪馬台国の時代から奈良時代にかけて抗生物質や点滴に匹敵するような医学的革新や栄養学的革新がとくにあったとは考えられないから、奈良時代の日本に百歳や90歳の老人がいたのなら、邪馬台国の時代にも80歳を越えて百歳くらいまで長生きする人、百歳以上の老人が(稀ではあろうが)いたとしても不思議なことはなにもない。

  繰りかえすが、長寿者は漢方薬やその他の薬で長生きするのではなく、持ち前の資質(長寿遺伝子)と長寿に適した性格、食生活によって長生きするのである。米作によって米の備蓄が可能になり、異常気象などによる食糧危機を乗りきることができるようになった弥生時代以降は、長寿の資質を持つ人たちは。八十歳を超えて長生きする人がそれほどまれでなく存在し、まれには百歳を超える長寿者も出たと考えられる。

 もちろん、縄文人もカシやコナラなどの木の実を備蓄して、食糧危機に対処していたようであるから、“備蓄力”においては弥生人におとるかもしれないが、それなりに食糧危機には対処していたであろう。私は、縄文人も20歳をすぎた人たちの平均死亡年齢は弥生人よりおとるとしてもかなり高かったのではないかと思っている。前述した長岡朋人氏の縄文人86体の出土人骨を再調査の「65歳以上と見られる個体が全体の3割以上を占める」という結論は多少の誤差はあるにしても正解からそれほどはずれたものではないと考えている。

  だいたい、「平均寿命」という言葉は近代国家が成立してから造られたもので、しかも、私が何度も言っているように、大多数の人はその言葉に対する理解不足のために「平均寿命が30歳なら百歳老人がいるはずがない」と思い込む。また、古代文献のに出てくる「寿命」や「寿考」を現代人の使う「平均寿命」と考えてしまう大間違いをおかしてしまう。

  私が小学2年生、3年生の時に見ていた近所の老人たちの風景を理解できない人が大多数なのである。『魏志』の編者が「壽考」を「平均寿命」の意味で用いているはずがないが、これを「平均寿命」の意味でとらえてしまう人がいるから困るのだ。寿考=長い寿命→長い平均寿命、というように連想し、「当時、80歳、90歳の平均寿命などあるはずがない」という“平均寿命”連想病にかかってしまうのだ。

  先述したように、江戸時代にも奈良時代にも80歳を越えて百歳くらいまで長生きする人たちがおり、邪馬台国の時代にもそのような人たちがいたということである。繰りかえすが、乳幼児期を無事切り抜け中年にまで達した人たちはかなり長生きをしたばあいもあるといってよい。

 これに対し、現代的常識で当時の人の寿命がこんなに長いはずがないから、当時は、1年を2年(ひと春で1年、ひと秋で1年、合計2年)に数える二倍年暦を使っていたのであり、倭人の寿命も半分にして考えるべきだという人がいるが、これは「寿命=平均寿命」という誤った連想と「平均寿命が30歳なら80歳、90歳の老人などいるはずがないし、まして百歳老人などいるはずがない」という思い込みによって生じた失考であると断言してよい(「平均」をとるということも大切な意味を持つ場合もある。「平均」がすべて悪いといっているのではない。念のため)

 

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  平均寿命をある集団の平均的生命力の高さと見るなら、流産や堕胎の増加はその集団の生命力の弱まりを示していると考えられるから、当然、平均寿命を算定する時の数値の一つに数えてもいいはずであるが、これはなされていない。これは余談になるが、すこし述べておきたい。国家間の比較をするばあい、国民総生産(GNP)や国内総生産(GDP)や経常収支などの経済指標がよく持ち出されるが、平均寿命が問題になるときもある。私は以前、都市(または、国家)の崩壊度(健康度)を表そうとしたことがある。その場合の指標は、人口10万ないし1万に対する次のようなものがその指標として考えられる。

失業者数  病気などの自然死件数 殺人件数 事故死件数 自殺件数  堕胎件数  流産件数 犯罪(殺人を除く)件数 火災件数  高校以上の退学者数 小中高でのイジメ件数 市民流出(国籍離脱、難民などになり流出)件数  平均寿命 出生件数(出生率増減度)      

これらに軽重をつけながら数値化し、合計点で崩壊度を示すのである。しかし、マイナスの要素を考えることはあまり気持ちのよいものではないし、その他むずかしいことが多すぎて途中でやめてしまった。日本は太平洋戦争で300万人以上の戦死者を出したが、その時が国としての「崩壊度」は最大であったろう。     (2022年3月27日記)

(*注1) なぜ、奈良時代や江戸時代の方が百歳老人の比率が1970年(昭和45年)より3倍もあるのか?これは、たまたま、こうなっているのではなく、戦後に普及してきた高度の現在医療による過度の診療や投薬が(いや、ひょっとしたら、明治以降、急速に普及した欧米医学の不適切な治療が)本来なら百歳を超えるはずの高齢者の寿命を縮めた可能性があるのではないだろうか。これは明治元年以降の百歳老人の比率を調査すればわかると思われる(私はできないのでどなたかにやってもらえればと思います)。  *1996年から百歳を超える老人の比率が急激に増加してきた理由は、医学療法の進歩ではなく、1980年代後半から、健康と長寿のための最新の栄養学の知識が急速に広まってきたからであろう。健康を維持していくためには微量栄養素(ビタミンとミネラル)を不足なくとることと、タンパク質は植物性(大豆など)だけではなく動物性タンパク質(肉、魚)もとることが必要だという知識が広まったためであろう。(90歳以上の)長寿者には肉をよく食べる人が多いことも統計的調査でわかってきた。これらの知識が現在、日本で百歳老人が非常に増加している原因であると思われる。医療技術の進歩と見なされているものは、人々の健康や病気の治療に役立ち寿命を延ばすことに貢献するものと、逆に人々の健康のを害し、寿命も縮めるものとに分かれるように思われる。先述した夕張地区やイスラエルの例からわかるように過度の医療(金儲け主義)がはびこれば人々の寿命を縮めることになる。(この部分、2022年3月29日追記)

(*注2)欽明天皇は531年に即位し、571年に没したと私は考えている。この即位年の“531年”は“辛亥年”であり、いわゆる「辛亥の変」の年とする研究者も少なからずいて欽明が即位した年とは考えない者もおり、日本書紀の編者は欽明天皇の即位は「540年」としている。が、欽明天皇の没年に関しては諸家571年とすることに異論はない。上記の文中で欽明天皇を「6世紀後半に在位した天皇」としたが、これは正確ではない。欽明天皇の在位期間(治世)は“531年から571年”と私は見ている。日本書紀の540年のところに「秦人、漢人らの帰化人の戸籍を編む」との記述がある。辛亥の変については私のブログ「中国はいつ国家崩壊するか」の注の中に説明がある。(2022年5月9日追記)