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英文法のはなし②

2017-07-26 16:06:29 | 英語のはなし

英文法のはなし②・・・辞書の意味は正しいか

  辞書に載っている訳語に関連して、1992年のことだったと思いますが、私が米国人のAET(Assistant English Teacher)のBill Griffinさんと話していて自分が大きな勘違いをしていたことに気づいたことがあります。

 問題の言葉は動詞“ask”です。私は、ask という動詞には大きく分けて二つの意味があると理解していました。「尋ねる、聞く」「求める、頼む」という意味です。

 (A)

  The clerk asked him his name. 店員は彼に名前を聞いた

  The teacher asked me where I lived. 先生は私にどこにすんでいるのか尋ねた

 (B) 

  Taro asked me for money. 太郎は私にお金を求めた→お金をくれと言った。

 Jiro asked her to marry him. 次郎は彼女に結婚してくれるよう頼んだ

  その経緯は忘れましたが、私はBillさんに「The verb “ask” has two different meanings? (動詞のaskは二つの違った意味がありますね?)」というような平叙文の文尾を上げる形で質問をしました。彼は私の質問の意味が全く理解できないというような顔をしました。私は上記のような例文を挙げて「意味が異なっていることを示したつもり」だったのですが、彼には理解できない質問でした。彼にとっていずれの“ask”も同じ意味を持っていると理解しているようでした。的はずれな質問をしていることが分かったので、私はその質問をうち切りました。

  その後、英英辞典(WebsterやThe American Heritage Dictionaryなど) で“ask”の意味チェックすると、

   seek something   ※seek=求める

ということで、something (=何か)に、information(情報)が来れば「聞く、たずねる」というように日本語に訳し、moneyが来れば、まさに「求める」と日本語に訳すのだということが分かりました。(※当時、日本の英和辞典の『ニューアンカー英和辞典』(学習研究社刊) はaskの基本義として「求める」をすでに記載していました。英語教師として恥ずかしいことですが、askなど自明のこととして辞書で調べることをしていませんでした。)

   ① Taro asked money from me.  太郎は私に 金を 求めた(asked)。

  ② Taro asked a question of me. 太郎は私にquestion を求めた(asked)。

 上記の①のaskedは「求めた」と訳してよい語ですが、②の英文のaskedを「求めた」と訳すと、questionは「質問」と訳すと意味がとれないことになります。

 ここで、“question”の意味を掘り下げて考えてみたいと思います。

 “question”は英和辞典を見ると、名詞として「質問」「疑問」「問題」と訳しており、動詞として使うと、「質問する」「疑う」という意味です。questionは語源から見ると、ラテン語のquaerereに由来しています。これは「求める(こと)」を意味しています。さらに、“quest”という語があり、この語もラテン語のquaerereに由来し、その点でquestionと同源ですが、questから直接にquestionが作られたのではないようです。questも名詞と動詞として使います。

  quest 名詞: 探求、追求、検死  動詞:捜す、探求する

 これから分かることは、questionは「質問」と訳しているのですが、語源的に考えると「求める(こと)」になります。そうすると、

   ask(求める) a question(求めること→求められること=答え)

となり、②の訳は、

  太郎は私に 求められること(=答)を求めた。

というような意味になりそうです。

  see the sights of~(~見物をする) Taro saw the sights of Nara. (太郎は奈良見物をした)

という表現があります。この場合の“sight”は「見るもの→見られるもの→景色、光景、名所」という意味です。

  Hanako trembles at the sight of a snake. 花子はヘビを見ると身震いする。

 この文のsightは「見ること」です。つまり、名詞のsightには「見ること」「見られるもの」というように能動的意味と受動的(=受け身的)意味があるということです。

   見る  見られるもの                  求める 求められ(てい)るもの

   see the sights             ask a question

  同族目的語という文法用語があります。「dream a dream(夢を夢見る)」「sing a song(歌を歌う)」などのdream やsongが前の動詞との関係で語源的にも同じで、同族目的語と言われていますが、fight(戦う)とbattle(戦闘、戦い)も、「fight a fierce battle(激しい戦いをする)」というように結びつき、語源的には異なりますが同族目的語として扱われます。そうすると、「see the sights」のsightはseeと同語源ですから、同族目的語であるのは言うまでもありませんが、「ask a question」のquestionも「求められること」という意味を含んでいると考えられますので同族目的語の一種と見ることができます。②の英文をここに再度示します。

  ② Taro asked a question of me.

    太郎は私に質問をした。…通常の和訳

 ここで、askedを「求めた」と訳そうとすると、questionは「質問」と訳すとおかしくなります。

  ②a  太郎は私に「求められ(てい)るもの(≒答)」を求めた。…異例の和訳

  私がなぜ②aのような和訳をするのかというと、①のaskedも②のaskedも英語を母国語とする人にとってほぼ同じ意味に持つ言葉に理解されているとしたら、②の「question」の訳語が適切さを欠いていると考える必要があるのではないかと考えたからです。 questionの訳語の「質問」は文字通りには「問い質ただすこと」、「問い質し」ですが、受け身の意味を持つと考えると、「問い質され(てい)ること」、「問い質され(てい)るもの」という意味になります。②の英文は、

  ②b 太郎は私に「問い質されているもの(求められているもの≒答)」を求めた。

とすると、askとquestionが結びつく場合も、英語のネイティブ・スピーカーはaskを「求める」という意味合いで理解していることが了解できると思います。

 つまり、“sight”という名詞が「見ること」と「見られるもの(=景色、名所)」というように能動と受動(受け身)の両方の意味で用いられるように、“question”も「問い質していること」と「問い質されているもの」という能動と受動の意味があると考えることも可能です。ここで、私が言いたいことはquestionの訳語として「質問」「疑問」「問題」だけでは不十分ではないかということです。

 最適かどうかは別として、ask(求める)に対するquestionの訳が「質問」が適当でないとして、それに代わる訳を新たに考えると、「被問」はどうでしょうか。“被”は「被告(告発されること、告発される人)」というように“受け身”を表すときに使われる語であり、日本語でいえば受け身の助動詞の「れる」「られる」に相当する語です。もちろん、「被問」は私の造語であり、辞書にはない言葉です。

   被問=問われ(てい)ること、問われ(てい)るもの →答

ということで、「被問」が裏に持っている意味は「答」ということです。

 さて、「ask a question」の“ask”が「求める」という意味で英語のネイティブは理解している(らしい)ということが分かってもらえたでしょうか。

 ここで、さらに理解しやすくするために、米国人から③と④の「きいた」について質問されたとしましょう。

   ③太郎は私の名前をきいた(聞いた)。  Taro asked my name.

   ④太郎はクラッシック音楽をきいた(聴いた)。  Taro listened to classical music.

 米国人の質問: ③の「きいた(聞いた)」と④の「きいた(聴いた)」は、意味がまったくちがっていますよね。③の「きいた」は英語にすると「asked」で、④の「きいた」は「listened to」になり、意味がまったくちがっていますから。

 私の答: ③の「きいた」も④の「きいた」も基本的には同じ意味ですし、同じ語源です。音や声を「聞く」ということですが、音楽を「聞く」ときには「聴く」を使うことになっています。③の「きいた」は「訊いた」とする人もいます。日本語では微妙なニュアンスの違いを漢字によって書き分けることがありますが、耳で聞く場合には③と④の「きいた」はほぼ同じ意味として理解しています。

 私がBillさんにした質問は、上記の米国人の質問と同じだと思われます。①のaskedと②のaskedがBillさんには同じ意味の言葉に聞こえるように、③と④の「きいた」が私には同じ意味の言葉に聞こえるのです。

  以上、この小論では、“ask”が二つの違う意味をもっているのか、また、“question”という単語を英和辞典はその意味を正確に捉えて訳しているのかを検討しました。外国語の単語を日本語に翻訳するのは非常にむずかしいことです。それぞれ意味する範囲がピタリと重なることは希で、どうしても重ならない範囲がでてきます。これを常に念頭に置いておく必要があります。現在の英和辞典のaskとquestionの訳(語義)が間違っているということではありません。不十分なところがあるということです。

(上の写真: 左に立っているのが40代前半の私[永井津記夫]。 右に座っているのがビルさん。家庭科の調理室を使わせてもらって会食をしています。1991年12月撮影。)

※Billさんは私からの文法上の質問に当惑の色を浮かべながら答える、気弱な、優しい性格の人でした。私は彼が熱心に日本語の勉強をしており、漢字に苦労しているのを見て、『英語の漢字クイズ(Nine-House Kanji Quiz)』を作ることにしたのです。  私はBillさんに文法的なことはあまり聞かないようにしました。彼は名門のGeorgetown大学卒の若者でしたが、専攻は英語や言語学ではなかったのであまり文法上の細かいことを訊くのは無理だということを悟ったからです。日本人で一流の大学を卒業していたとしても、国文科の出身で国語文法に特に興味を持って勉強した人でもないかぎり、米国人から「この助詞の『の』は格助詞ですか、終助詞ですか、接続助詞ですか、並立助詞ですか」、「この『の』は所有の『の』ですか、それとも所在の『の』ですか」というような質問をされたとしたら、答えられないのと同じです。

 Billさんとは会話中に“no way”という言葉が出てきて、一瞬、ムカッとしそうになったことがあります。

 私は考案した「Nine-House Kanji Quiz」を読売新聞が発行している英字新聞のデイリー・ヨミウリ(The Daily Yomiuri)に採用を依頼したところ、「Kanji Class」というコラムを作って毎週掲載してくれることになりました(Kanji Classは1992年から1999年まで連載されました)。それを、Billさんに知らせたときに、

  No way! (2秒ほどして) Congratulations!

とBillさんは反応しました。私は「no way=とんでもない、絶対にない」と理解していたので、「なんてことを言うんだ。失礼な」と一瞬、思ったのですが、彼は「Congratulations!」と続けたので「多分、no wayの意味を取り違えているのだろう」とすぐ思いなおしました。後で調べると、確かに、「no way=あり得ない→信じられない→すばらしい」というような意味でも使うのだということが分かりました。この意味のno wayはまだ普通の辞書には記載されていないようです。スラング(俗語)の段階の言葉なのでしょう。

                                                                  (2017年7月26日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


英文法のはなし①

2017-07-16 18:29:55 | 英語教育・英文法

英文法のはなし・・・分詞構文

 

 分詞構文について、生徒 (昔、生徒だった人も含めて) の中に誤解をしている人がいるのでここで説明しておきたいと思います。英語を教える立場の人でも誤解をしている人がいるかも知れません。また、併せて日本語の助詞「の」についても言及してみたいと思います。

 次の英文はどう訳しますか。

   ① Living near my father’s house, I often see him. 

      ② Living near my father’s house, I seldom see him. 

  ①は、

      父の家の近くに住んでいるので、よく父に会います。

  ②は、 

    父の家の近くに住んでいるけれども、めったに父に会いません。

というように訳せばよいということになります。そして、①と②は、

  ①=Because I live near my father’s house, I often see him.

      ②=Though I live near my father’s house, I seldom see him.

 (※①は普通、becauseではなく、asを用いて書き換えますが、接続詞のasは辞書には「~ので」のほかに「~けれども」の意味にも用いる場合があり、多様な意味で使われる、あいまいな意味を持つ[ように見える]接続詞なので、ここではわざとbecauseを使っています。)

というように、接続詞を使って書き換えることができる、という説明が英文法書などに載っています。教師もそのように教えます。

 そうすると、全ての生徒が、①のLivingは「住んでいるので」という意味を持ち、②のLivingは「住んでいるけれども」という意味を持っているのだと考えてしまいます。私も高校生、大学生のときにはこのように考えていました(どの先生も教えてくれなかったからです)。おおざっぱには、このように考えていいのですが、厳密に言うとこれは間違いです。

 Livingはいちばん近い日本語に訳すと「住んでいて」というほどの意味しか持っていません。「~ので」や「~けれども」は後続の語句との関係でそのような意味合いが生じるのです。 前後の結びつきによって、いろいろな意味を持っている(ように見える)のです。これを常に念頭において英語などの外国語の翻訳にあたらなければなりません。

 次の例文を見て下さい。

 ③Seeing the policeman, the burglar ran away. その警官を見て、強盗は逃げた。

  ④Seeing the policeman, the burglar didn’t run away. その警官を見て、強盗は逃げなかった。

 この③と④のSeeingを「見て」と訳して、後ろの語句と結びつけた場合、③はごく自然に結びつきます。④もそれほど違和感なく後ろと結びつくようです(「見て」から接続助詞の「て」を取り、「見」という連用形だけにすることも可能)。しかし、③、④は、

  ③→その警官を見たので、強盗は逃げた。

  ④→その警官を見たけれども、強盗は逃げなかった。

というように和訳するのが自然だと思われます。要するに、現在分詞(~ing)は日本語の連用形か、その連用形に接続助詞の「て」を付加したものに相当する意味をもっているだけと考えられます。

 次の英文はどのように訳せばよいでしょうか。

  ⑤ Having a tremendous deal of money, he is unhappy.

  *⑤a 途方もない金を持っていて、彼は不幸せです。

    ⑤a1 途方もない金を持っているけれども(子供は一人も無く) 彼は不幸せです。

    ⑤a2 途方もない金を持っているので(子供たちが相続争いを起こし) 彼は不幸せです。

 havingには「持っていて」「持っている」くらいの意味しかなく、「持っているけれども」や「持っているので」というような意味は、この場合は彼の“生活環境”から、そのような意味合いに訳す必要性が生じてくるのです。

   

 「の」という格助詞があります。辞書などを見ると、その意味、用法が載っています。

の…下の体言に対して種々の関係(所有、所属、所在、材料、同格、主格、目的格など)において限定・修飾する。「私の本(所有…私の持っている本)」「彼の手(所属…彼に属する手)」「山の家(所在…山にある家)」「石の橋(材料…石でできている橋)」「兄の太郎(同格…兄=太郎)」「母の愛(主格…母が[子を]愛すること)」「子供の救出(目的格…子供を救出すること)」など、

 助詞の「の」は深く考察すると、多様な意味合いを持っていることがわかります。あるロシアの言語学者によると、日本語の助詞「の」の用法は六十数種類あるそうです。

 「花の家」とはどのような「家」でしょうか。

  ①花のように美しい家  ②(たくさんの)花で囲まれている家 

  ③花を美しく飾った家    ④花で作られた家(cf. 菊人形)  

  ⑤壁に花の絵が描いてある家  ⑥花さんの家  ⑦花(地名)にある家  

というような意味を持つことが考えられます。これは「の」がいろいろの意味を持っているのではなく「AのB」という結合関係において、AとBが有する諸条件、諸環境からいろいろな意味を持っているように見えるのです。助詞「の」がいろいろの意味をもっていると考えると、それは厳密には誤った考えになります。しかし、辞書等はそのことを明示していません。

 万葉集の歌の中に、次のような助詞の「の」が出てきます。

  眞草刈 荒野者雖有 葉過去 君之形見跡曽來師 (巻一・47)

  真草まくさ刈る 荒野あらのはあれど黄葉もみちば過ぎにし君が形見とそ来し *注

  草を刈るような荒野はあるけれども、黄葉のように過ぎてしまった君の記念の地として来たのだ  

     [『万葉集全講 上』(武田祐吉著 1967年 明治書院刊)より]

 諸家、前半の「真草刈るあらのはあれど」と断定の助動詞「なり」の連用形の「に」を読み添えていますが、原文には「に」を示す文字はないので私は「に」を読み添えるべきではないと考えていますが、今はこの部分はさておき、「黄葉」の「の」は「のように」という意味を持つ語として通常、辞書等では説明されています。しかし、「の」は、実際には、動詞「過ぎ」の主格として「過ぎ」に結合していると見るべきです。

  黄葉の過ぎ

     過ぎにし君が形見とそ来し

「過ぎ」の部分が「掛詞(かけことば)」となっていて、「過ぎ去ってしまった(死んでしまった)君」を「黄葉の過ぎ(=黄葉が散り去り)」が呼び起こす一種の「序詞(じょことば)」となっています。それに、注意しなければならないのが「掛詞かけことば」の定義で、国語学辞典などでは「掛詞は同音異義語」としています。つまり、同音同意語は掛詞とは見ていないのです。このために万葉集に数多く出てくる「同音同意語」の掛詞を捕捉してはいないのです「黄葉の「の」は主格の「の」とすべきなのですが、「のように」の意味を持っているとすれば理解がしやすいので、通常、辞書は比喩を表し「~のように」という意味であると説明しています。しかし、これは、そのような意味だと考えると理解しやすいだけで、「過ぎ」の重なり(“同音同意語”としての重なり)を捉えておらず、私から見れば誤りに近い見解です。助詞「の」は「AのB」において、AとBをゆるく結びつけ、AとBとの関係から、所有や所属や所在や材料や主格というような意味合いが生じてくるのです。「~のように」というような“重い”意味を持っているというような捉え方は、理解をしやすくするための説明(方便)としては成立しても語の正しい認識、正確な理解からははずれています。(※「もみちばの」は五音で構成され枕詞まくらことばです。枕詞も後続の語句を呼び起こす「序詞」の一種ですが、五音のものは「枕詞」とされています。が、「~の」の枕詞が動詞や形容詞に結びつく場合は、助詞「の」を主格の「の」として、後続の動詞、形容詞を含めて序詞とし、同音同意語の掛詞として訳出する必要があると考えています。国語学者の佐伯梅友博士は「同音同意語の掛詞」までは言及されていませんが、助詞「の」に関しては私と同様の見解を述べられています。)

 さて、英語の分詞構文の説明からだいぶ離れてしまいましたが、英語の現在分詞(~ing)も「~なので」や「~けれども」というような、はっきりと理由や譲歩を示す意味をもっているのではなく、「~し(て)」という日本語の連用形か、連用形に「て」の付いたような意味をもっているだけだ、ということです。

  Seeing me, Tom did not run away.  私を見(て)、トムは逃げなかった。

 上の英文は、

  私を見たので、トムは逃げなかった。

  私を見たけれども、トムは逃げなかった。

のように、状況によってはどちらの意味にもとれます。というより、この seeing はもともと、「見(て)」というほどの意味しか持っていないのです。むしろ、あいまいに、どちらの意味にもとれるように訳しておいた方が後続の文との関係でよい場合もあります。

 辞書や文法書などに載っている語句の説明や意味は、よく吟味して用いないと、正確な理解や翻訳にとって不都合を生じることがあります。 (2017年7月16日記)